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【056】ルーク王、追撃の決断

ルーク王はチェド湖でサイサリス公国軍を撃破した勢いそのままに、ビアトリクス率いる軍を討つべく北上していた。


率いる兵は一万。これが今、ルトニア王国が前線に動員できるすべてである。


もっとも、これは王国全軍の総兵力ではない。残り五千は後方に残し、別任務に充てられていた。


そのうち四千は奪還したばかりの王都に配置された。

王都には戦乱の爪痕が深く刻まれ、街路や城壁は破損が目立ち、民心も未だ安定していなかった。サイサリス公国占領時の協力者や潜伏勢力が再び動き出す恐れがあり、ルーク王はこれを重く見て防衛と治安維持を優先し、王権の威信を確立させるため兵を残したのである。


さらに千はチェド湖周辺から王都にかけての補給路確保と残党掃討に投入された。街道が脅かされれば兵糧は途絶え、いかなる勝ち戦も敗北に変わる。背後の安全確保は必須だった。


チェド城を東に進めば、裏切り者、コンラッド侯爵の地が広がっていた。

オリバー大公の死を受け、彼はやがて南部から撤退して領地に戻るだろう。

それは直ちにルトニア王国へ脅威を及ぼすものではなかった。


一方で、ビアトリクスは軍を率いて南東へ退き、サイサリス公国への帰還を目指していた。

もしここでコンラッド侯爵の領地に固執すれば、彼女を取り逃す恐れがある。


ルーク王は一瞬迷ったが、すぐに決断した。

ビアトリクス公女を討つことこそが、この戦の勝敗を定めるのだと信じた。


こうしてルーク王の元で北上作戦に投入できる兵は一万となった。ラルフ子爵、リアム侯爵、そしてハンナも本隊に加わり、追撃戦の中心を担っていた。


その道中、伝令が駆け込んできた。報告は衝撃的なものだった。


三日前、サイサリス公国軍を率いるビアトリクスとアラスター侯爵が交戦し、アラスター侯爵が敗北したというのだ。


ルーク王は怒りを露わにした。


「今回は挟撃が目的であったはずだ。我々が到着するまでサイサリス公国軍に攻撃を仕掛ける必要はないと伝えていた。アラスター侯爵は何を考えているのだ」


憤るルーク王に対し、冷静な声を上げたのはラルフ子爵であった。


「アラスター侯爵が、ルーク王の指示を受けて命令違反をするとは考えられません。

こちらから送り出した伝令が、サイサリス公国軍に捕らえられたと見るのが正しいでしょう」


その言葉にリアム侯爵も同意した。


「ラルフ子爵の言う通りです。アラスター侯爵が率いる兵は四千。

対するサイサリス軍は一万。寡兵で大軍に挑む理由はありません」


二人のやり取りの後、ハンナが口を開いた。


「発言をお許しいただけるでしょうか」


ルーク王はリアム侯爵を見て、ハンナが新参であることを承知しつつ発言を許すと告げた。

三名に一礼したハンナは静かに語り始める。


「後ほどアラスター侯爵から直接報告を受けられると思います。

ただ、先ほどのお話を聞いて思い出しました。

ビアトリクスの養育係はキール将軍であり、その知識と経験をほぼすべて受け継いだといわれています。今回アラスター侯爵が敗れた原因はそこにあるのではないでしょうか」


三名は顔を見合わせた。それほどまでにキール将軍の名は大陸に知れ渡っていた。


ラルフ子爵がうなずく。


「なるほど。事前に聞けて良かった。十八歳の小娘と侮るのは危険ですね。我々からの伝令が届かなかったのも、彼女が伝令を捕らえるため相当な労力を割いたからでしょう」


リアム侯爵も口を開く。


「アラスター侯爵は反旗を最初に掲げた王族。

その功績は大きい。

一度話を聞いてから責任をどう取らせるか決めればよいのではありませんか」


ルーク王はゆっくりとうなずいた。


「その通りだ。今回の失敗で功績が消えるわけではない。

それに、敗戦の経緯は今後ビアトリクスと対峙するうえで極めて有意義だ」


ルーク王が、アラスター侯爵の敗北を聞いてから、二日後。


北上を続けるルーク王の軍にアラスター侯爵が合流した。

憔悴しきった姿で天幕に現れ、ルーク王の前に跪いた。


「この度の敗戦、誠に申し訳ございません。

将兵を無為に失いました。この罰はいかようにもお受けいたします」


ラルフ子爵が静かに言った。


「膝をお上げください。我々の伝令が届かなかったことが原因でしょう。そのために連携できなかったのです」


言葉を継ぐようにルーク王が口を開いた。


「一度の敗戦は一度の勝利で補える。百戦百勝などあり得ぬことだ。

次の働きに期待している。それに、エデッサでの挙兵は見事だった。

よく四千を集め、サイサリス軍を引きつけてくれた。

おかげで我々は王都のサイサリス軍をチェド湖で討ち取れたのだ。改めて礼を言う」


アラスター侯爵は深々と頭を下げた。


「ルーク王の寛大なお心に感謝いたします」


ルーク王は続ける。


「時間が惜しい。これからビアトリクスを追わねばならぬ。

そのために今回の戦いを詳しく報告してほしい」


アラスター侯爵は姿勢を正し、簡潔に語り始めた。


「まず、朝のことです。ビアトリクスの兵力が四千にまで減っているとの報告を受けました。

罠の可能性を考えつつも陣地を確認すると、焚火の跡は三分の一ほどに減っていました。

そこでルーク王が王都を奪還した結果、士気が落ち逃亡兵が出たと判断しました。


好機と見て追撃を始め、背後に取りついたところ抵抗は弱く、容易に突き崩せました。

そして敵の中にビアトリクスの姿を確認したのです。


しかしあれこそ罠でした。


彼女を目にした瞬間、左右の森から伏兵が現れ、我が軍は包囲されました。

敗北の原因は、敵兵力を過小評価し、偵察兵の報告を待たず、そしてルーク王との連絡が途絶えていたこと。全てが彼女の周到な戦略だったのです」


四人は顔を見合わせた。十八歳の少女の策とは到底思えなかったが、アラスター侯爵の表情が真実を物語っていた。


沈黙の後、ラルフ子爵が言った。


「貴重な情報に感謝します。

これで我々はビアトリクスを知ることができましたが、彼女は我々を知らない。次は必ず勝てます。

お話を聞く限り、確かに十八歳の小娘にしては見事な策でしょう。

ですが、我々は一万。そこにアラスター侯爵の軍から約二千が加わります。

対してビアトリクスは、一万から兵を減らしている」


ラルフ子爵は地図を広げ、指を置いた。


そこは、アラスター侯爵が敗れた地点から南東へ進み、さらに東へ向かう街道の先、ヴィクセル川にかかる橋であった。


「現在のビアトリクスの位置から考えると、この小さな橋まで我が領内を十日ほど移動しなければなりません。

サイサリス公国へ戻るには必ずヴィクセル川を渡らねばならず、大軍が一度に渡れる場所はここしかないのです」


皆の視線が地図上の橋へと集まる。

その幅は狭く、渡る兵の列は必然的に細長く伸びるだろう。


「ビアトリクスは必ず、この橋を渡って戻るはずです。

橋を渡る前に攻めかかれば、兵力差で押し切れます。

その時ばかりは、いかなる策も通じることはないでしょう」


言葉を終えると、場に沈黙が落ちた。

橋の位置、渡河の難しさ、そして一度襲いかかれば逃げ場のない地形。

それらが一つになった時の光景を、誰もが頭に思い描いていた。


ルーク王の目は鋭く光った。

標的は明確、そして逃げ道は一つしかない。


ルーク王が力強く言った。


「では、退却するビアトリクスを追撃するとしよう。

奴を討ち取れば、サイサリス公国はわが手に入る」


ルーク王たちは、この約二か月にわたるサイサリス公国のルトニア王国占領から再興までの一連の戦いが、ついに自分たちの勝利で幕を閉じると確信していた。

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