【059】ビアトリクス公女、亡国の宣告を受ける
ビアトリクスの副官エイベルが、ルトニア王国軍一万二千を相手に命を散らしたそのころ、
ビアトリクス率いる九千二百の兵は、ヴィクセル川の渡河を無事に終えていた。
追撃してくる軍勢はなく、静けさだけが広がっていた。
だが同時に、エイベル率いる八百が帰ってくることもなかった。
その事実を前に、ビアトリクスは胸の奥に深く刻みつける。
「わが父、サイサリス公国の重鎮、そして私の部下たちの命を奪ったルトニア王国を、必ず滅ぼす」
彼女は息を整え、声に力を込めて命じた。
「伝令、サイサリス公国へ私の無事を伝えよ。
国境付近まで迎えの兵と兵糧を送るよう、必ず伝えてほしい」
ここはまだルトニア王国領内である。
だが最大の脅威は打ち払った。
ビアトリクスは、自らが今しがた最大の窮地を脱したことを、確かな実感として噛みしめていた。
その翌日。
ビアトリクス率いる九千二百の兵士たちは、空腹を抱えながらも、祖国へ戻れる喜びに顔をほころばせていた。
「今回のルトニア王国攻略は失敗に終わったな」
「オリバー大公がお亡くなりになったそうだ」
「旧ルトニア王都を守っていた一万五千の我が軍は壊滅したらしい」
「それでも、やっとサイサリス公国に帰れるな」
本来であれば、行軍中の私語は固く禁じられている。
だが、それを注意する気力が、いまのビアトリクスには残っていなかった。
兵士たちが無事に帰れることを喜んでいるのなら、それでよいと彼女は思った。
ただひとつ、胸をざわつかせるものがあった。
サイサリス公国に送った伝令が、いまだに戻ってこないのだ。
何かが起こっているのではないかという不安が、静かに彼女を締めつけていた。
すでに軍はルトニア王国の領地を抜け、サイサリス公国の領土へ入っている。
本来ならば、出迎えの兵がいてもおかしくはなかった。
その時、前方より複数の騎馬が駆けてくるのが見えた。
しかし、それは自らが送った伝令ではなかった。
さらに、彼らの鎧の色は、サイサリス公国軍のものでもなかった。
状況が掴めず、騎馬が近づいてくるまでの間、ビアトリクスの胸には不安が広がっていた。
もしや、何か不幸な出来事があったのではないか。
やがて騎馬が近づき、アンドラ公国の兵士であることが明らかになった。
案内されてビアトリクスの前に進み出た兵士は、笑みを浮かべて口を開いた。
「この度の外征、ご苦労様でした。
先に進んだ場所で、すでに兵士たちの食事の準備が整っております。
どうぞ皆さまにお伝えください」
その言葉を聞いた周囲の兵士たちは歓声を上げて喜んだ。
長く空腹に耐えてきた彼らにとって、その知らせは何よりの救いであった。
しかし、ビアトリクスの胸には小さな疑問が生じた。
なぜ、出迎えに立っているのがアンドラ公国の兵士なのか。
確かにサイサリス公国はアンドラ公国と友好国の関係にある。
だが、ここは間違いなくサイサリス公国の領土であり、自軍が帰還したはずの土地だ。
それなのに、なぜアンドラ公国の軍旗が翻っているのか。
自国の旗ではなく、他国の旗がはためく光景は、ビアトリクスの胸に重い疑念を刻み込んだ。
そんなビアトリクスの表情を読み取ったのか、先頭に立つアンドラ公国の将が馬上から恭しく声を発した。
「そのご疑念はもっともでございます。
本来ならばサイサリス公国の民と軍が真っ先にお迎えすべきところ、我らが先頭に立つのは奇異に映りましょう。
この先にて、我が国のザルファ第二公子がお待ちしております。
詳しい事情は公子よりご説明いたします。
兵士たちはゆるやかに進ませ、ビアトリクス公女は我らがご案内申し上げます」
アンドラ公国の兵が直々に迎えに来たこと、さらにザルファ第二公子がこの地にいるという事実。
そのどちらも、ビアトリクスには腑に落ちなかった。
胸の奥で、じわじわと不安が広がっていく。
問いただそうと幾度か口を開いたが、馬上の伝令兵は淡々と同じ答えを繰り返すばかりだった。
押し問答を続けても意味はない。
そう悟ったビアトリクスは、護衛の兵を二名だけ伴い、案内に従う決断を下した。
やがて視界に、アンドラ公国の陣が広がる。
そこには不穏な気配はなく、整然とした秩序が漂っていた。
一角では大鍋から白い湯気が立ちのぼり、香ばしい匂いが辺りに満ちていた。
それはサイサリス公国軍のために用意された炊き出しであり、疲れ切った兵たちの腹を刺激するには十分な香りだった。
護衛の二名も、その香りに思わず息を呑んでいた。
やがて案内された天幕に足を踏み入れると、そこにはすでに長髪の男が腰掛けていた。
アンドラ公国のザルファ公子である。
ビアトリクスが彼と会うのは初めてだったが、今年二十五歳になると聞いている。
また、兄のブレント公子とは仲が良いとも伝えられていた。
しかし、その顔を見た瞬間、胸の奥で本能的な嫌悪が湧き上がった。
身なりは整い、挨拶の所作も礼儀正しい。
だが清潔さに欠け、顔立ちには妙な下品さが漂っている。
兄弟揃って同じ雰囲気なのだろうか。
考えるまでもないことが、頭をかすめた。
「初めまして。アンドラ公国のザルファ第二公子です」
やはり嫌な顔だ、とビアトリクスは思う。
口調も所作も丁寧で誠実そうに見える。
だが目だけは違った。友好を示す色はなく、これから自分が告げる言葉に相手がどれほど動揺するかを楽しんでいるかのような、底意地の悪さがにじんでいた。
この天幕に入ったことを、すでに後悔していた。
サイサリス公国内で、他国の軍が自軍のために炊き出しを行っている。
表向きは救援に見えるが、実情は違う。
それは、公子の目を見れば明らかだった。
しかし感情を悟られてはならない。
ビアトリクスは公女としての威厳を保ち、静かに挨拶を返した。
「初めまして。サイサリス公国のビアトリクス公女です」
「この度の敗戦、誠に残念でした。また、父上を亡くされたこと、お悔やみ申し上げます」
胸の奥に、じわりと怒りが込み上げた。
この男は、わざと他人の感情を逆撫でする術に長けているのだろうか。
思わず声を荒げて叱責しそうになる自分を、必死で抑え込む。
相手は年長であり、他国の公子だ。
決して感情のままに怒りを露わにするわけにはいかない。
だからこそ、心のこもらぬ挨拶を受けて、怒りはさらに募った。
「お言葉、ありがとうございます。サイサリス公国を代表して、謹んでお礼申し上げます」
怒りを呑み込み、如才なく言葉を返す。
その瞬間、ザルファ公子は口元に笑みを浮かべ、ゆっくりと告げた。
「亡国のサイサリス公国を代表して、ということですか」
一瞬、聞き間違いかと思った。
頭の中で、今の言葉を繰り返す。
しかし、やはり間違いではない。
胸の奥で押し殺していた感情が、音を立てて弾けた。
「亡国だと。貴様、どういうつもりだ」
声を荒げたビアトリクスの瞳が鋭く光った。
その気迫に応じるように、護衛の二人も即座に立ち上がり、彼女の左右に並び立つ。
次の瞬間、天幕の布がはためき、外から複数の気配が雪崩れ込んできた。
鍛え上げられた鎧姿のアンドラ公国兵、二十名ほどが無言で踏み入り、ビアトリクスとザルファの間に立った。
外からは金属音と足音が幾重にも響いてきた。
天幕全体が、すでに大勢の兵に包囲されていることは疑いようもなかった。




