これは分析じゃない
ドアの向こうから、小さな鼻歌が聞こえた。たったそれだけで、足が動かなくなった。
放課後。放送室のドアに手をかけたとき、中から声が聞こえた。
声というより、音。メロディ。
音羽澪が鼻歌を歌っていた。
ドアを五センチだけ開けた状態で、真白陸は動けなくなった。
小さな声。歌詞のない、メロディだけのハミング。来週の放送で流す予定の曲を、音羽がなぞっている。選曲作業の途中で無意識に口ずさんでいるのだろう。イヤホンを片耳だけつけて、もう片方の耳は外している。
合唱コンクールで声が出なくなった音羽が、鼻歌を歌っている。
誰もいないと思っている放送室で、一人で、小さく。
声が柔らかかった。放送のときの落ち着いたトーンとも、俺と話すときの少し高い声とも違う。誰にも聴かせるつもりのない、自分だけの声。
胸が痛い。
比喩じゃなく、物理的に。胸の真ん中を手で押されたような圧迫感がある。呼吸が浅くなる。
これは何だ。
俺は声を分析する人間だ。音羽と半年以上過ごして、声のトーンから感情を読み取ることを自然にやるようになった。嬉しいときの半音、蓋をするときの温度低下、緊張のときの細さ。全部、パターンとして頭に入っている。
でも今、胸を圧迫しているこの感覚は、分析の結果じゃない。
音羽の鼻歌を聴いて、ただ苦しい。
苦しいのに、聴いていたい。ドアを開けて「来たぞ」と言えばいいのに、この五センチの隙間から漏れてくる音羽の声を、もう少しだけ聴いていたい。
……これは分析じゃない。
分析なら、こんなに心拍数は上がらない。パターン認識なら、掌に汗はかかない。データ収集なら、息を殺してドアの前で立ち尽くしたりしない。
分かっていた。とっくに分かっていた。十九話目の自分がすでに認めた。音羽が好きだと。
でも「好き」という言葉は、あのとき頭の中で処理しただけだった。感情にラベルを貼った。名前をつけた。それで整理したつもりになっていた。
違う。全然整理できていない。
音羽の鼻歌を聴いただけで胸が痛い。音羽の笑い声を思い出すだけで心臓が跳ねる。音羽の手の温度を思い出すだけで、手の甲が熱くなる。
ラベルを貼っただけでは足りない。この感情は、名前をつけたくらいでは収まらない。
好きだ。
頭じゃなく、身体が言っている。心臓が言っている。掌の汗が言っている。浅くなった呼吸が言っている。
音羽の鼻歌が止まった。
「……あれ」
音羽がドアの方を見た。五センチの隙間から、俺の靴が見えたのだろう。
「真白くん?」
観念してドアを開けた。
「……いつからいたんですか」
「今来た」
「嘘ですね。靴の影が見えてました」
「……」
返す言葉がない。
「聴いて、ました?」
音羽の耳が赤い。声が半音高い。恥ずかしいときの声だ。
「少しだけ」
「少しって、どのくらいですか」
「……サビの手前くらいから」
「ほぼ全部じゃないですか」
「……すまん」
音羽がイヤホンを外して、両手で顔を覆った。指の隙間から赤い肌が見える。
「ノックしてください。絶対ノックしてください。次から」
「する。約束する」
「……もう。恥ずかしい」
音羽が手を下ろした。頬がまだ赤い。でも、怒ってはいない。声に棘がない。
「でも」
俺は椅子に座りながら言った。
「いい声だった」
音羽が目を瞬かせた。
「……それ、フォローですか」
「事実だ。合唱の経験があるから、音程が安定してる。ハミングでも声の芯がしっかりしてた」
「分析しないでください」
「分析じゃない」
口が先に動いた。
「……ただ、聴いていたかった」
放送室が静かになった。暖房の音。秒針の音。
音羽が何かを言いかけて、やめた。口が開いて、閉じて、また開いた。
「……ありがとう、ございます」
かすれた声だった。感情が声の制御を超えたときの、あの震え。
俺は黙って選曲リストに目を落とした。文字が全く頭に入らない。
好きだ。
もう整理とか分析とかの問題じゃない。音羽の声を聴くと胸が苦しくなる。音羽が笑うと息が詰まる。音羽の鼻歌に足を止められる。
身体が全部、答えを出している。
あとは、この答えをいつ声にするか。それだけだ。
分析じゃない。パターン認識でもない。胸が痛いのは、ただ好きだからだ。もう誤魔化せない。




