【054】ビアトリクス公女、追撃を誘う
小休止を終え、退却が始まった。
兵士たちに無駄な動きは一つもなく、オリバー大公が亡くなった影響はまるで感じられない。
すでに昼過ぎであり、夜まで幾ばくもない頃合いであった。
ビアトリクスは副官のエイベルに向かって言った。
「夕暮れまで移動して、それから野営の準備をしましょう。
その際には火を熾すための穴を二割ほど多めに掘るよう指示を出してください」
「かしこまりました。そのように伝えておきます。
それにしても、アラスター侯爵に今晩早々に攻められることはないでしょうか」
エイベルは、実際には攻撃はないと確信していたが、ビアトリクスの考えを確認するために問いかけた。
「あちらは四千、こちらは一万。
わが軍の状況も把握できていないまま、無謀に攻め込むことはしないでしょう。
今晩は兵たちの士気が落ちないよう、そこに気を配るのがよいと考えています」
「かしこまりました。
わが軍が直前で撤退したので、エデッサのアラスター侯爵も何事か起こったと察したことでしょう。
追撃してくることは間違いないと思います。
ルトニア王都の状況がわからない以上、こちらとしても王都を目指すか、サイサリス公国に戻るか、どちらの経路を取るか悩むところです」
「そうですね。
伝令が早く状況を知らせてくれればよいのですが、こればかりは待つしかありません。
まずは王都まで戻るつもりで進みましょう。
もしローガン侯爵から連絡が届けば、追撃してきたアラスター侯爵を討つために戻ります。
そして、もし王都がすでに陥落していれば、東に進路を取りサイサリス公国に向けて退却することにしましょう。
今晩は警戒を十分にし、体を休めることを優先します」
翌朝、何事もなく朝日を拝むことができた。
サイサリス公国の精鋭たちは、胸をなで下ろしながら喜んだ。
進路はまだ定まらぬまま、軍は南下を続ける。
旧ルトニア王都を目指すのか、東へ進んでサイサリス公国に戻るのか、決断は明日以降だ。
明日には伝令が王都の状況を持ち帰るはずである。
その日の夕刻前、報告が届いた。
「エデッサからアラスター侯爵が出撃し、わが軍に距離を取ってついてきています」
「そうですか。エデッサに立てこもるよりも討ちやすい状況ですが、迎え撃ちますか?」
エイベルの問いに、ビアトリクスは首を横に振った。
「アラスター侯爵も状況がつかめていないのでしょう。
様子見をするために距離を保っているのです。
それに、彼の狙いはルトニア王都から出てくるルーク王子と私たちを挟撃すること。
こちらから仕掛けても、すぐに退くはずです」
「しかし、あのように見え隠れする敵は気になりますね」
「兵たちには、臆病者の集団が後ろからついてきているだけだと伝えてください。
我々がまとまっていれば、何の問題もありません」
「臆病者の集団、確かにその通りです。
敵を目の前にして、指をくわえて見ているだけですからね。
ビアトリクス様がそうおっしゃったと兵たちに伝えます」
こうして、サイサリス公国軍一万は堂々と進み、
その背後をルトニア王国軍四千が恐る恐る追いかけるという、奇妙な構図が生まれた。
やがて日が傾き始め、エイベルが声をかける。
「間もなく夕刻です。アラスター侯爵は我々の夜襲を警戒し、これ以上近づくことはないでしょう」
「では、野営の準備をしましょう。
今晩の夜襲は警戒しておけば十分に対応できます。
それと、今晩の火を熾すための穴は、前日の三分の一まで減らすように兵に指示してください。
少し窮屈でも、食事は我慢してもらいます」
「かしこまりました。一万の兵の食事を四千の規模で準備するというわけですね。
なかなか兵たちから不満が出そうですな」
エイベルは、ビアトリクスの意図を理解し、わざと冗談めかして言った。
本当は兵たちに不満など出るはずもない。
ビアトリクスは微笑みながら答えた。
「アラスター侯爵は、今回の反乱で真っ先に手を挙げた人物です。
戦に自信があるのでしょう。
だからこそ、こちらがまとまりを欠いているかを気にしているはずです。
それを逆手に取ります。これは本国で辺境を守るキール将軍の受け売りですけどね」
「なるほど、キール将軍直伝ですか」
エイベルは、父を失った悲しみを隠し、冷静に退却戦を指揮するビアトリクスの非凡さに感嘆した。
「相手のアラスター侯爵がどのように考えているかは分かりませんが、一つ言えることがあります。
おそらく、私を十八歳の小娘と侮っているでしょう。
そして、今回の反乱の一番手を務めたことで、彼にはすでに功績があります。
それでもなお、更なる手柄を望んで我々の後ろ姿を狙っているのなら、その時は一撃のもとに粉砕できるでしょう。
ですが、あくまで冷静に物事を判断し、ルトニア王都から攻めてくるルーク王子との挟撃にこだわるのなら、うまくは運ばないと思います」
「なるほど。では、結果は明日の昼過ぎに判明するということですね。
明日の早朝、アラスター侯爵に見つからないように六千の兵を先に出発させましょう」
「うまく、はまってくれますかね」
「そうなることを祈るばかりですね」
翌朝、エデッサから出陣したアラスター侯爵は、ルトニア王都方面へ退却するサイサリス公国軍の様子が大きく変化していることを、伝令からの報告で知った。
「サイサリス公国軍の兵士数が激減しているだと」
「昨晩までは一万ほど確認できましたが、今朝の確認では四千ほどに減っていました」
「そうか、よくやった。
サイサリス公国軍がエデッサの直前で踵を返したのには、理由があると思っていたが、
なるほど、一晩で兵が半分以下に四散するほどの事情があったのだな」
アラスター侯爵は伝令の報告に満足げにうなずき、周囲の武将たちに語った。
「これはルーク王子の策が当たったのだ。
事前に、王子からは、オリバー大公を討ち、ルトニア王都で再興の兵を挙げ、王都からサイサリス公国軍を追い落とす。と聞いていた。
そのすべてが完全に成功したわけではないだろうが、十八歳の小娘ビアトリクスが率いる軍が四散するほどの内容であったということだ。
つまり、あの小娘は求心力を失ったということだな」
アラスター侯爵は嬉々として伝令に指示を出し、追撃の準備に移った。
「昼過ぎまでに周辺の地域を隈なく偵察しておけ。
可能性は低いと思うが、退却するサイサリス公国軍が兵を分割した可能性もある。
これからサイサリス公国軍が野営していた場所を確認し、そのうえで我々の動きを決めるとしよう」
やがて、今朝までサイサリス公国軍が野営していた場所に到着した。
そこには、夕食を作るために掘られた火を熾す穴が並んでいたが、その数は昨日の三分の一ほどに減っていた。
それを確認したアラスター侯爵は、満足げに周囲の武将たちに語った。
「これを見よ。
昨日までのサイサリス公国軍の野営陣地では、数多くの火の穴があった。
それがこれほど減っている。
これこそが、兵が四散した証だ」
武将たちは感嘆の声を上げた。
「さすがアラスター侯爵です。
我々はサイサリス公国軍に何か策があるかと疑っておりましたが、この火の穴からそこまで見抜かれるとは思いませんでした」
アラスター侯爵は満足げに頷き、声を張った。
「戦場では、どのような小さなことも見落とさぬよう、細心の注意が必要だ。
だが同時に、大胆な行動も求められる。
今からは、その大胆さを見せる時だ。
敵は兵の士気が落ち、四散している。
ここで我々が全軍をもって攻撃すれば、ルーク王子に余計な手間をかけさせずに済む。
まさに手柄の立てどころだ」
彼は馬上から剣を掲げ、全軍に号令を下した。
「者ども、進め!
退却するサイサリス公国軍を、完膚なきまでに殲滅せよ!
一歩遅れれば、ひとつの手柄を失うことになるぞ!」




