【055】ビアトリクス公女、エデッサでの勝利を捨てる
ビアトリクスの策により、サイサリス公国軍は追撃を受けやすいように見せかけていた。
それは、ルトニア王国軍を罠へと誘い込むためである。
彼女の軍勢は士気が下がり、兵力もほぼ同数にまで減っているかのように装っていた。
そして狙い通り、罠は動き出す。
ルトニア王国軍は、二日間の鬱憤を晴らすように、アラスター侯爵の檄を受けて大地を揺るがす勢いで街道を駆け出した。
やがて先頭の騎馬隊がサイサリス軍の後尾に追いつき、激しくぶつかり合った。
後列は切り崩され、敵兵の雄叫びが戦場を満たす。
かつて精強と恐れられた軍は、いまや数を減らし、崩れかけているように見えた。
その光景は、ルトニア王国軍の兵たちに勝機を錯覚させる。
勢いに乗ったアラスター侯爵は、さらに兵を急がせ、勝利を確信して前へと突き進んだ。
そしてその視線の先に、一人の姿を捉える。ビアトリクス公女である。
彼の顔には勝利を疑わぬ色が浮かび、先日まで抱えていた不安の影は消えていた。
四千の兵で挙兵した当初は、最悪の場合撤退して時間を稼ぐつもりでいたはずだ。
だが今はその慎重さを失い、晴れやかさすら漂わせていた。
もし冷静であれば、偵察の報告を待ち、王都の状況にも気を配っただろう。
しかし勝ち戦の幻影に心を奪われた彼は、ただ前進を急ぐばかりだった。
「来たな」
ビアトリクスは小さくつぶやき、森に潜む兵たちへ視線を送る。
緊張を押し殺した数千の兵が、息をひそめて待っている。
ビアトリクスの策により、ルトニア王国軍の騎馬隊は街道に細長く列を伸ばして進んでくる。
前進を優先するあまり歩兵との距離は大きく開き、その無防備な姿は指揮官の焦りを如実に示していた。
やがてアラスター侯爵の視線がこちらに向き、彼女の姿を認めたのだろう。
大きく身を乗り出し、声を張り上げる。
「ビアトリクスがいるぞ!あの小娘を討ち取れ!」
兵士たちは歓声を上げ、鬨の声が戦場を震わせた。
だがその熱狂を、ビアトリクスは冷ややかに見つめる。
彼らは自ら罠に飛び込みつつあることに、まだ気づいてはいなかった。
ビアトリクスの口元に、戦場には似つかわしくない微笑が浮かんだ。
その笑みは敵の目に映れば、不気味な予感を呼ぶものであったろう。
次の瞬間、左右の森がざわめき、サイサリスの兵が一斉に飛び出す。
矢が雨のように降り注ぎ、鋭い槍の列が敵の横腹を抉った。
さらに一部の兵が後方へ回り込み、退路を断つように展開していく。
「敵は罠に嵌った。討ち取れ!」
ビアトリクスの声が戦場を貫いた。
その一声でサイサリス公国軍の士気は爆発し、兵たちは濁流のごとく敵へ殺到した。
アラスター侯爵は狼狽し、後方へ必死に指示を飛ばしていた。
ようやく事態を悟ったのだろうが、すでに手遅れであった。
ルトニア王国軍の軍勢は縦に細長く伸び、前後の繋がりを完全に失っていた。
退路は完全に塞がれ、包囲は着実に完成していった。
ビアトリクスは馬上で姿勢を正し、戦場に響き渡る声を張り上げた。
「アラスター侯爵、せっかくのお出ましだ。ゆっくりしていかれるがよい!」
その言葉は確かにアラスター侯爵の耳に届いた。
敵味方の怒号に混じりながらも、はっきりと聞き取れるほどの余裕と力強さを帯びていた。
威圧を兼ね備えたその響きに、アラスター侯は思わず顔を強張らせる。
一方でサイサリスの兵たちはその声に奮起し、勝利を確信してさらに勢いを増していった。
その姿を囮と見せることが、敵の心を縛っていることをビアトリクス自身も理解していた。
だが恐れではなく冷静さが、彼女の胸を支配していた。
乱戦の中、アラスター侯爵の軍勢は瞬く間に崩壊した。
四千の兵は三分の一を失い、統制を完全に喪った。
ルトニア王国軍の先頭を走っていた騎馬は必死に退こうとした。
だが振り返れば、背後にはサイサリスの槍兵が盾のごとく並び、退路を完全に封じていた。
もはや脱出は不可能であった。
「勝ったな」
ビアトリクスは隣のエイベルに告げる。
その確信は揺るぎなかった。
だがその直後、ルトニア王都のサイサリス公国軍からの新たな伝令が、戦場へとたどり着いた。
疲労に覆われたその姿は、二日の道程を命を削って駆け抜けてきたことを物語っていた。
「報告します。王都のサイサリス公国軍は壊滅しました。
ルーク王子、いえ、ルーク王が率いる一万の軍勢が、こちらに向けて進軍中です」
戦場の喧騒の中で、エイベルは伝令の言葉に息を呑んだ。
今は目の前の敵を討つことだけに集中すべきだとわかっている。
だが、自軍の壊滅という事実に、心を揺さぶられずにはいられなかった。
その報せに、ビアトリクスは短く息を吸い、迷いなく命じた。
「全軍撤退。当初の目的は果たした。王都が失われた以上、ここでの勝利は不要だ。
我々が無事に帰還することこそ、最大の勝利だ」
「はっ」
エイベルは深くうなずき、直ちに全軍に退却の指示を下した。
エイベルは目の前の戦況を見ていた。
圧倒的な勝利を収めつつあり、間もなくアラスター侯爵を討ち取るところまで来ている。
味方の兵たちは誰もが勝利を確信していた。
その光景を前に、エイベルの胸にも目前の勝利を捨てる惜しさが去来した。
しかし、ビアトリクスの命令は撤退だった。
だが彼は理解していた。
ここでアラスター侯爵の首を挙げたところで、サイサリス公国に帰還するという明確な目的の前には、それほど意味はない。
すでにアラスター侯の軍勢は三分の一を失い、一つの軍団としての機能を喪失していた。
ルーク王率いる軍と挟撃する力など、もはや残ってはいない。
「かしこまりました。ある意味、残念ですが、目的は達成できました」
伝令が駆け、退却の号令が広がる。
前線の兵たちは一瞬戸惑い、声を漏らした。
「この状況で退却なのか」
「間もなくアラスター侯爵を討ち取れるというのに」
だが誰一人として命令に背くことはなかった。
兵たちは統制を乱さず、巨大な生き物のように流れるように南へ退いた。
戦場には、アラスター侯とそのわずかな生き残りだけが取り残された。
地に横たわる無数の屍、血と鉄の匂い、馬のいななきと兵のうめき声。
荒れ果てた戦場は敗者の姿を映し出していた。
アラスター侯は馬上に辛うじて身を保ち、口を開いた。
「生き残れたのか。いや、見逃されたと言った方が正しいだろう。
ここまで壊滅的な敗北を喫するとは、思いもしなかった」
その声は喧噪にかき消され、ビアトリクスの耳には届かない。
彼女は振り返らなかった。
視線も心も、すでにサイサリス公国への帰還に向けられていた。
そこにあるのは戦場の勝敗ではなく、国の未来をつなぐという使命だった。




