【075】シモーネ、ゼインの影を聞く
シモーネは、アンドラ公国到着後、多忙を極めていた。
到着翌日にシュール大公と謁見し、その翌日にはレギレウス将軍とザルファ第二公子に拝謁。さらにその日の夜には、ビアトリクス公女とも面識を得た。
商都ハンザの立場や今後の方針を問いただされた直後である。
それらの緊張した数日間を終え、ようやく自室で一息ついていたとき、係の者が来客を告げてきた。
モーゼルと名乗る年老いた男だという。
その名を聞いた瞬間、シモーネの胸は熱くなった。
ルグルスの大森林で行方不明となってから、すでに二年。
生きているはずがないと諦めていた名を耳にし、シモーネは思わず部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
そして、その懐かしい顔を目にした瞬間、声を上げた。
「おじさま!」
幼い頃から可愛がられ、父のように頼れる存在であり、優しくも厳しく諭してくれるかけがえのない人。
そのモーゼルが、今まさに目の前に立っていた。
フーバー代表と奥方が亡くなったとは聞いていなかったが、少なくともモーゼルはこの世にいないと信じ込んでいた。
しかし、現にここにいる。
シモーネは首に腕を回して抱きつき、涙をこぼした。言葉は続かない。
モーゼルは泣きじゃくるシモーネの頭を優しく撫でながら、短く言った。
「久しぶりだね」
シモーネは声を出せず、ただ首を縦に振るばかり。モーゼルは、落ち着くまで何も言わず寄り添い続けた。
やがて嗚咽がおさまったところで、モーゼルが口を開く。
「ゆっくり話がしたい。部屋を準備してもらえるか」
涙を拭いながら、シモーネは係の者に部屋を整えるよう命じ、改めて言った。
「ご無事で、本当に良かったです」
飲み物が運ばれ、係の者が下がると、モーゼルは改めて口を開いた。
「久しぶりだね、シモーネ。元気にしていたかい。
今日は時間が取れるか?
積もる話がある、ゆっくり話したい」
久しぶりに聞く声。再び涙が込み上げそうになるのをこらえながら、シモーネは答えた。
「ええ、大丈夫です。予定はありません。お話を聞かせてください」
「そうか。では二年前のことから話そう。
あの時、妻と二人でドライゼン帝国に向かったのを覚えているだろう。商いの旅だった。荷物も少なく、金目の物も持っていなかったから、盗賊に襲われる心配はないと思っていた。
だが、甘かった。襲われたんだ」
悔しさが滲む声だった。
「その場で妻は命を落とした。
やつらは金目当てではなく、ただの暇つぶしで我々を襲ったらしい。
私も斬られ、足元から力が抜けていく感覚を覚えた。
妻の倒れる気配を感じながら、ここまでかと悟り、目を閉じた」
シモーネは息をのんで聞き入った。
「だが、そのとき通りがかった者に救われた。
気を失っていたから、誰かは分からなかった。気づけば、命を長らえていたのだ」
「そうだったのですね。
でも、それならどうして無事だと連絡をくれなかったのですか。
フーバー代表も奥様も、ひどく心を痛めておられました。
取り乱した代表のお姿は、とても見ていられませんでした」
「それは想像できたよ。
でも、助けられたときに思い出した。
商都を発つとき、心に決めていたことがあった。
これからの人生は、商都ハンザの代表の兄としてではなく、ただのモーゼルとして生きよう、と。
フーバーにとっても、その方が自由だと思った」
「そのように思われていたのですね。
ですが急に兄を亡くされたフーバー代表のお気持ちは?
看病の末なら心の準備もできたでしょう。
けれど突然の死は、受け入れがたいものです。
その苦しみを、考えていただきたかった」
「シモーネは、相変わらず良い子だ。
優しい女性に育ったことをうれしく思う。
フーバーと奥方は、よい子育てをしたのだろうな。
これほど相手を思いやれる女性になったのだから」
「おじさま、話を逸らさないでください」
シモーネは、二十四歳という年齢に不相応な仕草で頬を膨らませた。
周囲の人間にも、フーバーにさえ見せられない甘えた顔である。
「そうだね。シモーネの言う通りだ。
フーバーの立場は考えていたが、気持ちまでは考えていなかったのかもしれない。
だが、この話にはまだ続きがある。
私を助けてくれたのは、ゼインという盗賊だった。
シモーネは知っているかい」
「おじさま、知っているも何も去年、壊滅したルグルスの大森林最大の盗賊団の首領の名前ではありませんか。
そのゼインに助けられたというのですか」
「そう、そのゼインだ」
「盗賊に襲われたおじさまが、ゼインという盗賊に救われるとは、何とも複雑な気持ちです。
でも、今こうしてご無事ということは、ひどいことはされなかったのですね。
それであれば、ゼインという盗賊も、おじさまを助けるという一つくらいは良いことをしましたね」
「シモーネ、とても言いにくいのだが、私もその盗賊団の一員なのだよ」
「えっ」
「信じられないかもしれないが、商都ハンザの代表の兄モーゼルは、ゼイン盗賊団の一員であり、奪った品々を売買する責任者というわけだ」
「うそ」
「うそではない。
うそではない証拠に、無事に生きながらえても、私はフーバーに無事だと連絡をしなかっただろう。
連絡をすれば、苦しむのはフーバーの方だ。
商都ハンザが管理するルグルスの大森林の街道を拠点にしている盗賊団の一員が、フーバーの兄なのだからな。
わかってほしいとは思わないが、私の今の主はゼイン殿だ。
これは紛れもない事実だ。
今、私がここにいるのも、この先、生きていこうと思っているのも、全てはゼイン殿のためである。
私にとって、彼はかけがえのない息子のような存在なのだ」
「おじさま、どうしてなのですか。
どうして商都ハンザのフーバー代表のもとにいることができなかったのでしょうか。
なぜ、得体の知れないゼインという盗賊のもとで働く必要があるのですか」
その言葉を聞いた瞬間、モーゼルの顔色が変わった。
静かな声に、怒りが乗った。
「シモーネ」
モーゼルの顔色と声に、シモーネは震えあがった。
幼い頃、何をしたのかは覚えていないが、一度だけモーゼルに叱られたことがある。
普段は温厚で、決して怒ることのない優しいおじであるモーゼル。
そのモーゼルに怒られたのは、後にも先にもその一度きりだった。
幼いシモーネを前に、モーゼルは大きな声を出すことなく、静かに諭すように叱った。
その時、モーゼルはフーバーと幼いシモーネを並べて座らせ、こう言ったのだ。
私はシモーネがかわいい。
なぜ私がシモーネを怒らなければならないのだ。
私はシモーネをかわいがりたいのだ。
なぜそうさせてもらえない。
その光景に幼いシモーネは震えあがり、胸の奥に焼き付いた。
今、その記憶がよみがえり、シモーネは思わず頭を下げた。
「すみません」




