奪還の構図
ビアトリクスがヴィクセル川でアンドラ公国に捕らわれてから約一か月。
アンドラ公都に移送されてから約一週間後のある日であった。
黒蜘蛛戦争の敗北により、サイサリス公国はその体制を失い、公女であるビアトリクスはアンドラ公国の支配下に置かれていた。
ビアトリクスに与えられた環境は不自由のないものであったが、その実態はサイサリス公国の血統を利用するための管理であり、婚姻を通じた支配が想定されていた。
その状況下で、シュール大公の手配により一人の商人が彼女のもとを訪れた。
サイラス商会を率いるモーゼルと、その従者であった。
モーゼルは商人として応対を行うが、ビアトリクスはこれを拒絶する。
アンドラ公国の施しを受ける意思はなく、提示された品々にも興味を示すことはなかった。
その態度を確認した上で、モーゼルは本題を切り出す。
商人としてではなく、協力者としてビアトリクスをこの地から連れ出す意思があると告げた。
サイサリス公国の再興を目指す提案であった。
だがそれは現実性に乏しく、アンドラ公国の監視下にある現状で成功するとは考え難いものであった。
ビアトリクスはサイラス商会のモーゼルの提案を、即座に拒絶した。
しかしモーゼルは感情を交えず、ビアトリクスが置かれた状況のみを提示した。
黒蜘蛛戦争の結果、サイサリス公国は既に崩壊しており、外部からの救援は期待できない。
アンドラ公国はビアトリクスの血筋を利用し、婚姻によってサイサリス公国の支配を確定させる。
あるいはシュール大公自身が介入し、彼女を側目する可能性もあった。
ビアトリクスに時間は残されていなかった。
その上でモーゼルは従者を紹介する。
ゼインであった。
ビアトリクスは、その態度に不快感を覚える。
だがゼインと言う名を聞き、ルグルスの大森林の盗賊団を率いる人物であることを知る。
ゼインは端的に告げる。
成功の保証はない。
だが勝機はある。
そのために一か月の準備期間を設ける。
その間、ビアトリクスには体調不良を装い、人前に出る機会を減らすことを求めた。
モーゼルが提示した薬は毒ではなく、外部との接触を制限するためのものであった。
医師には敗戦による心労と判断される想定であった。
ビアトリクスは二人の男に報酬を確認する。
ゼインは明言する。
自らが王になるための行動であると。
その手段としての救出であった。
ビアトリクスは即答せず、条件を提示する。
サイサリス公国の旧臣による救援があった場合はそちらを優先する。
一か月の猶予を設け、その間に判断する。
モーゼルはこれを受け入れる。
ゼインはビアトリクスの条件に不満を示すが、計画はこの条件のもとで進行することとなった。
その後の一か月、準備は徹底して行われた。
ゼインのもとには、エルヴィス、セミラミス、マザラン、ブーディカ、エイナルらが集まり、少数精鋭での行動が前提とされた。
大規模な戦力の動員は行わず、機動性と秘匿性が優先される。
脱出後の経路は複数検討されたが、最終的に選定されたのは大きく迂回するルートであった。
アンドラ公国領内を東へ進み、ティモール王朝へ入り、そこから南下し草原を西へ横断する。
最終目的地はサイサリス公国南部のアラモ城塞都市。
総行程は約千七百キロに及ぶ。
最短距離の直行ルートは排除された。
追撃を受けることを前提とし、それを回避するための選択である。
補給は最小限とし、現地調達を基本とする。
草原の民との関係を利用し、移動の自由度を確保する計画であった。
同時に、作戦は脱出そのものだけでなく、その後の追跡を分断することまでを前提として構築されていた。
誘拐という形を取り、身代金を要求することで、アンドラ公国が事件を公にできない状況を作る。
さらに痕跡を操作し、盗賊の犯行か、サイサリス公国旧臣の関与かを判別できない状態を意図的に作り出す。
一方、モーゼルはサイラス商会としての立場を維持しながら、公国内部の情報収集と分析を進めていた。
シュール大公とレギレウス将軍の判断傾向、公城内の動き、警備の配置。
それらは既に整理されており、内部構造も把握されていた。
商都ハンザとの関係も維持され、シモーネを通じた外部情報の流通も確保されていた。
閉ざされた部屋で過ごすビアトリクスは、これまでの事を考えていた。
黒蜘蛛戦争の敗北までの事、開戦に至った父の決断、ローガン侯爵の進言。
答えは出なかったが、このまま捕らわれの身として利用されるだけの存在で終わることは受け入れられなかった。
やがて一か月が経過する。
再び現れたゼインとモーゼルは、準備が整ったことを告げる。
ビアトリクスは短く応じ、その意思を示した。
その夜。
ゼインを中心とした部隊は、公城への侵入を開始する。
事前に把握された構造と警備の隙を突き、ゼイン達は音もなく外壁を越える。
遭遇した兵は最小限で排除される。
警戒される前に内部へと進入する動きに無駄はない。
ビアトリクスの部屋へは、事前の連携により侵入経路が確保されていた。
短い確認のみで撤退へ移行する。
脱出は侵入以上に重要であった。
モーゼルが手配した複数の経路へ分散し、追跡を分断する。
その過程で、意図的に痕跡が残された。
サイサリス公国製の装備、偽装された足跡、方向の異なる移動。
いずれも追跡側に複数の判断を強いるためのものであった。
こうして、ビアトリクスはアンドラ公国の公城から姿を消した。
それは単なる脱出ではない。
サイサリス公国再興に向けた最初の一手であった。
そして同時に、アンドラ公国内部に混乱を生じさせるための情報戦が、すでに動き始めていた。
これまで断片的に描かれてきた動きが、ここで一つに繋がります。
結果として現れた事象だけでなく、その裏でどのような意図と準備があったのかを意識していただけると、より楽しめるかと思います。
次回は、その影響がアンドラ公国側に広がっていきます。




