【057】ビアトリクス公女、八百の背に誓う
エデッサでの戦いから九日が過ぎていた。
アラスター侯爵を破った勝利の余韻など、ビアトリクスには残っていなかった。
彼女は表面こそ平静を装っていたが、一刻も早くサイサリス公国へ帰還しなければならないと、内心では強い焦りに駆られていた。
その理由は明白だった。
先の敗戦で、アーロン将軍やローガン侯爵といったルトニア王都に滞在していた国の重鎮たちが討ち死にしたのである。
頼みの綱であるキール将軍は、国境に位置するアラモ城塞都市を守っていた。
そこは草原から攻め寄せる草原の民を食い止める最前線であり、彼が城を離れることは許されなかった。
現在、サイサリス公国に残る主要な人物は、ダレル団長とアデイラ公妃の二人だけにすぎない。
すなわち、自分が率いるこの軍勢こそが、サイサリス公国に残された最後の軍勢と言っても過言ではなかった。
この軍勢を連れ帰ることができなければ、国に残るのはダレル団長率いる五千の傭兵団のみとなる。
それでは籠城すらままならず、国家の存亡は危うくなるだろう。
その背後からは、ルーク王とアラスター侯爵が合流した一万二千の大軍が迫りつつあった。
ビアトリクスが率いる一万の軍勢は、すでに疲弊しきっていた。
明日にはようやくサイサリス公国の領土が見える位置までたどり着ける。
だが、その前に越えねばならぬ障害があった。
領地に戻るには必ずヴィクセル川を渡らなければならない。
しかしそこに架かる橋はあまりに細く、一万人が一度に渡れるようには設計されていなかった。
必然的に行列は長大となり、渡河には多大な時間を要する。
全軍が橋を渡りきる前に追撃軍に捕捉され、襲撃を受ける最悪の光景が容易に想像できた。
では反転してルトニア王国軍と対峙するのか。
兵力は一万対一万二千、互角といえなくもない。
だが、九日間の退却戦で兵糧は尽きかけており、長く戦う事はできない。
一度はヴィクセル川手前の小高い丘に陣を築く案も考えた。
しかし、食料は底を突きかけ、援軍の見込みもない。
その状態で籠もれば、やがて飢えと疲弊によって崩れるだけだった。
ビアトリクスの顔は険しさを増し、沈思の果てに結論を出せずにいた。
いくら思案を巡らせても、妙案はひとつとして浮かばなかった。
その間にも、サイサリス公国軍一万は必死に足を進め、祖国への帰路を急いでいた。
誰もがただ一つ、サイサリスの土を再び踏みたいと願っている。
異国の地で命を落とすより、祖国に帰りたい。
その切なる思いが、ひしひしと伝わってきた。
ビアトリクスの苦悩を横で見守っていた副官エイベルが、静かに口を開いた。
「ビアトリクス様、進言がございます」
ビアトリクスは顔を上げ、穏やかな表情を浮かべる副官に目を向けた。
その落ち着きがかえって胸をざわつかせる。
「どうしたのです」
「このまま行軍を止めず、ヴィクセル川の橋を渡ります。
おそらくビアトリクス様のご懸念どおり、兵の半数が渡った時点でルトニア王国軍に捕捉される可能性があります。
しかし、私が殿を務めてルトニア王国軍の足止めを行います。
人選はすでに済ませてあり、正規兵のみで編成した八百名の名簿を作成し、部隊編成も完了しています」
「そのような犠牲を払わせるわけにはいきません。
私は兵たちに、全員を無事に連れ帰ると約束したのです。
それは、エイベル、あなたも含めてです」
「ビアトリクス様。今は言葉を交わしている時間すら惜しいのです。
八百名すべてが、この任務を承知して臨んでおります。
そして皆、あなたがサイサリス公国に戻り、国を立て直し、再びルトニア王国を攻め落とすと信じています。
今回の攻略は、結果として失敗でした。
オリバー大公は亡くなり、ルトニア王都では重鎮たちが討ち死にしました。
しかし、それは今日の敗北にすぎません。
明日の敗北ではないのです。
明日を迎えるために、どうか命令をお下しください」
その言葉に、ビアトリクスの表情がかすかに揺れた。
兵を置き去りにするなど到底できないという葛藤が、その瞳に影を落とす。
だがエイベルは、ためらう彼女に向けて静かに続けた。
「とはいえ、敵には苛烈で味方には優しいビアトリクス様は、命令を下せないでしょう。
それ故に、すでに八百名には、味方がヴィクセル川の橋を渡りきるまで足止めを行うよう、私から命じてあります。
もし万が一、我々八百名のうち一人でも生き残ることができれば、サイサリス公国に戻った際に命令違反として処罰してやってください」
その言葉に、ビアトリクスの表情がわずかに和らぎ、口元に静かな笑みが浮かんだ。
「処罰などありえません。むしろ勲章を与えるでしょう。
命令違反であっても、それは最も誇るべき違反になるからです」
エイベルは軽く肩をすくめ、いつもの穏やかな笑みを返した。
こうしている間にも、一万の軍勢は足を止めることなく進み、ヴィクセル川は刻一刻と近づいてくる。
エイベルの言う通り、もはや時間をかけて議論する余裕はなかった。
穏やかな表情を浮かべる副官を見つめながら、これ以上引き留めるのは無意味だと悟ったビアトリクスは、八百という兵数のあまりの少なさに胸を締めつけられる思いがした。
「八百名では、あまりに少なすぎる。徴募兵、徴収兵も増やしましょう」
「ビアトリクス様、それはお気持ちだけ頂戴します。
八百を例え二千に増やしたところで状況は変わりません。
稼げる時間が三十分から、ほんのわずかに延びるだけです。
それよりも今は、一人でも多くの兵を無事にサイサリス公国へ連れ帰ることをお考えください」
「すまない」
ビアトリクスは心の底からそう呟いた。
ルーク王の一万二千に抗するために、八百名を置き去りにしなければならないのだ。
「謝るのはまだ早いです。
サイサリス公国に戻られてから、そのようにおっしゃってください。
では、早速準備をいたします。
何卒、無事にサイサリス公国へお戻りになられますことをお祈りしています」
深く一礼すると、エイベルはためらうことなく後方へと歩み去っていった。
その背中は静かでありながら揺るぎなく、覚悟の重さを雄弁に物語っていた。
その姿を見送るビアトリクスは、胸の奥でただひとつの誓いを固めた。
必ずサイサリス公国に帰り、彼らの犠牲を無駄にはしない、と。




