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第16話:食卓に三つの過去

 時計塔の巨大な歯車が軋む重い金属音が、朝の冷気を規則正しく揺らしていた。


 帝国の騎士団が平原の彼方へ引き上げてから、一夜が明けた。

 俺の望む静かな生活は、どうにかこうにか我が家へと戻ってきた……はずだった。


 だが、切実な問題が一つ。


『灰色の月』の台所は、文字通りすっからかんだったのだ。


 昨夜の大立ち回りを終えた後、極度の緊張から解放されたラピスが、買い置きの保存食からパンの耳に至るまで、文字通り残らず平らげてしまったせいだ。


 というわけで、俺たちは朝から大通りの裏手にある大衆食堂へと足を運んでいた。


 朝の混雑時を少し外した時間帯を選び、店の奥にある仕切られた小部屋の丸テーブルを陣取る。


「わたくし、朝から分厚いステーキでも全く問題ありませんわよ! 昨夜はあれだけ働いたんですから、お肉で失われた気力を補給しませんと!」


 フォークとナイフを両手に握りしめ、ラピスが鼻息を荒くしている。

 その隣では、白銀のドレスを着たルナが、湯気の立つ深皿を不思議そうに見つめていた。


「朝からステーキなんて焼いてくれる定食屋があるか。日替わりの卵焼きと、追加の厚切りベーコンで我慢しろ」


「文句なんてありませんわ! 脂の乗ったベーコンがあれば、それはもう立派なご馳走ですもの!」


 やがて、恰幅の良い女将が木盆に載せて運んできた料理が並ぶと、ラピスは歓声を上げてフォークを突き立てた。

 ルナも実体化したばかりの手指で、恐る恐るパンの端をちぎって口へ運ぶ。


「……おいしい。アルス、パン、外がカリカリしてて……中がすごく柔らかい」


「よく噛んで食えよ。急に詰め込むと胃が驚くからな」


 俺は淹れたての珈琲を一口啜り、椅子の背もたれに体重を預けた。


 小部屋の窓から外を見上げれば、何事もなかったかのように穏やかなリンドヴルムの青空が広がっている。だが、昨夜の出来事は夢でも幻でもない。


「……それにしても、どうなることかと思ったぞ」


 俺はカップを置き、溜息混じりに切り出した。


「帝国の部隊に包囲されて、街の外壁が動いて。俺が外の触媒装置を壊していなかったら、今頃街ごと別の空間に放り出されていたところだ」


「ふふん、結果オーライですわ! わたくしが騎士団を無力化して、アルス様があの気味の悪い男を退けた。完璧な連携プレーじゃありませんの」


 ラピスは口元に黄色い卵の黄身をつけたまま、得意げに胸を張った。


「……うん。わたしも、街の外壁があんなふうに動くなんて思わなかった」


 ルナが申し訳なさそうに小首を傾げる。


「まあ、これで少しは静かになるだろう。ヴィクトールの義眼と魔剣の通信回線は直接切ったし、あの空間隔離の触媒装置も完全に叩き割った。少なくとも、同じ手で奇襲をかけてくることはできないはずだ」


 とはいえ、帝国の皇帝がこれで完全に手を引くとも思えないが――と、俺は内心で付け加えた。


 俺はテーブルを挟んだ二人の少女を、順番に見つめた。


「……しかし。お互い、随分と厄介なものを背負い込んでるよな」


 俺の言葉に、ラピスのフォークがピタリと止まった。ルナも、大きな白銀の瞳をこちらへ向ける。


 昨夜までの混乱で流れてしまっていたが、俺たちはまだ、互いの根っこの部分をちゃんとテーブルの上に並べていなかった。


「……そう、ですわね」


 ラピスが静かにフォークを置き、膝の上で両手を揃えた。いつもは騒がしい彼女の横顔に、微かな影が落ちる。


「わたくしの過去は、もうお話ししましたわね。……エデルガルドの王位継承権第三位。でも、王になるためではなく、王座の影で人を間引く『牙』として育てられましたの」


 彼女は自分の白い掌を見つめた。


「一番怖かったのは、人を殺すことそのものよりも……命令を受けた瞬間に、自分の心が何の痛みも感じなくなっていくことでしたわ。国が滅んで、泥を啜って逃げ回っていた時も、生きるために追手を殺すことしかできなかった。……だから、アルス様に拾われて便利屋の看板娘になった後も、ずっと怯えていましたの。本当の私がバレたら、この温かい場所から追い出されてしまうんじゃないかって」


 ラピスは一度言葉を切り、自嘲するように口元を歪めた。


「……ずっと、自分の過去を隠して、ただの小娘のフリをしていましたのよ」


 その告白を、俺は黙って受け止めた。

 次に、ルナがぽつりと口を開いた。


「……わたしも、ずっと怖かったの」


 ルナの白銀の瞳が、少しだけ伏せられる。


「何千年も前に、この街の地下の心臓に残されて……街のみんなが消えていくのを、ただ見ていることしかできなかった。暗闇の中で幽霊になって一人で泣いていた時、一番怖かったのは……暗いことじゃなくて、自分が誰なのか、自分の名前すら思い出せなくなっていくことだったの」


 ルナの手が、胸元をそっと押さえる。


「……でも、アルスが名前をくれて、ラピスが話し相手になってくれて……わたし、少しずつ自分の輪郭を取り戻せた気がしたんだよ」


 過去を隠したくて必死だった少女と、失われた過去を取り戻したくて泣いていた少女。

 俺は空になったカップを指先で弄び、小さく息を吐いた。


「なら、次は俺の番だな」


 二人の視線が、俺に集まる。


「俺も、この世界の人間じゃない。外の世界……まったく別の場所から来たんだ。そこには魔法なんて便利なものはなくて、人間は機械と、自分の頭だけで大抵のことをどうにかしていた」


「……ちょっとお待ちくださいまし!」


 ラピスが目を丸くして身を乗り出した。


「殺されたことも大問題ですけれど、『別の世界』って何ですの!? 海の向こうとかではなくて!?」


「ああ。空の月も一つしかない、ただ理屈と法律で縛られた退屈な世界だ」


「……じゃあ、アルスも一度、死んじゃったの?」


 ルナが心配そうに小首を傾げる。


「まあな。前世の俺は、探偵事務所の調査員だった。浮気調査や素行調査、他人のついた嘘を暴いて、裏側を暴き立てる仕事だ。……最期も、不倫の証拠を突きつけられて逆上した男に、路地裏で包丁で刺されたせいさ」


「刺された……!? 逆恨みで殺されたんですの!?」


「あっけないもんだ。……次に目を覚ました時、変な女神から『あらゆるものを解体して消し去る力』を押し付けられた。お前たちが見ている、俺の力だ」


「……おそろい、だね」


 ルナがふわりと微笑みながら呟いた。


「その括り方は勘弁してくれ」


 俺は苦笑し、自分の右の手のひらを眺めた。


「前の世界じゃ、最後はただの刃物一本で全部が終わった。どんなに集めた証拠も、積み上げた理屈も、暴力の前では何の役にも立たなかったんだ。……だからこの世界に来た時、俺は誓ったのさ。力任せに物事を解決する人間には絶対にならない。強い力があるからって、それで何でもねじ伏せるような生き方はごめんだと。……自分の頭と知恵だけで、目立たず静かに暮らしていこうとな」


 俺がそう締めくくると、小部屋の中が静まり返った。


 処刑役として育てられた亡国の王女。

 数千年の記憶を失っていた古代都市の王女。

 そして、前世で刃物に刺されて死んだ元調査員。


 三人分を並べれば、歴史書の片隅くらいは埋まりそうな、ろくでもない過去ばかりだ。


 ふと、ラピスが吹き出すように小さく笑った。


「……ふふっ。何ですの、それ。全員、過去がろくでもないじゃありませんの」


「……うん。みんな、迷子だったんだね」


 ルナも、ラピスにつられてクスクスと笑い始めた。


「笑い事じゃないぞ。これだけ訳ありが揃っていれば、そりゃあ帝国も放っておかないわけだ」


 俺もつられて口角を上げた。


「だが、お前たちが過去に何を背負っていようと、俺には関係ない。今のあんたたちは、俺の焼いた肉を美味そうに食う看板娘と、ちょっと世間知らずな大家さんだ」


 顔を上げると、二人は目を丸くしていた。


「お前、さっき『ごっこ遊び』と言ったな」


 俺はラピスを見据えた。


「ごっこ遊びなんかじゃない。少なくとも俺は、本気でお前たちと便利屋をやってるつもりだ」


「……アルス様」


「ルナが何千年前の王女だろうが、この街とどんな繋がりがあろうが、俺にとっては今朝一緒にパンを食っているルナだ。それ以上の過去の肩書きなんて、これからの暮らしには何の関係もない」


 ラピスの青い瞳が潤み、彼女はそれを隠すように勢いよく鼻を鳴らした。


「当たり前ですわ! わたくしは『灰色の月』の看板娘、ラピスですの! 過去なんて関係ありませんわ。今のわたくしを構成しているのは、アルス様の奢ってくれるお肉だけですもの!」


「……わたしも。ルナは、ルナだよ。……アルスの、家族」


 家族、か。

 前世の俺にとっては、ずいぶんと遠く、縁のない言葉だった気がする。


「……そうだな」


 俺は静かに頷き、冷めた珈琲を飲み干した。


「よし。これで隠し事大会は終わりだ。今日からまた、『実はまだ隠してました』なんて言い出すのは禁止だからな」


「アルス様こそですわよ! まだ何か別のチート能力を隠し持っているんじゃありませんこと!?」


「あるわけないだろ。……さて、食い終わったら戻るぞ。看板娘と大家さん」


「待ってくださいまし、まだベーコンが半分残っていますわ!」


「……わたしも、たまご、ぜんぶ食べる」


 賑やかな声が、朝の食堂の小部屋に満ちていく。

 過去の重い荷物を少しだけテーブルの上に降ろし、俺たちの便利屋としての、ささやかで騒がしい日常が再び始まろうとしていた。

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