【058】ルーク王、死兵を退ける
アラスター侯爵と合流してから四日後のことだった。
その間、ルーク王が率いるルトニア王国軍一万二千は、退却を続けるサイサリス公国軍をひたすらに追い続けていた。
その姿は、まるで時間そのものと競っているかのようであった。
その行軍を見て、フランク王国との戦で数々の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の将、リアム侯爵が口を開いた。
「ルーク王、行軍の速度があまりに速すぎます。
このままでは、サイサリス公国軍を捕捉したとしても、動ける兵が少なくなりましょう」
ルーク王は短く笑みを浮かべ、兵たちの列に視線を走らせた。
「リアム侯爵、その懸念は理解している。
だが、兵の顔をよく見てみよ。
この勝ち戦において、疲れを覚えているように見えるか。
今はサイサリス公国軍を捕らえることだけを考えればよい。
多少、縦長の陣形になろうとも構わぬ」
ルーク王の答えに、リアム侯爵はわずかな危うさを覚えた。
ただ、エデッサの戦いで敗れたアラスター侯爵が「ビアトリクスを侮るな」と伝えてきた報告を思い出した。
まさにその直後、前方から伝令が駆け込み、声を張り上げた。
「この先で、八百のサイサリス公国軍が布陣しております」
ルーク王は、リアム侯爵とラルフ子爵に視線を向け、問いかけた。
「捨て石にされた兵か」
ラルフ子爵がすぐに応じた。
「八百では我ら一万二千を止めることはできません。時間稼ぎにすらならぬでしょう。
ただし、この先も同じように少数を配置されれば、その都度攻略せねばならず、厄介ではあります」
リアム侯爵は不快げに顔をしかめた。
「この先も八百や千といった兵を何度も置いてくるつもりなのか」
ラルフ子爵は険しい表情で続ける。
「十分に考えられる策です。前方の地形は把握しておりますが、伏兵を潜ませる場所はありません。
ゆえにビアトリクスがこの道を進んでいるのは確かでしょう。
八百や千を段階的に配置されれば、その都度相手にせねばならず、厄介極まりない戦法です」
ルーク王は二人のやり取りを聞き、
「陣形が伸び切っている。
この場には、まだ二千ほどしか到着していない。
たとえ八百の兵であろうと油断せず、一度陣形を整え直そう」
八百の兵が視界に入る位置で、後続の到着を待つことにした。
やがて、その八百がこちらへと動き出す。
異変に気付いた年配のリアム侯爵は、険しい表情を浮かべた。
「ルーク王、お下がりください。この八百は死兵です。
行軍を足止めするだけの捨て駒ではありません」
ラルフ子爵が眉をひそめると、リアム侯爵はわずかに首を振った。
アラスター侯爵を破ったビアトリクスの作戦の鮮やかさが、ルーク王の軍を過度に慎重にさせていた。
敵の動きを読み違えていたのである。
「ラルフ子爵、深読みしすぎだ。
幾重にも小部隊を残して進軍を遅らせるのではない。
この八百そのものに、全ての足止めを託しているのだ」
その声には、幾多の戦場をくぐり抜けた者ならではの確信が宿っていた。
使い捨ての遅滞部隊であれば、圧力をかければいずれ崩れる。
だが、この八百は違う。
率いる武将の力量と兵の忠誠を信じ、持てるすべてを投じて我らを削り取ることを託された精鋭だった。
このサイサリス公国軍を撃破するには、時間も損害も避けられない。
下手をすれば本隊作戦そのものに遅延をもたらす。
リアム侯爵はそう読んだ。
「来るぞ。者ども、防御態勢を取れ!」
鋭い号令に応じ、兵たちは慌てて陣形を固めようとする。
だが次の瞬間、八百の影が一斉に迫ってきた。
準備が整う前に、ルトニア王国軍は急襲を受けて混乱に陥る。
その渦中、ルーク王は護衛のラルフ子爵と共に、急ぎ後方へと退いた。
こうして二千のルトニア王国軍と八百のサイサリス公国軍の戦いが始まった。
しかし、死兵と化した八百を前に、ルトニア王国軍は容易にこれを止めることができなかった。
やがて、二千を突破して姿を現したのは、烈火のごとき突撃を仕掛けるサイサリス公国軍であった。
すでに数を減らしていたが、その勢いは留まるところを知らない。
獲物を狙う猛獣のように、一直線にルーク王を目指して迫っていた。
逃げるルーク王、それを追うサイサリス公国軍。
街道を進む一万二千の縦長の軍列は、わずか八百の兵によって混乱の渦に呑まれた。
だが、圧倒的な兵力差の前に、サイサリス公国軍はやがてその数を削られていく。
最後には、一人として動く者はいなくなった。
八百の兵、全員が討ち死にしたのである。
ルーク王は苛立ちを隠しきれなかった。
「くそっ、八百という少数の兵に、ここまで好き勝手をされるとは何たるざまだ。
ラルフ、陣形を立て直してサイサリス公国軍を追撃することは可能か」
ラルフ子爵は即座に答えた。
「今回の襲撃による被害は軽微にとどまっております。
しかし、混乱した陣形を立て直したところで、今からの追撃では間に合わぬかと存じます」
ルーク王は歯噛みした。
「最後の最後で、サイサリス公国軍の息の根を止められなかったか。何とも悔しいことだ」
その言葉を聞いたハンナは、同じように悔しげな表情を浮かべた。
だがすぐに気持ちを切り替えるように、ルーク王へ語りかける。
「ルーク王、我らはすでにルトニア王都を奪還し、ルトニア王国を再興いたしました。
さらに、王都を占拠していたサイサリス公国軍一万五千を撃破したのです。
今日、これ以上何を望まれましょうか。
大切なのはこれからです。三百年以上の歴史を持つルトニア王国。
その新しい歴史を、まさに今日から刻んでいくのです」
ハンナの言葉に耳を傾けながらも、ルーク王の胸にはなお苦味が残っていた。
八百に過ぎぬ兵が、これほどまでに王国軍を翻弄した事実を、容易に忘れることはできない。
だが、確かに勝利は勝利だった。
王都は奪還され、王国は再興された。
そして今、ルトニアの軍旗は再びこの大地に翻っている。
サイサリス公国軍は退き、ビアトリクスも祖国へと逃れた。
だが、その背を追う刃を振り下ろすことは叶わなかった。
それは、王国にとって大きな成果であると同時に、次なる戦の火種でもあった。
ルーク王は天を仰ぎ、深く息を吐いた。
三百年の歴史を持つルトニア王国。
その未来を切り開くのは、まさにこれからなのだと、誰もが胸の内で理解していた。




