53
エドワードの妻であるセリーヌ・フォン・アシュトレイヤは、検問所からの報告に手を止める。
執事の目を見つめて静かに問いかけた。
「…『美しい薔薇』と言っているのね?」
執事は恭しく頭を下げた。
セリーヌ夫人は美しい指先を顎に添えてほんの少し間を置いた。
「…我が家に案内するように伝えてちょうだい」
一瞬の思考ののち、短く執事に指示を出す。
そして優雅さを損ねない動きで素早くメモを書き付けると、そばに控えていた使用人に手渡した。
「あの人に届けて」
メモを受け取った使用人もまた、静かに頭を下げた。
無駄のない動きが、この家の統制の取れた秩序をはっきりと示していた。
セリーヌは力が抜けたようにソファーに深く沈み込む。
「エルダリア国のヴァリエール侯爵家…。一体何が目的なのかしら…」
接点の無さすぎる隣国の侯爵家に、心当たりもなくセリーヌは眉を寄せる。
「いいえ。まずは会ってみましょう…それから判断しても遅くないわ」
漸く掴んだかもしれない娘の手掛かりに、不安と期待が入り混じる。
セリーヌは気持ちを落ち着かせるために、深く息を吐いた。
「本当にカミラったら困った娘ね…」
―――その困った娘は、アイリスの腕の中で大人しくぬいぐるみを気取っていた。
アシュトレイヤ侯爵家に向かっているところだ。
乗っていた馬車は役人が後から届けてくれるということで、セドリックとグレンもアイリス達と馬車の中に向かい合って座っている。
「すごい、なんて豪華!それに全然揺れない!!」
さすがは侯爵家からの迎えの馬車だ、と馬車の内装に感激するアイリスにグレンが嫌そうな顔をする。
「喧嘩売ってんのか…」
「ち、違うよ!」
慌てて手を振るが、腕の中のカミラがふふんと顎を上げるのでグレンの機嫌は悪いままだ。
「ほほほ。これが本職の技術よ!」
苦い顔のグレンに勝ち誇って宣言する。
セドリックは苦笑しながら、グレンの肩を軽くたたいて慰めた。
「まあまあ。それにしてもすぐに会ってもらえるなんて、それはそれで緊張するね?」
セドリックがあまりにもあっさりと侯爵家に招待されたことに少しだけ警戒の色を滲ませた。上手くいくに越したことはないが、行き過ぎると罠かと疑いたくなるのは仕方ないことだろう。
「つったって、会ってくれませんじゃ、話にならねぇだろ。腹くくれよ」
グレンが肩に置かれたセドリックの手を振り払いながら、ふっきったように告げた。
こういう切り替えはグレンの方が早い。
「図太さの差かしら?」
カミラがつぶやくとグレンの手のひらが頭にポスっと沈んだ。
「何するのよ!」
「本当に口の減らねえ女だな!」
「もう!喧嘩しないでったら」
言い合いが始まる前にアイリスがカミラをぎゅっと抱きしめる。
カミラがアイリスの腕の中でじたばたしているが、気にせずアイリスは話題を変えた。
「それにしても、カミラの「合言葉」みたいなやつ!思い出せてよかったね?」
「…この国に入ってから、少しずつ思い出してきてると思うの」
迎えの馬車が検問所に到着したとき。
その馬車に刻まれた紋章を目にしたカミラが急に頭を押さえて呻いた。
「あの時は驚いたけど…」
アイリスが、思い出して少しだけ顔色を悪くした。
ぬいぐるみなのに痛みを訴えたカミラに心臓が止まるかと思った。
「でも、これで少なくとも家族にはわたくしがカミラだと伝えることはできるわ」
「貴族ってすごいよね。セドリックの比喩も全然分からなかったけど、カミラの家にも迷子になったとき用の合言葉あるなんて!」
アイリスはしみじみと感心するが、セドリックとグレンは微妙な顔をした。
迷子になったとき、というより誘拐された場合に備えた暗号に近い気がする。
それは侯爵家かあるいはカミラその人が、常に危険にさらされる立場の人間であるという事でもある。
「おまえたちがどう思っているかは想像つくけど、こればっかりは多分アイリスの感想の方があっているわ…」
うっすらと蘇りつつある自分の記憶を辿りながらカミラが嫌そうに呟いた。
遠い思い出のように浮かぶ家族が、なんだか面倒くさそうな人間な気がする。
そんな話をしているうちに、馬車は壮大なアシュトレイヤ侯爵家の敷地に入るための門を潜り抜けた。
そして見えてきた城のように大きな屋敷にアイリスは目を丸くした。
四人の出迎えにずらりと並ぶアシュトレイヤ侯爵家の使用人が一斉に頭を下げる。
セリーヌ・フォン・アシュトレイヤ夫人が優雅に出迎えた。
「お母様…」
アイリスの腕の中で、カミラの声が小さく漏れた。
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