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【060】黒蜘蛛戦争の終結

ザルファ公子は、屈強な兵士たちの前に一歩進み出た。

その姿勢には誇りがあり、しかし口にする言葉は残酷であった。


「どういうつもりもありません。言葉の通りです。サイサリス公国は、すでに滅びました」


ビアトリクスは、怒りで荒れた呼吸を押し殺し、次の言葉を待った。


「オリバー大公が亡くなったのち、国母であるアデイラ公妃は、自らが生まれ育った我がアンドラ公国へ救いを求めました。

それは当然のこと。サイサリス公国はすでに、ルトニア王国に攻められ滅びの道を歩んでいたのです。


大公を失ったその時点で、サイサリス公国は自国を守る力も、アデイラ公妃を守る力も、そして国としての存在意義すら失った。

だからこそ、公妃がアンドラ公国に助けを求めたのは、ごく自然な流れだったのです」


「なんだと」


ビアトリクスの胸には、言い返したい言葉が幾つも浮かんだ。

だが、言葉には出来なかった。


理由はただ一つ。

その瞬間、はっきりと悟ってしまったからだ。


自分はすでに罠に嵌められている。

この天幕も、外に控える兵たちも、そのすべてが、自分を捕らえるために周到に整えられた檻だった。


「実にサイサリス公国にとっては不幸なことです。

苦心してルトニア王国軍を振り切り、すでに亡き国となった祖国へ戻ろうとするビアトリクス公女。

その姿は、哀れとしか言いようがありません」


口調は丁寧だが、表情には露骨な性悪さが浮かんでいた。

そして、ザルファ公子は得意げに声を張った。


「先日、わが兄ブレント公子がサイサリス公国に入国しました。

私はあなたを迎えるためにこちらへ来ていたので、その場には立ち会っておりません。

しかし、サイサリス公国の文官たちは皆、平伏して兄を迎えたと聞いております。


つまり、サイサリス公国はすでに何の抵抗もなく、アンドラ公国の支配下にあるのです。

あなたは故国の民を心配する必要もなく、ただ安心なさればよい」


言葉を切ったザルファ公子は、目の前のビアトリクスをじっと見据えた。


しかし、ビアトリクスの表情からは何も読み取れない。

先ほど声を荒げたとき以来、その顔には一切の変化がなかった。


その無表情さが、逆に彼を愉快にさせる。

これからが本当の見せ場だとばかりに、ザルファ公子はさらに言葉を重ねた。


「あなたも、もう理解しているはずです。

今後のサイサリス公国、いや、アンドラ公国にとって、あなたの存在は邪魔でしかありません。


それも当然のこと。

亡きオリバー大公の一人娘であり、軍事においては一万の軍を率いる力を持つ。

内政では故ローガン侯爵と並び立つほどの才を備え、何より民から深く愛されている」


ザルファはゆったりとした口調で、まるで裁きを告げるように言葉を紡いだ。

圧倒的な強者が弱者に理を押しつける、その傲慢さが彼の口元にいやらしい笑みを浮かばせる。


「そう、あなたは厄介なのです。

もしルトニア王国軍との戦で討ち死にしてくださっていれば、アンドラ公国にとっては何より都合がよかった。


しかし現実には、あなたは退却戦を生き延び、約九千の兵と共にここまで戻ってきた。

そして、その事実はすでに多くの者に知られている。


ここで私があなたを殺したとしましょう。

そうなれば、アンドラ公国がサイサリス公国を統治することは、かえって難しくなるのです。


聡明なビアトリクス様なら、この意味をすぐに理解していただけるはずです」


ザルファは愉快そうに微笑みながら、ゆっくりと言葉を重ねた。


「ですから、ここで殺すことはありません。

怯える必要もまったくないのです。


そう、怯える必要はないのです。


あなたにしか果たせない役目がある。そのために我々は、あなたを丁重に扱います。


アンドラ公国には二人の有能な公子がいます。二十五歳と二十七歳、いずれも結婚に適した年齢です。

一人はこの私、ザルファ。もう一人は兄のブレントです」


そこで彼は口元をにやりと歪めた。


「ビアトリクス様、おわかりでしょう。

これからあなたには、故サイサリス公国とアンドラ公国を結ぶ懸け橋となっていただきます」


その声は冷たかった。

感情を欠いた言葉、意志の光を宿さぬ瞳。そこにあるのは、底の見えぬ冷淡さだけだった。


ビアトリクスは静かに告げた。


「好きにするとよいでしょう。

アンドラ公国は、友好国サイサリス公国の危機を見て助けず、弱った友好国を謀略で乗っ取った国です。

その国の公子が何を語ろうと、私の胸に響くことはありません」


ザルファは口元を再び歪め、薄笑いを浮かべた。


「それで結構です、今は。

しかし、やがてその態度が変わることを、私は心から願っています」


そう言うと、ザルファ公子はゆっくりと歩を進め、ビアトリクス公女の背後に回った。

周囲に聞かれぬよう、耳元へ顔を寄せ、低く囁く。


「わが叔母、アデイラ公妃はダレル団長の預かりになりました。

どういう意味か、お判りですか」


その言葉の真意を測りかね、一瞬思考が止まる。

しかしすぐに、胸の奥へ氷の塊のような冷たさが沈んでいった。


ザルファは一呼吸置き、さらに小声で続けた。


「オリバー大公が亡くなって、最も安堵したのはアデイラ公妃とダレル団長かもしれません。

身内のことですから、大きな声では言えませんが」


そう言うと、ザルファはビアトリクスの耳元から離れ、今度は周囲に響き渡るほどの大声で笑った。


「大切なお客様、ビアトリクス様をアンドラ公国へお迎えいたしましょう。

道中は一か月ほどの旅となりますが、アンドラ公国は心からの歓待をご用意しております」


その言葉を耳にした瞬間、ビアトリクスの感情が激しく揺さぶられた。

気づけば唇から血が滴り落ちていた。

悔しさのあまり、噛みしめた唇を裂いてしまったのだ。


それでも痛みはなかった。

胸を締めつけるのは、自らの置かれた状況への怒りと、何よりも自分の不甲斐なさであった。


何も気づけなかった。

何も知らなかった。

エイベルを犠牲にしてまで帰還したというのに、待っていたのはこの惨状である。


ふと、自分に生きる意味はあるのかという疑念が頭をかすめた。

しかし次の瞬間、心の奥で別の声が呼び覚まされる。


見えているものが全てなのか。

まだ知らぬことがあるのではないか。

この男の言葉が、本当にすべて真実なのか。


その答えを、知りたいと強く思った。

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