【077】モーゼル、ゼインへの誓い
元々モーゼルは、自由商人であった。
ひとつの国に腰を落ち着けて商売をするのではなく、各国を自由に行き来して品を売り買いする。
人柄は穏やかで、妻と二人で細々と暮らしながら各地を巡ることを楽しむ、商人らしからぬ男であった。
ある日、とある村を訪れたときのこと。
ひとりの少年が、珍しい形の石を手に、誇らしげに声をかけてきた。
「これ、買ってくれませんか?」
その石は形こそ面白かったが、値打ちはほとんどない。
理由を尋ねると、弟に美味しいものを食べさせてやりたいという。
モーゼルは微笑んで、その石を銀貨一枚で買った。
そして石を受け取るとき、こんな言葉を添えた。
「もしもっと高い値で売れたら、次に会ったときに差額を払うよ」
少年は銀貨を握りしめ、満面の笑みで走り去った。
その後、モーゼルは何度もその村を訪れた。
会うたびに少年は「石は売れましたか?」と聞いてくる。
モーゼルはいつも微笑んで答えた。
「すまない、まだだよ」
数年が経ち、少年が石のことをすっかり忘れた頃。
村を訪れたモーゼルは、成長して背の高くなった少年を呼び止めた。
「この前の石が、やっと売れたよ」
そう言って、金貨一枚を手渡した。
少年は驚きのあまり、しばらく言葉を失った。
あの石に価値がないことを、今では十分に分かっていたからだ。
実は、モーゼルは銀貨一枚で買ったあの石を、数年もの間ずっと持ち歩き、売れる先を探していた。
やがて、ある国の貴族がその話を聞き、商人の心意気を気に入り、本人を呼んで買い取ったのだった。
この出来事は、村の者たちにも強い印象を残した。
モーゼルは「どんな小さな約束も必ず守る商人」として知られるようになり、その誠実さが評判となった。
やがて、その貴族の紹介で他の貴族とも縁が生まれ、販路は広がり、扱う品も増えていった。
それでも、モーゼルの商売はあくまで「困っている人に必要な物を届けたい」という思いに根差しており、妻と二人で慎ましく続ける生活は変わらなかった。
大きく稼ぐことはなかったが、彼はそれで満ち足りていた。
ある日、モーゼルはルグルスの大森林を通っていたとき、質の悪い盗賊に襲われた。
もともと彼は、それほど儲かっている商人ではなかった。
襲ったところで実入りは少ないはずだったが、盗賊は容赦なく妻を殺し、モーゼル自身も斬られて意識を失った。
倒れた彼を救ったのは、偶然その近くを通ったゼインたちだった。
助かった命は一つだけ。
妻も商品も失い、生きる気力も、生活の術も残っていなかった。
ゼインたちの計らいで、モーゼルはしばらく療養を兼ねて彼らと村で暮らすことになった。
その村は盗賊団の隠れ家でもあったが、ルグルスの大森林の奥深くにあり、棄民として行き場を失った者たちや、幼い子供たちが笑って暮らす不思議な場所だった。
ある日の夕暮れ、モーゼルは村の広場で腰掛けていた。
茜色の光に包まれたゼインが、子供たちや数人の村人と談笑している。
やがてゼインがこちらに目を向け、右手を軽く上げて呼びかけた。
「よう、モーゼル。もう傷は大丈夫か? そろそろ動けそうか?」
夕日を背にしたゼインの姿は、ただの若者に過ぎないはずだった。
それなのに、大陸の名峰に差し込む朝日よりも、虹をかける瀑布よりも、名高い湖の水面を照らす夕景よりも、その姿はモーゼルの心に深く染み渡った。
この村の暮らしとゼインの姿を見て、モーゼルは静かに決意する。
過去を悔やみ、ただ生き延びるだけの自分は、もう終わりだ。
この若者のために、生きよう。
その日の夕暮れの後、モーゼルはゼインの部屋を訪れた。
二人きりで腰を落ち着け、簡素な卓を挟んで酒を酌み交わす。
盃を口に運びながら、モーゼルは目の前の若者をじっと見つめた。
ゼインという青年は、何かを計算し尽くしているわけでも、学問を積んでいるわけでもない。
だが、人柄、度量、そして経験までもが一つに溶け合い、異様なほどの存在感を放っていた。
わずかな言葉で全体を察してしまう、驚くほどの勘の良さがある。
若さに似合わぬ豊富な経験。
そして、危うさをはらんだ孤独の影。
この若者には、自分が必要なのだ。
誰よりも近くで支え、教え、助けてやらねばならないと、モーゼルは強く感じていた。
彼は盃を置き、静かに言った。
「ここに来て、もう数週間になります。あのときの傷も癒えました。
私は、商人として再出発をしたいと思っています」
ゼインが目を細める。
「それだけではありません」
モーゼルは姿勢を正した。
「この出会いを機に、あなたを主人と仰ぎ、あなたのために働きたいのです。
今の私には、ゼイン様に差し上げられるものは何一つありません。
ですが、今日より心を入れ替え、あなたの商人として生きる。
いずれ必ず、利益をもたらしてみせます」
そう告げると、モーゼルはさらに言葉を重ねた。
「そのために、この村にある財宝や食料などの商品をいくつか、そして何人かの使用人を分けていただけませんか」
その瞳には、かつて全てを失った絶望はなく、未来を見据えた確かな光が宿っていた。
こちらは真剣だった。
モーゼルは思った。
たかだか数週間の付き合いの若者に、今までの全てを託してほしいと頼んでいるのだ。
自分はこの村の外では信頼される商人だと自覚している。
だが、この村の中ではただのよそ者でしかない。
俺を見て欲しい。
何も持たぬ、今の自分を。
子供ほど年の離れた相手に、愚かしいほど必死な願いをぶつけていると分かっていた。
それでも、どうしても伝えずにはいられなかった。
断られる可能性の方が高いだろう。
自分が逆の立場なら、きっとこう言うはずだ。
「しばらくは様子を見て、小さな取引から実績を積んでくれ」
確かに正論だ。
だが、この村の厳しい暮らしを変えられるのは、自分しかいないと信じて疑わなかった。
祈るような気持ちで、ゼインを見つめる。
ゼインは静かに杯を置き、口を開いた。
「よく言ってくれた。実はな、俺からも明日にでも同じ話をするつもりだったんだ」
意外な言葉に、モーゼルの胸が熱くなる。
「今まで村に溜まった宝や食料は、俺らじゃ売れない。仮に売れても、足元を見られて安く買い叩かれるのがオチだ」
「俺は商人を知らないわけじゃない。だが、あんたは信用できる」
ゼインは、ゆっくりと笑った。
「商人のモーゼルに任せたいんじゃない。俺は、信頼できるモーゼルに商人を頼みたいと思っていたんだ」
そうして、モーゼルは悟った。
この若者は、人の気持ちを決してそらさない。
ならば、自分の残りの人生はすべて、この人のために使おう。
すでに独り身で、これからの人生はおまけにすぎない。
この人の成長を見守り、その未来を支えながら生きるのも、悪くないと思えた。
その日を境に、モーゼルは影に日向にゼインを支えるようになった。
ルグルスの大森林で盗賊団を率いていたゼインに、経済的な支援を惜しまず、彼が得た財宝はすべてモーゼルの手で転売された。
必要な日用品や生活必需品はモーゼルが仕入れ、村の暮らしを安定させるために活用された。
人の良さだけが取り柄だった商人は、やがて貴重な人脈を持ち、信頼に足る商人へと変わっていく。
商店の成長と拡大を目指しながらも、根底には「ゼインを支える」という揺るぎない思いがあった。
そして、決して表には出せぬルグルスの大森林での繋がりを足掛かりに、モーゼルの販路は広がっていった。
六つの国、十二の都市に商店を構え、ついにはサイラス商会として名を知られるまでになる。
モーゼルもまた、ゼインとの出会いによって運命を切り開かれた者であった。




