【078】捕らわれのビアトリクス公女
ビアトリクスがアンドラ公国に捕らわれてから、既に一週間が経っていた。
ビアトリクスの部屋を訪れたシュール大公は、椅子に腰を下ろしている。
手には赤い葡萄酒の入った杯を持ち、唇を湿らせるように一口含んだ。
濁った瞳で、目の前に立つビアトリクスをいやらしく舐めるように見つめる。
シュール大公は筋肉とは無縁の体つきで、全身に贅肉がつき、腹は肉の塊のようである。
今さら馬に乗ることも、戦場に出ることもできない醜い身体だった。
対照的に、ビアトリクスは金色の髪に、わずかにつり目がちな二重の瞼が印象的で、
戦場の匂いを残す細身で引き締まった体をしていた。
豪華な衣をまとってはいるものの、
彼女の放つ輝きは、普段、大公の周囲に並ぶ美しく着飾った女たちとは異なるものだった。
シュール大公の背後には二人の騎士が控えており、部屋の隅には侍女たちが目を伏せて立っている。
誰も声を発さず、葡萄酒を口にする大公と、視線を浴びるビアトリクスだけが、この静かな空間の中心だった。
シュール大公は考えていた。
政治的に見れば、ビアトリクス公女をブレント第一公子かザルファ第二公子、どちらかの息子の嫁にするのが最も良いと。
しかし一方で、彼女の身体で自らの欲を満たすことができないかという思いも捨てきれなかった。
それでも、すぐに行動に移さなかったのは、ビアトリクスが元サイサリス公国の公女という立場にあったからである。
そのため大公は、こちらに来て日が浅い彼女の歓心を得ようと、優しい言葉をかけ続けていた。
「そなたがサイサリス公国の跡取りとして、積極的に軍事にも政治にも関わっていたことは承知している。
今回の結果は残念であったが、対ルトニア王国との戦でも陣頭に立ち、大いに兵たちの士気を鼓舞していたと聞いている」
シュール大公はゆったりとした声で言いながら、手にした杯を軽く揺らした。
「サイサリス公国とアンドラ公国は、元は同じティモール王朝のもとにあった友好国である。
不幸にも敵対することとなったが、今後は共に、サイサリス公国の復興についてゆっくり話したいと思っている。
そなたは十八歳だな。
本来なら、公女として舞踏会で華やかな衣を身にまとい、豪華な食事を楽しんでよい年頃であるはずだ。
今までできなかったことを楽しみながら、しばらくはゆっくりと過ごすがよい」
ビアトリクスは、無言のまま大公を見つめた。
かつては敵国の王都で、軍事も政務も担い、寡兵を率いて撤退戦を戦い抜いた自分が、
いまはこの男の前で立ち尽くしている。
目の前の男は、私からすべてを奪っておきながら、何食わぬ顔で言葉をかけてくる。
その面の皮の厚さに、胸の奥から熱い憎悪がこみ上げた。
ここで命を奪ってしまおうか、と一瞬脳裏をよぎった。
しかし、いまの自分はサイサリス公国そのものだと思えば、
目の前の醜い男と共に滅ぶわけにはいかない。
この男の命を絶った瞬間、自分もまた命を落とすことは明らかだった。
言葉を交わすことすら汚らわしい。
それでも、サイサリス公国の公女としての自負が、会話を続ける勇気を与えてくれる。
「お心遣い、ありがとうございます。
捕らえられて日が浅く、まだ落ち着く間もございません。
また何かありましたら、その折にはご好意に甘えたいと思います」
シュール大公は、ビアトリクスがへりくだって話す姿を見て、満足げにうなずいた。
「捕らわれて来たとは嘆かわしいことだ。
だが、今後はここを自らの家と思い、過ごしてくれると良い。
ここには煩わしい政治も軍事もない。
十八歳という年齢にふさわしい生活を送ればよいのだ。
ところで、商都ハンザのシモーネとは話をしたのか?」
「昨日、話をいたしました。
他国のことなどを語り合い、楽しい時間を過ごせました」
ビアトリクスにとって、シモーネとの会話は貴重なものだった。
アンドラ公国に捕らわれてからというもの、周囲の状況がほとんど聞こえてこなかったからだ。
特に、シュール大公が自分を手に入れようと考えていること、
さらに次の段階として息子たちとの結婚まで視野に入れていること、その情報は重要だった。
しかし、ビアトリクスにとっては、相手がシュール大公であろうと、ブレントであろうと、ザルファであろうと、
アンドラ公国に嫁ぐつもりなど毛頭ない。
むしろ、憎悪を抱いてしかるべき人々である。
「そうか、他には何も言っていなかったのか」
シュール大公が、何かを期待するように視線を向けてくる。
そこで、ビアトリクスは表情を崩さずに答えた。
「シュール大公は、とても慈悲深く、思いやりがあり、度量の深いお方です。
私を粗略に扱うことなど、決してなさらないだろうと、そう申しておりました」
「そうであろう。アンドラ公国は、サイサリス公国を攻め滅ぼした訳ではない。
ルトニア王国から守るために併合したと思っているからな。
私はおぬしを粗略には扱わぬ。今は体調を第一に考えて、ゆっくり休養すると良い」
ビアトリクスは、先ほどは敵対という言葉を使っておきながら、
相手の話に合わせて都合よく言葉を変えるシュール大公を心の中で軽蔑した。
これから先も、この下品な男の話に付き合い続けなければならないのかと、気が遠くなる思いがした。
アンドラ公国での生活は、表面上は恵まれている。
捕らわれている部屋は豪華で、高価な調度品に囲まれていた。
食事は一日に三度、豪華な料理が部屋まで運ばれてくる。
夕食の後には、ほとんど毎日シュール大公が顔を出す。
不自由はないか、欲しいものはないかと、優しい声色で問いかけてくる。
しかし、ビアトリクスはその全てに嫌気が差していた。
強引な行為に及ばれたことはない。
だが、与えられているものすべてに、シュール大公の下品な下心が透けて見えていたからだ。
ふと、シモーネの言葉が脳裏によみがえった。
いずれ大公の妾となるか、あるいはブレントかザルファの嫁にされる。
そして、生まれてくる子にサイサリス公国を継がせるつもりなのだろう。
自分が追い詰められていることを、改めて思い知らされた。
どちらにせよ、身の毛のよだつ話だ。
それもこれも、戦に負けた自分のせいだとわかっている。
自分自身をこのような状況に追い込んだ自分が許せなかった。
もっと上手くできたのではないかと、自問自答する。
だが、答えは否である。
ルトニア王国とアンドラ公国を同時に相手取り、
サイサリス公国が勝利を収めることなど、誰にできようか。
そもそも、開戦の段階から政治的に勝ち目はなかったのだ。
では、なぜ父上はルトニア王国攻略に乗り出したのか。
ビアトリクスが知らされた時には、すでに急襲は決定されていた。
なぜローガン侯爵は、あれほど積極的にルトニア王国攻略を進めたのだろうか。
時間だけはあるため、一人で思いにふけることも多い。
だが、答えを見つけることはできなかった。
ビアトリクスは、答えを出す事は出来なかった。
それは、自らの力ではどうにもならない領域にまで状況が及んでいたからである。
しかし、その裏では、状況を動かすための流れが静かに進んでいる。
次回、その繋がりをご確認いただければと思います。




