表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

56/65

【055】ビアトリクス公女、エデッサでの勝利を捨てる

ビアトリクスの策により、サイサリス公国軍は追撃を受けやすいように見せかけていた。

それは、ルトニア王国軍を罠へと誘い込むためである。


彼女の軍勢は士気が下がり、兵力もほぼ同数にまで減っているかのように装っていた。

そして狙い通り、罠は動き出す。


ルトニア王国軍は、二日間の鬱憤を晴らすように、アラスター侯爵の檄を受けて大地を揺るがす勢いで街道を駆け出した。


やがて先頭の騎馬隊がサイサリス軍の後尾に追いつき、激しくぶつかり合った。

後列は切り崩され、敵兵の雄叫びが戦場を満たす。


かつて精強と恐れられた軍は、いまや数を減らし、崩れかけているように見えた。

その光景は、ルトニア王国軍の兵たちに勝機を錯覚させる。


勢いに乗ったアラスター侯爵は、さらに兵を急がせ、勝利を確信して前へと突き進んだ。

そしてその視線の先に、一人の姿を捉える。ビアトリクス公女である。


彼の顔には勝利を疑わぬ色が浮かび、先日まで抱えていた不安の影は消えていた。

四千の兵で挙兵した当初は、最悪の場合撤退して時間を稼ぐつもりでいたはずだ。


だが今はその慎重さを失い、晴れやかさすら漂わせていた。


もし冷静であれば、偵察の報告を待ち、王都の状況にも気を配っただろう。

しかし勝ち戦の幻影に心を奪われた彼は、ただ前進を急ぐばかりだった。


「来たな」


ビアトリクスは小さくつぶやき、森に潜む兵たちへ視線を送る。

緊張を押し殺した数千の兵が、息をひそめて待っている。


ビアトリクスの策により、ルトニア王国軍の騎馬隊は街道に細長く列を伸ばして進んでくる。

前進を優先するあまり歩兵との距離は大きく開き、その無防備な姿は指揮官の焦りを如実に示していた。


やがてアラスター侯爵の視線がこちらに向き、彼女の姿を認めたのだろう。

大きく身を乗り出し、声を張り上げる。


「ビアトリクスがいるぞ!あの小娘を討ち取れ!」


兵士たちは歓声を上げ、鬨の声が戦場を震わせた。

だがその熱狂を、ビアトリクスは冷ややかに見つめる。

彼らは自ら罠に飛び込みつつあることに、まだ気づいてはいなかった。


ビアトリクスの口元に、戦場には似つかわしくない微笑が浮かんだ。

その笑みは敵の目に映れば、不気味な予感を呼ぶものであったろう。


次の瞬間、左右の森がざわめき、サイサリスの兵が一斉に飛び出す。

矢が雨のように降り注ぎ、鋭い槍の列が敵の横腹を抉った。

さらに一部の兵が後方へ回り込み、退路を断つように展開していく。


「敵は罠に嵌った。討ち取れ!」


ビアトリクスの声が戦場を貫いた。

その一声でサイサリス公国軍の士気は爆発し、兵たちは濁流のごとく敵へ殺到した。


アラスター侯爵は狼狽し、後方へ必死に指示を飛ばしていた。

ようやく事態を悟ったのだろうが、すでに手遅れであった。

ルトニア王国軍の軍勢は縦に細長く伸び、前後の繋がりを完全に失っていた。

退路は完全に塞がれ、包囲は着実に完成していった。


ビアトリクスは馬上で姿勢を正し、戦場に響き渡る声を張り上げた。


「アラスター侯爵、せっかくのお出ましだ。ゆっくりしていかれるがよい!」


その言葉は確かにアラスター侯爵の耳に届いた。

敵味方の怒号に混じりながらも、はっきりと聞き取れるほどの余裕と力強さを帯びていた。

威圧を兼ね備えたその響きに、アラスター侯は思わず顔を強張らせる。


一方でサイサリスの兵たちはその声に奮起し、勝利を確信してさらに勢いを増していった。


その姿を囮と見せることが、敵の心を縛っていることをビアトリクス自身も理解していた。

だが恐れではなく冷静さが、彼女の胸を支配していた。


乱戦の中、アラスター侯爵の軍勢は瞬く間に崩壊した。

四千の兵は三分の一を失い、統制を完全に喪った。


ルトニア王国軍の先頭を走っていた騎馬は必死に退こうとした。

だが振り返れば、背後にはサイサリスの槍兵が盾のごとく並び、退路を完全に封じていた。


もはや脱出は不可能であった。


「勝ったな」


ビアトリクスは隣のエイベルに告げる。

その確信は揺るぎなかった。


だがその直後、ルトニア王都のサイサリス公国軍からの新たな伝令が、戦場へとたどり着いた。

疲労に覆われたその姿は、二日の道程を命を削って駆け抜けてきたことを物語っていた。


「報告します。王都のサイサリス公国軍は壊滅しました。

ルーク王子、いえ、ルーク王が率いる一万の軍勢が、こちらに向けて進軍中です」


戦場の喧騒の中で、エイベルは伝令の言葉に息を呑んだ。

今は目の前の敵を討つことだけに集中すべきだとわかっている。

だが、自軍の壊滅という事実に、心を揺さぶられずにはいられなかった。


その報せに、ビアトリクスは短く息を吸い、迷いなく命じた。


「全軍撤退。当初の目的は果たした。王都が失われた以上、ここでの勝利は不要だ。

我々が無事に帰還することこそ、最大の勝利だ」


「はっ」


エイベルは深くうなずき、直ちに全軍に退却の指示を下した。

エイベルは目の前の戦況を見ていた。

圧倒的な勝利を収めつつあり、間もなくアラスター侯爵を討ち取るところまで来ている。

味方の兵たちは誰もが勝利を確信していた。

その光景を前に、エイベルの胸にも目前の勝利を捨てる惜しさが去来した。


しかし、ビアトリクスの命令は撤退だった。


だが彼は理解していた。


ここでアラスター侯爵の首を挙げたところで、サイサリス公国に帰還するという明確な目的の前には、それほど意味はない。

すでにアラスター侯の軍勢は三分の一を失い、一つの軍団としての機能を喪失していた。

ルーク王率いる軍と挟撃する力など、もはや残ってはいない。


「かしこまりました。ある意味、残念ですが、目的は達成できました」


伝令が駆け、退却の号令が広がる。

前線の兵たちは一瞬戸惑い、声を漏らした。


「この状況で退却なのか」

「間もなくアラスター侯爵を討ち取れるというのに」


だが誰一人として命令に背くことはなかった。

兵たちは統制を乱さず、巨大な生き物のように流れるように南へ退いた。


戦場には、アラスター侯とそのわずかな生き残りだけが取り残された。

地に横たわる無数の屍、血と鉄の匂い、馬のいななきと兵のうめき声。

荒れ果てた戦場は敗者の姿を映し出していた。

アラスター侯は馬上に辛うじて身を保ち、口を開いた。


「生き残れたのか。いや、見逃されたと言った方が正しいだろう。

ここまで壊滅的な敗北を喫するとは、思いもしなかった」


その声は喧噪にかき消され、ビアトリクスの耳には届かない。


彼女は振り返らなかった。

視線も心も、すでにサイサリス公国への帰還に向けられていた。

そこにあるのは戦場の勝敗ではなく、国の未来をつなぐという使命だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ