13
中庭での騒動など知るよしもない大司祭サイファが、書類を手に戻ってきたのはカミラ達が部屋に戻った直後だった。
「ふぅ、危ないところだったわね」
黒いクマのぬいぐるみがグレンの腕の中で呟いた。
「いや、入れ替わりが間に合ってねぇだろ…」
グレンが小声で呟くと、カミラが短く命令した。
「何かあったらおまえ達がなんとかなさい」
「人使いが荒くね…?」
「おまえ達の仕事よ」
それっきりカミラは黙り込む。
ぬいぐるみに徹するようだ。
アイリスの髪の色を見た大司祭が少しだけ間を置いて、やがてゆっくり微笑んだ。
「待たせてしまったかな、アイリス」
柔らかな声にアイリスは首を振った。
「いいえ!全然!!」
明らかな異変には全く触れず、サイファがアイリスの正面に腰を下ろした。
セドリックはアイリスの隣に、グレンはアイリスの背後に控える。
「こちらがお二人を護衛に任命するという正式な決裁になります」
アイリスではなくセドリックに書類を手渡す。何も言わず受け取ったセドリックがざっと書面に目を通す。
「結構です。ところで、なぜ私に?」
「アイリスでは契約書を判断できませんので…」
恐らく黒髪の方はできただろう。ついでに追加項目をしれっと要求してきたかもしれない。
だが、『この』アイリスには無理だ。
サイファは表面上、カミラの異変を無視していたが、明確に二人を区別して対応することに決めていた。
「そうですか…まぁ、そうなりますよね」
セドリックもそれ以上は追求せずに書類をサイファに戻した。
「で、アイリスは護衛を雇って何をしたいのかね?」
サイファがゆっくりアイリスを見つめた。アイリスは目をパチパチさせると両手を胸の前で合わせて口元を引き締めた。
「外を…神殿の外を見てみたいです」
「外を?」
「はい。みんなが安全に暮らしてるかとか、気になります!」
セドリックがまじまじとアイリスを見つめた。
強烈なカミラの影に隠れていて、自分の意思なんて無いのかと思っていたアイリスにも明確に希望があったようだ。
アイリスはアイリスで、実は少しだけ緊張していた。本当の目的は外の世界に出てカミラのことを調べることだったからだ。
(さ、サイファ様に、嘘をついてしまったわ!!)
だらだらと汗をかくアイリスに気がつき、セドリックが小さく吹き出した。
「聖女様は、各地をお巡りになり、ご自身の結界をその目で確かめたいそうですよ?」
「結界を?」
「ええ。これまでは機会に恵まれなかったようですが」
サイファはほんの少し思案し、目を細めた。アイリスの体に取り憑いた黒髪の少女を無意識に頭に浮かべる。
「アイリスは神の声を聞いたのかい?」
「神様の?いいえ!神様はいつも、なにも仰いません。あるように、なすようにと見守ってくださっています」
サイファの表情がピクリと動いた。
何かが、引っ掛かった。
「アイリスは『声』は聞こえないけど、神を感じているんだね?」
「はい!」
爽やかで元気の良い声だった。
サイファは自分にとって、これほど不吉な声を聞いたことはない。
笑顔の仮面を用心深く着け直す。
神の声を聞いたことはないアイリスは大聖女にはなり得ないと判断したが、果たして正解だったのだろうか…
「一度、神殿本部から離れてもらうのも悪くないのかもしれないな」
小さな呟きはアイリスには届かなかった。
「確かに直にご覧になるのは良いことのように思います」
サイファは大司祭として慈悲深い笑顔を作った。聖女の伝説を調べ直す必要があるかもしれない。
その間、このアイリスはともかく『もう一人』はここから引き離したい。
「本当ですか!」
両手を叩いたアイリスの声が明るく弾んだ。
「では、私が留守の間も困らないように結界強化のマニュアルを、後でお渡ししますね!」
「…はい?」
「マニュアル…あった方が良いですよね?」
サイファが珍しく表情を取り繕い損ねて、ぽかんとアイリスを見つめた。
「そんなものがあるのかい?」
「はい!四人くらい必要ですけど、ちゃんと出来ると思います!」
おどおどしているだけの娘だと思っていたら、思いの外リスクヘッジのできる娘だった。いつの間に作ったのか…。
「もし私が何も出来なくなったら、みんな困ると思ったので作っておきました!」
ドンと胸を張るアイリスの背後で、クマのぬいぐるみが思わず声を漏らした。
「呆れたお人好しだわ…」
「それについては激しく同意する…」
グレンが同じように小さく息を吐いた。
こうして、思いがけず用意周到なアイリスのマニュアルのおかげで、思ったよりあっさりと地域視察の許可が下りたのだった。




