【047】坊ちゃん隊長、初陣の決断
早朝から始まったルトニア王都での戦は、昼前にサイサリス公国軍の退却によって終わった。
退却した部隊は、チェド城を目指して街道をひた走っていた。
その列の中に、デレクとバイロンの姿もあった。
「坊ちゃん隊長」
そう呼ばれていたのは、彼らの部隊長アレックスだった。
決して侮蔑を込めた呼び名ではなく、むしろ親しみと敬意を含んだ愛称である。
十名から成るこの小部隊を率いるアレックスは、サイサリス公国建国戦で功を立てた父を持つ二十二歳の青年だった。
今回の遠征は彼にとって初陣であり、その血筋と期待を込めて部隊長に抜擢されたのだった。
ただし、実戦経験に関しては、デレクやバイロンのほうが遥かに上であり、実質的には彼らや他の兵士たちに支えられて指揮を学んでいるような状況だった。
アレックスは実直で素直な性格で、だからこそ部下たちから深く慕われていた。
この退却戦のさなかでも、デレクとバイロンはそんな隊長を茶化しつつ、互いに冗談を交わしていた。
「もしあの若者を死なせて、俺たちだけが生き残ったら、きっと怒られるよな」
それは冗談めかした言葉だったが、実際にはただの言い訳にすぎなかった。
本音は、何があっても彼を死なせたくないという、純粋で強い想いがあった。
その気持ちは、他の八名の兵たちにも共通していた。
「デレク、バイロン。この状況でまで、その呼び方はやめてくれないか」
アレックスは、生真面目な性格ゆえに、部下の軽口に付き合う余裕もなく、少し憤った様子を見せた。
「まあまあ、こういう時だからこそ、ですよ。
それより、このままサイサリス公国まで撤退するご予定ですか」
「チェド湖畔のチェド城で、部隊を再編することになっている」
アレックス隊長は、馬を駆りながらも息一つ乱さずに答えた。
その脇を走るデレクとバイロンは、他の兵たちと同じく徒歩で進んでいる。
もともと彼にも徒歩で移動する選択肢はあった。
だが、あえて馬に乗っているのには、指揮官としての正しい理由があった。
徒歩で進めば、本人の体力次第で「早歩き」や「小走り」になりがちだ。
すると後続の兵たちもつられて無理をしてしまい、気づかぬうちに疲労が蓄積してしまう。
だが馬に乗っていれば、行軍速度は自然と一定に保たれ、全体を無理なく導くことができる。
さらに、馬上の姿は部隊全体からよく見え、その落ち着いた佇まいは「焦る必要はない」という無言の指揮となる。
戦場の緊張に呑まれ、呼吸が浅くなる兵も多い中、ゆるぎない馬上の姿勢は兵たちの心を安定させた。
アレックスは、そのことを理解し、行動で示していた。
兵を守り、率いる者としての正しい判断。
その冷静な采配に、デレクは「やはりこの若者は只者ではない」と深く感心せざるを得なかった。
「それで、坊ちゃん隊長は、俺たちをそこまで連れていくのが命令ってわけですか?」
先ほど呼び名を咎められたにもかかわらず、デレクは変わらずアレックスを親しみを込めてそう呼んだ。
だが今回は、アレックスは咎めることなく、静かに言葉を返した。
「デレクもバイロンも、何か言いたげだな」
その一言に、デレクは内心で舌を巻いた。
やっぱり、この隊長は優れものだ。
冗談めかしたやり取りの中にも、アレックスは部下の心の動きをきちんと見抜いている。
飄々としているように見えて、実はよく人を見ているのだ。
デレクは真顔になり、口を開いた。
「チェド城まで、無事にたどり着けるかどうか、正直わかりません。
王都であれほどの激戦を展開したルトニア王国軍が、我々を立て直しやすい場所まで、そう簡単に行かせてくれるとは思えません」
デレクの口調は真剣そのものだった。
「それで私に、軍令違反をしろと言っているのか?」
アレックスは真面目な表情で問いただした。
だが、すぐに首を振り、続けざまに言葉を発する。
「いや、いい。答えなくていい」
彼が視線を巡らせると、他の八名の兵たちの顔にも、デレクの意見に賛同する色が浮かんでいた。
最終的に判断を下すのは、自分だ。
部下の意見を盾にして命令を破ったところで、それは言い訳に過ぎない。
もしこの場でデレクに発言を許してしまえば、彼もまた、その決断の責任を負うことになってしまう。
だが、それは部下に背負わせていいものではない。
命令違反による責任も、撤退経路を変える判断の結果も、すべて自分ひとりが負うべきものだ。
アレックスは、あえて言葉を遮り、沈黙のうちにその責任を引き受ける道を選んだ。
その姿を見て、デレクとバイロンは胸の内で静かに誓った。
この若者を、ここで死なせてはならない。
このまま進軍するのが困難であることは、彼らには明白だった。
本軍を率いる将軍たちも、その困難に気づいているはずだった。
それでもなおチェド城を目指すのはなぜか。
その真意は、デレクにもバイロンにも分からなかった。
だからこそ、胸に去来するのは嫌な想像ばかりである。
冷静さを失いかけた指揮官たち。
サイサリス公国軍でも屈指の将軍たちが判断を誤りつつあるのは明らかだった。
もし先行するローガン侯爵の軍勢がすでに敵の攻撃を受けているなら、後を追う我々を待ち受けるのは破滅にほかならない。
その結末は、火を見るより明らかだった。
さらに、王都からはルトニア王国軍の追撃も迫っている。
すんなりとチェド城まで退けるはずがなかった。
この時点で、ルトニア王都から脱出できたサイサリス公国軍の兵は、七千名弱にまで減少していた。
初期に三万を超えていた大軍から見れば、わずか四分の一に過ぎない。
王都に残された者、あるいは殿軍として命を落とした兵たちの犠牲を思えば、この数で生き延びたこと自体、奇跡的とすら言えた。
思案を終えたアレックスは、静かに口を開いた。
「我々は、このまま本隊と行動を共にし、チェド湖の手前で道を分けて西側を南下する。サイサリス公国への到着は、本隊より七日ほど遅れるかもしれないが、それもやむを得ない。これから偵察という名目で許可を取ってくる」
アレックスが部隊長への許可を取りに向かうのを見送りながら、デレクは肩をすくめるように思った。
まったく、あの隊長は素直さが服を着て歩いているようなものだと感じずにはいられなかった。
こちらの意図を疑うことなく信じ切っている様子に、まるで自分たちが隊長を騙しているかのような、妙な後ろめたさすら覚える。
もちろん、実際に彼らが逃げ腰になっていたわけではない。
どうにかしてこの戦を生き延びようとし、その中に隊長の命も含めていた。
ただ、あまりにまっすぐな信頼を寄せられると、心にさざ波が立つのもまた事実だった。
それでいい、とバイロンは心中で呟く。
隊長と共に生き残れる可能性が、ほんの少しでも上がったのだから。
デレクもまた、覚悟を噛みしめるように頷いた。
こんなところで死ぬつもりはない。
ならば、それで十分だ。
やがてアレックスが戻ってきた。
どこか安堵の色が浮かぶその顔を見て、バイロンが小さく呟いた。
あの坊ちゃん、感情がすぐ顔に出るんだから。
あれでこの乱世をどう生き抜くつもりなのか。
だが、そう思いながらも、自然と胸に湧き上がるのは別の感情だった。
だったら俺たちが支えてやればいい。
それだけのことだ。
その想いは、デレクの中にも同じように息づいていた。




