【053】ビアトリクス公女、退却戦の誓い
ルトニア王国の攻略は、サイサリス公国の総力を結集して行われた。
その激戦から二か月ほどが過ぎたころ、旧ルトニア王国の王族アラスター侯爵がエデッサにて反乱を起こす。
エデッサは商都ハンザから一日の距離にあり、領地も隣接していた。ゆえに反乱が長引けば、商都ハンザが後ろ盾となる可能性も否めない。
そうなる前に、速やかな鎮圧が必要だった。
反乱鎮圧のため進軍する兵たちは、自らが選ばれた精鋭であることを自覚していた。
なぜなら、その軍勢を率いるのは、オリバー大公唯一の跡取りであるビアトリクス公女だったからだ。
兵たちの足取りは軽い。だが、その顔には緊張が浮かんでいた。
今回の従軍が意味するものを、誰もが理解していたからである。
ビアトリクスは副官のエイベルに声をかけた。
「行軍停止。ここで小休止にする」
すぐにエイベルが命じる。「行軍停止、小休止三十分!」
伝令たちは声を揃えて復唱し、駆け出していった。
「無理をすれば、もう少し進めますが」
問いかけるエイベルに、ビアトリクスは静かに答えた。
「そうですね。けれど、アラスター侯爵が我々の姿を見て逃げるかもしれません。
急ぐ必要はありません。
今回の目的は反乱の鎮圧ですが、それ以上にアラスター侯爵を捕らえることが重要です。
ここで逃げられれば、また別の地で火種となるでしょう」
エイベルは胸の内で思った。
十八歳のビアトリクスがこれほど冷静だからこそ、自分は熱くなれるのだ、と。
上官と副官は同じ目的を共有すべきだが、方法まで同じである必要はない。
多様な手段を検討するのが副官の務めである。
その点で、二人の関係はきわめて良好だった。
「いよいよ明日ですな。士気も高く、できれば短時間で終わらせたいものです」
「終わらせたいのではなく、終わらせるのです。
エデッサには住民もいます。
無茶は避けたいですが、それもアラスター侯爵次第。都市全体で抵抗するなら容赦は不要です。
その旨、兵たちに徹底しておいてください」
市街戦も辞さぬ覚悟に、エイベルは息をのんだ。
民衆を敵として扱う覚悟。
それが当然だと口にする公女の姿に、自分の認識を改めねばならないと強く感じた。
その時、旧ルトニア王国に残っているローガン侯爵からの伝令が駆け込んできた。
荒い息を吐き、顔は青ざめ、衣服は汗に濡れている。
長い距離を必死に走り続けてきたことは一目で分かった。
ビアトリクスは、その姿を見た瞬間に悟る。悪い知らせだ。
彼女は人払いを命じ、副官エイベルと共に耳を傾けた。
「オリバー大公が亡くなりました」
意味をすぐには理解できなかった。出発からわずか六日。父は体調を崩す様子もなかった。
本当に亡くなったのか。伝令が嘘を言っているのではないか。
思考は空白となり、時間が止まったように感じた。
「オリバー大公が亡くなった」
心の中で何度も繰り返す。
ようやく現実として受け止め始めた。
エイベルは思わず彼女の顔色をうかがった、自らを恥じた。
国の一大事に、十八歳の少女の表情から次を探ろうとするとは。
起きた事態に対応するしかないのだ。
彼女に頼るのではなく、誤った決断をさせぬよう支えるのが副官の務め。
そのために、自分がいるのだ。
「死因は何だ。戦で討たれたのか」
「いえ、暗殺されました。朝になっても目覚められず、寝室を確認したところ亡くなっており、暗殺者は寝室に出入りしていた娼婦でした」
「大公が、そのような者に」
エイベルは絶句した。しばし沈黙が場を支配する。
やがて、かすれた声で問いを続けた。
「それで、ローガン侯爵たちは?」
「こちらまで替え馬で二日かけて参りましたので、二日前の状況となります。
アーロン将軍、ローガン侯爵は、今後を協議する間もなく、直後に旧ルトニア王国の皇太子ルーク率いる軍勢の襲撃を受けました。
わが軍は苦戦中です。
私はその場面まで確認し、伝令として派遣されました」
「ルーク王子? 軟禁していたはずだが」
「世話係の女性兵が裏切り、王子と共に隠し通路から逃げたとのことです」
「なんと」ビアトリクスは呆れを隠せなかった。
「ビアトリクス様、この状況ではエデッサ攻略をやめ、合流あるいは帰国を考えるべきです」
エイベルはそう進言したが、容易でないことは理解していた。
だが、旧ルトニア王国で敗れれば、この勝利も無意味となる。
「味方の状況が分からねば、我々は立ち往生します。偵察を出しましょう」
「いつも気を遣わせて、すまない」
その言葉に、ビアトリクスは心から感謝した。
父の死を悲しむ余裕すらない中、彼の支えが救いとなった。
「兵たちに父の死を伝え、即時退却すると知らせてください。
一刻後、私から直接話します。それまで一人にさせてほしい」
「承知しました」
エイベルが去ると、ビアトリクスは一人、父との思い出を思い返した。
頬を伝う涙にようやく気づく。
「私は父を亡くして悲しかったのか」
大公としての父ばかりを見てきたが、あの大きな体は確かに娘としての安心を与えてくれていた。
もう叱られることもない。こんな急な別れが来るとは思わなかった。
泣き崩れ、声を上げて泣いた。
やがて顔を上げ、副官のもとへ戻る。腫れた目を見て、エイベルは心配そうに声をかけた。
「大丈夫ですか」
「心配をかけました。涙は止まりませんでしたが、もう公女として戻ります。
兵たちは集まっていますね。では、参りましょう」
旧ルトニア王都から連れてきた精鋭一万が整然と並んでいた。
馬上のビアトリクスを見つめ、声を発さず、その言葉を待っていた。
遠目にも、兵たちの目にはわかる。
ビアトリクスは父の死を知り、泣いていたのだ。
十八歳、まだ少女といってよい年頃の公女が泣きはらした顔で立つ姿に、兵たちは胸を締めつけられる思いだった。
ビアトリクスはゆっくりと兵の列を横切り、中央に進み出る。
そして、良く通る声で
「皆の者、既に聞いていると思う。
わが父であり、皆の主君であるサイサリス公国を建国した英雄、オリバー大公が亡くなった。
その大きな姿は、我々に安心感を与えてくれていた。
その安心感が、今はもうない。
これはサイサリス公国の滅亡を意味するのか。
我々は、この異国の地で滅びなければならないのか。
いや、違う。
わが父、サイサリス公国を建国したオリバー大公は、我々にサイサリス公国という国を与えてくれた。
そして、そのサイサリス公国とは、オリバー大公ひとりのものではない。
ここにいる、私を含めた皆がサイサリス公国なのだ。
オリバー大公が亡くなったことで、我々はここで滅びるのか。
いいや、断じてそのようなことはない。
この異国の地で我々が滅びて良いはずがない。
我々には、帰る場所がある。
必ずそこに帰らなければならない。
私は、必ず皆の者をサイサリス公国に連れて帰る。
その道のりは、決して平坦なものではないだろう。
山を越え、川を渡り、街道を離れ、道なき道を進むことになる。
だが、我々はそれを乗り越えられる。
なぜなら、我々はオリバー大公のもとでルトニア王国を滅ぼした、サイサリス公国の精鋭たちだからだ。
そして今、その精鋭を率いるのは、この私、ビアトリクスである!」
ビアトリクスの言葉を聞いていた精鋭たちは、ついに感情を爆発させた。
その声は木々を震わせ、地面を揺らし、近くにいた動物たちがこの世の終わりだとでも言うように慌てて逃げ出すほどであった。
精鋭の一万は、ビアトリクスの言葉に奮い立った。
兵たちは口々に叫ぶ。
「自分たちこそがサイサリス公国だ」
「サイサリス公国は、これからも存在し続ける」
「十八歳の少女が奮い立つのに、自分たちが怯えてどうする」
「いや、我々こそが、ビアトリクス様を守るべきなのだ」
「ビアトリクス様を無事にサイサリス公国へ連れ帰ることこそ、我らの使命だ」
こうして、サイサリス公国軍を率いるビアトリクスと、その精鋭一万による退却戦が始まろうとしていた。




