第15話:暴風域の晩餐
「……おいしい。アルス、これ、すごく美味しい」
ルナがぎこちない手つきでフォークを操り、カルボナーラを一口、また一口と運ぶ。
数千年にわたる記憶の空白と、俺たちが出会ってから続いていた実体のない幽霊暮らし。 彼女にとって、味覚という刺激は、何よりも鮮烈な生身の証明なのだろう。
「ふん! わたくしがベーコンを一枚譲って差し上げましたからね。心して味わうのがよろしくてよ、王女様!」
「……うん、ラピス。ありがとう。……でも、ラピスのソース、口の横についてるよ」
「ひぇ!? な、何ですの、その慈愛に満ちた聖母のような眼差しは! わたくし、年上としての立場がありませんわ! あれ? 年下?」
ラピスは慌てて口元を拭い、顔を赤くして毒づく。
かつて二階の暗がりで怯えていたルナが、実体を得てラピスを穏やかにいなしている。
その微笑ましい掛け合いに、俺は少しだけ口角を上げた。
だが、その安らぎは長くは続かなかった。
「……アルス」
ルナがフォークを置き、真剣な瞳で外を見つめた。
「……街の地下から、城壁の外まで、全部伝わってくるの。……帝国の兵隊さんたち、帰ったんじゃない。大通りの向こう、三キロ先の広場に集まって、大きな魔力を練り上げてる」
俺は窓の外へ視線を向けた。
夜の帳が下りたリンドヴルムは、一見すれば静まり返っている。だが、ヴィクトールほどの男が、小隊を撃退された程度で帝都へすごすご引き返すはずがなかった。
あの男は退却したのではなく、偵察を終えて本隊と合流しただけだったのだ。
「連中、街を包囲して何を仕掛けるつもりだ?」
「……街の空間を、丸ごと切り取ろうとしてる。……リンドヴルムを外の世界から遮断する、すごく大きな結界」
「事象の隔離か」
俺は眉をひそめた。都市全体を魔導結界で覆い、外界との連絡を断った上で、じっくりと地下遺構と俺たちを制圧する腹づもりだろう。
「……アルス様。連中、わたくしたちを捕まえるために、街中を巻き込む気ですの?」
ラピスの声が低く沈む。
「いや、街そのものを手に入れるのが奴らの目的だ。……ルナ、街の外縁の防壁を動かして、侵入経路を塞ぐことはできるか?」
「……できるよ。でも、時計塔の出力を最大にして街の外殻を支えても、結界に削られたら数時間が限界……」
「十分だ。その間に、俺が外へ出て大元の触媒装置を叩き折ってくる」
俺は上着を羽織り、立ち上がった。
「ラピス、お前はルナと一緒にこの家を守れ。外で派手に暴れれば、また帝国にお前の位置を特定される」
「……分かりましたわ。アルス様も、無茶はなさらないでくださいましね」
俺は頷き、夜の闇へと滑り出した。
リンドヴルムの市街地を抜け、郊外の平原へと向かう。
俺は前世の調査員時代に叩き込まれた尾行と潜入の技術を総動員した。見張りの視線の死角を縫い、篝火の逆光に身を潜め、規則正しい巡回の隙間を突いて足音一つ立てずに距離を詰めていく。
やがて、平原の中央に設営された帝国特務部隊の陣地が見えてきた。
数百名の魔導騎士が陣形を組み、その中心には、巨大な砲塔のような形状をした青銅製の魔導触媒装置が唸りを上げていた。
「……あれが空間隔離の結節点か」
物陰からその構造に目を凝らす。何重にも編み込まれた術式の束が、夜空へ向けて赤い魔力の光芒を放ち始めていた。
「お前の足音は、実に静かだな。イレギュラー」
背後から、冷え切った声が落ちた。
振り返ると、十歩ほど離れた岩の上に、ヴィクトールが漆黒の長剣を提げて立っていた。
「ヴィクトール。夜の散歩にしては物騒な装置を持ち出してきたな」
「これが帝国特務部隊の仕事だ。君一人がどれほど異質な力を持とうと、この包囲陣形の前には無力だ」
ヴィクトールが剣先を空へ向けた。
「『断罪の檻』、展開」
瞬間、リンドヴルムの街を包み込むように、空一面に禍々しい赤い幾何学模様が浮かび上がった。大気が軋み、街全体が嫌な振動に包まれる。
俺はヴィクトールを牽制しつつ、中央の触媒装置へと地を蹴った。
周囲の騎士たちが一斉に迎撃の詠唱を放つ。飛来する炎の槍と氷の礫。
俺は走りながら、直撃コースにある術式だけを凝視した。炎の槍の推進力を司る核の結合点へ指先を添え、《終焉の理》で弾き飛ばす。
パリン、と小気味よい音がして炎が霧散する。読み切れない軌道の氷礫は身を捻って躱し、最短距離で装置の基部へと肉薄する。
「無駄だと言っている!」
頭上からヴィクトールが跳躍し、漆黒の剣を振り下ろしてきた。
空間を断ち割るような斬撃。
俺は左手の掌を、その切先ではなく――ヴィクトールの右目に嵌め込まれた義眼と、剣の柄を繋ぐ不可視の魔力供給路へと滑り込ませた。
「……種明かしだ、ヴィクトール。あんたのその剣、強さの源はあんた自身の魔力じゃない。その義眼を通じて、帝国中枢から送り込まれる膨大な術式エネルギーだ」
「な……ッ!?」
「切るべきは、剣そのものじゃない。その回線の方だ」
俺は人差し指を弾いた。
「《終焉の理》」
パリンッ!
澄んだ音が響いた瞬間、ヴィクトールの義眼に灯っていた不気味な赤光が掻き消えた。
それと同時に、漆黒の長剣を覆っていた禍々しいオーラが一瞬で霧散し、ただの鈍く光る鉄の剣へと成り下がる。
「……中継回線が、消去されただと!?」
その時だった。
リンドヴルムの中央――時計塔の頂上から、眩いばかりの白銀の光が放たれた。
「――帝国ガラクシアの軍勢に告げますわ!」
街中に響き渡る、凛とした少女の声。
時計塔の天辺で、ラピスが銀灰色の髪を夜風になびかせ、白銀に輝く『街の鍵』を高々と掲げていた。
「わたくしはエデルガルド王家のラピス! そして今は『灰色の月』の看板娘ですわ! わたくしたちの穏やかな晩餐を邪魔する不届き者には、街の防壁でお灸を据えて差し上げますわよ!」
ラピスの掲げた鍵と呼応するように、街の外縁を囲む石造りの外壁が重厚な地鳴りを立ててせり上がった。
大通りが幾重にも折れ曲がって迷路を形成し、平原へ展開していた騎士団の補給路と退路を一瞬にして分断していく。
『……アルス、聞こえる?』
ルナの澄んだ声が、街の魔力循環を通じて俺の耳元に届いた。
『街の外郭防壁、全部動かせたよ。……でも、不思議。ラピスが鍵を持ったら、わたしと同じくらい自然に、街のシステムがラピスの声を聞いてくれたの……』
エデルガルドの王族であるラピスに、なぜ古代都市の管理権限が通じるのか。
思考の隅に小さな疑問が引っかかったが、今は目の前の決着が先だった。
俺は無防備になった中央の触媒装置の制御盤へ右手を叩きつけた。
「これで終わりだ」
パリンッ!
青銅の触媒装置の心臓部が音を立てて砕け散り、空を覆っていた赤い結界がガラス細工のように弾け飛んだ。
結界が崩壊し、街を包んでいた重圧が消え去る。
魔力供給を絶たれ、触媒装置を破壊されたヴィクトールは、地面に落ちた剣を見下ろした。
「……中継器を断たれ、触媒も失ったか。これ以上の交戦は無益だな」
ヴィクトールは動揺を見せることなく、冷静に息を吐いて剣を拾い上げた。
「退くぞ」
男は周囲の騎士たちに短く下知を飛ばすと、マントを翻して俺を一瞥した。
「……事象を直接解体する力か。皇帝陛下への報告書は、随分と骨が折れる内容になりそうだ」
ヴィクトール率いる特務部隊は、整然と隊列を整え、夜の平原の向こうへと去っていった。
『灰色の月』のリビングへ戻ると、ルナとラピスが玄関まで出迎えてくれた。
「……アルス、おかえり」
「おかえりなさいませ、アルス様! 見ましたこと? わたくしの見事な鍵の扱い!」
「ああ、街中によく響く声だったよ」
俺は苦笑し、不精髭の顎を擦った。
「さて、と。冷めきっちまったカルボナーラを温め直すか。お前たちの分も、少しベーコンを追加してやる」
「やったー! 追加のベーコンですわ!」
騒がしい声が、静けさを取り戻した家の中に満ちていく。
数日後。大陸北方、帝国ガラクシアの帝都宮殿。
無駄な装飾を排した執務室の机で、皇帝ジークハルトは届けられた極秘報告書に目を落としていた。
「……ヴィクトールが、手酷く退けられたか。魔導兵器の核を一撃で解体され、義眼の術式回線を直接切断された、と」
机の傍らに控える近衛兵が、緊張に身を固くして伺いを立てる。
「……陛下、直属の軍団を増派し、リンドヴルムを武力封鎖いたしますか」
「愚か者が」
ジークハルトは短く切り捨て、書類を机の上に置いた。
「兵で勝てぬ相手に兵を増やすなど、無能のすることだ。……それに、あの男は軍事衝突を望んではおらん。路地裏でしがない便利屋を営んでいるのだろう?」
皇帝の口元に、冷徹で知的な笑みが浮かんだ。
「便利屋なら、依頼を出せばいい。……次はこちらから、最高の『依頼』を届けてやろう」




