【071】シモーネ、アンドラ公国の真実に触れる
シモーネは、商都ハンザを出て、1か月程度かけ、初めてアンドラ公国に足を踏み入れた。
これまでのアンドラ公国について思い返すと、一つ溜息をついた。
それは、これから仕事で直面する困難を思ってのことか。
それとも、シュール大公の人柄を思い浮かべてのことか。
当のシモーネにも、その溜息が何を意味するのかは分かっていなかった。
シュール大公は、公国の運営については全くと言ってよいほど無能であった。
しかし、自尊心だけは非常に高い。
貴族たちからの報告を受ける前に、取り次ぎの者から事前に概要を聞き、
いざ報告の場では、ほとんどの場合「知っている」と答えるのが常であった。
それは、自らの知識を披露したいという欲求を満たすためにほかならない。
そのやり取りに意味などないことに、本人だけが気づいていなかった。
ゆえに貴族たちは毎日のように、
「流石は大公、何事もよくご存じであられます。後は我々が良きように取り計らいます」
と、茶番めいたやり取りを繰り返すのだった。
そんなシュール大公であったので、レギレウス将軍の娘との間に二児を授かってからは、夫としても大公としても責任は果たしたと言わんばかりに、妻との距離を置くようになった。
そして、侍女から平民に至るまで、手当たり次第に手をつけた。
理由は明確である。自らの権力を利用することで、自尊心を満足させるためであった。
大公様と呼ばれ、「流石です」と称えられることが何よりも心地よかったのだ。
そのシュール大公の振る舞いに対して、貴族たちは自らの利益を損なわない限り、好きにさせておくつもりであった。
シモーネのアンドラ公国入国に際しては、商都ハンザの担当者が、あらかじめこちらの都合の良い日をアンドラ公国側に伝えていた。
そのため、予定通りに面会を行うことができた。
また、多額の金銭を支払えば、任意の日程を指定することも可能であった。
シモーネは、この担当者が賄賂を受け取るという行為を、一種独特の文化として受け止めていた。
それはアンドラ公国だけでなく、宗主国であるティモール王朝にも共通する風習だと感じられた。
担当者は与えられた仕事をこなし、その対価として決まった額の報酬をアンドラ公国から受け取っていた。
賄賂を受け取るということは、つまり公国からの対価以上に金銭を受け取るという意味である。
そして、賄賂の額によって仕事の優先順位を決めるのが当たり前だと、担当者は考えていた。
明日はいよいよ、シュール大公に謁見する日であった。
その前に、シモーネは商都ハンザの担当者と事前に話をしていた。
「この賄賂という風習は珍しいですね。
ドライゼン帝国でもルトニア王国でも、賄賂という習慣はありませんでしたよ」
「独特の文化だと思いますが、こちらでは一般的な考え方です。
公城に務める方に何かお願いをする際には、必ず必要な費用なのです」
「そうなのですね。
それは、お金を持たない者は仕事をする気がないということなのか、それとも決まった額の報酬が少なく、賄賂がなければ生活できないということなのでしょうか」
「そのどちらも理由に当てはまります。
吝嗇家のシュール大公が治める国ですので、王宮で務める人たちは、日々つつましい生活を送るだけの対価しか受け取っていません。
当然、不満を抱いています。
そのため、我々のように他国から訪問客が来るということは、自分たちの懐が潤うと考え、歓迎するのです」
「そのような担当者たちの現状を、シュール大公は把握しているのでしょうか」
「把握している、という段階にはありませんね。
シュール大公は自分以外にまったく興味を持っていませんから、知ることもないでしょう。
それでも、この国は滅びもせず、サイサリス公国を併合することすらできたのですから、不思議なものです」
「国が何年も続けば、暗愚な統治者は必ず現れます。
そして、暗愚な統治者によっても滅亡しないだけの制度が整えられていると考えるのが妥当でしょう。
それで、今回のサイサリス公国併合によって、アンドラ公国にはどのような変化があったのですか」
「不思議な感じがするかもしれませんが、国中が湧きたっているというほどではありません。
民衆は、自分たちの生活が良くなるとは感じていないのかもしれません。
大きな戦で手に入れたわけでもなく、もともと友好国であったサイサリス公国を併合しただけです。
ですから、なぜアンドラ公国がサイサリス公国を併合することになったのか、喜ぶべきことなのか、そうではないのか、民衆も戸惑っている様子です」
「不思議なものですね。
ルトニア王国では、アンドラ公国を憎む声があがっていますし、サイサリス公国では血の涙を流す方もいたと聞いています。
それに比べると、アンドラ公国の民衆の反応は薄いと感じます」
「一番の理由は、シュール大公の不人気にあるのではないでしょうか。
大公の座をめぐっても、兄弟の間でいざこざがありましたし、その周囲の諸侯も、アンドラ公国のためというよりは自分の利益を優先して動く者ばかりです。
ですから、今回のサイサリス公国併合がなぜうまくいったのか、不思議でしかありません」
「自国の利益だけを考えれば、隣国の不幸は自国の幸せとも言えます。
その不幸に付け込むように、常に自国の利益を第一に考えるからこそ、今回のような手も打てるのでしょう。
それと今回、捕らわれているビアトリクス公女にもお会いしたいと思っていますが、可能でしょうか」
「そうですね、状況的には可能です。
ですが、大公が許すかどうかが問題です。
シュール大公はビアトリクス公女に強く固執しています。
本来は王宮の一室に軟禁しておきたかったようですが、それは叶わず、王宮近くの貴族の屋敷に置くこととなりました。
それでも、ほとんど毎日のように通っています」
「それは随分とご熱心ですね。
長兄ブレントか、次男ザルファとの婚姻を説き伏せているということでしょうか。
まさかご自身の側室に、という考えもあるのですか」
「長兄ブレントはサイサリス公国に滞在しています。
次男ザルファはこの国におりますが、間もなくルトニア王国との国境付近に出陣予定と聞いています。
シュール大公とビアトリクス公女の間でどのような話がされているのかは、申し訳ありませんが、この私ではわかりかねます」
シモーネは、担当者との会話を終えると、静かに窓の外へ視線を向けた。
公城の灯りは遠くにぼんやりと揺れ、まるでこの国の行く末を映しているかのようだった。
アンドラ公国は、やはり特殊な国だと感じる。
賄賂が当たり前に横行し、公城に仕える者たちも己の懐を満たすことを第一に考えている。
そして、その根源にいるのはシュール大公、自尊心ばかり高く、国そのものには無関心な男だ。
だが、そんな国でも滅びずに存続し、今回のサイサリス公国併合までやり遂げた。
これは偶然ではなく、国そのものの制度や慣習が、愚かな統治者をも許容できるように作られているということだろう。
シモーネは、その事実を冷静に受け止めた。
「なるほど、この国は、見かけよりも根が深い」
小さくそう呟く。
表面は腐っているように見えても、地下の根はしっかりと張っている。
だからこそ、ハンザとしての外交を誤れば、この国に飲み込まれる可能性さえある。
ビアトリクス公女の件も、決して油断できない。
大公が固執している以上、彼女を利用して何らかの政治的取引が行われることは間違いないだろう。
その動きを読み解き、先手を打つことが、今回の自分の任務だ。
「ザルファ第二公子もアンドラ公国に滞在中ということね、明日以降会ってみましょう」
シモーネは今回のアンドラ公国滞在で、主な人物とはすべて会いたいと考えていた。
指折り数えながら、静かに口にする。
「シュール大公、ザルファ第二公子、レギレウス将軍、そしてビアトリクス公女の四名ね。
明日から楽しい日々が待っていることを期待しましょう」
シモーネは椅子から立ち上がり、深く息を吐いた。
明日の謁見が、この国の真実を見極める最初の一歩になると確信していた。




