【045】ローガン侯爵、チェド城への突撃命令
アーロン将軍は千の兵を率いて殿を務め、味方の退却路を確保した末に、戦場にその命を捧げた。
その事実をまだ知らぬローガン侯爵は、三千の兵とオリバー大公の遺骸を伴い、ルトニア王都を後にしてサイサリス公国への撤退を開始する。
かつて王都へ凱旋した際の威風堂々たる姿とは打って変わり、今回は敗戦の末の撤退行であった。
ローガン侯爵は兵たちに向かって命じた。
「オリバー大公の遺骸と共に、我らはサイサリス公国へ退く。
東へ進み、チェド湖の畔にあるチェド城にて軍を立て直し、そこから本国への帰還を果たすのだ」
王都を出て一日以内の距離にあり、軍勢の再集結に適した地、それがチェド城であった。
ルトニア王国を攻めた際には、さしたる抵抗もなく陥落した城でもある。
王都から街道を東へ三十キロほど進むと、北には山々が連なり、南にはチェド湖が広がる。
湖畔に沿って延びる街道の途中に、チェド城は築かれていた。
ルトニア軍の攻勢と民衆の蜂起により、王都での戦は敗北した。
やむなくサイサリス公国軍は、この城を拠点に軍の再建を図ることにした。
そのとき、副官が敵の追撃の可能性を懸念し、ローガン侯爵に問いかけた。
「ルトニア軍は追撃してくるでしょうか」
ローガン侯爵は落ち着いた様子で答える。
「アーロン将軍が殿を務めたのは追撃を防ぐためだ。
あの方が構えている以上、ルトニア軍が容易に追撃できるはずがない」
副官はその意図を理解していた。
とはいえ、副官には疑問があった。
ルトニア王国軍が全軍をもって王都を攻めてきたのか、それすら定かではない。
一部を温存して伏兵を置いている可能性もある。
三千の兵を擁していたとしても、地形や伏兵によって態勢を崩される危険は否めない。
退却戦は通常の戦闘とは異なる。
士気も事情も違う。
兵数の優位は確かにあるが、進軍とは異なり、退却は守勢に回る戦いだ。
些細な混乱が全体の崩壊に繋がるおそれもある。
だからこそ、慎重に、そして周到に進める必要があった。
ローガン侯爵は副官の懸念に一定の理解を示しながらも、伏兵程度は返り討ちにできると内心で結論づけていた。
その一方で、副官は退却中であるという事実がもたらす緊張感を重く見ていた。
敵を迎え撃つ体勢ではなく、敵から離れるための行軍である。
その認識の差が、のちに明暗を分けることになるのだった。
ローガン侯爵は政務には秀でていたが、軍事に関しては素人同然だった。
そのため、実戦経験に富む副官が軍事補佐として配され、いざ戦闘となれば彼が指揮を執ることが暗黙の了解となっていた。
副官にとって、オリバー大公の遺骸を伴った退却戦は、想像するだけでも気が重いものだった。
しかし、それを成し遂げねばならない現実は十分に理解していた。
だからこそ、無用な不安を与えることは避け、冷静な警戒だけを言葉にして伝えることが、自らの務めであり責任でもあった。
三千の兵は、騎馬隊二百、正規兵五百、徴募兵五百、そして徴収兵千八百で構成されていた。
徴収兵の割合があまりにも高く、気を緩めれば軍勢は瞬く間に瓦解しかねない。
いざという時は自らが前線の指揮を執り、ローガン侯爵と大公の遺骸を必ずサイサリス公国へ帰還させる。
その覚悟と準備は、すでに整っていた。
退却中のサイサリス公国軍は、驚くほど整然とした隊列を維持していた。
副官はその様子に目を細め、兵たちの士気がまだ保たれていることに安堵を覚える。
混乱の只中にあって、これほど規律を保てるのは、それだけで大きな救いだった。
だが、地形は最悪だった。
進路の左手には山岳地帯が連なり、右手にはチェド湖が広がっている。
その狭間に街道が一本通っており、伏兵を仕掛けるには格好の地形だった。
しかも周囲の集落はすべてルトニア王国の支配下にあり、まるで敵地を進軍しているかのような状況だった。
やがて、城門が大きく開かれたチェド城が視界に入った。
だが、城門前に迎えの兵影はなく、城壁の上にも人影が見えない。
本来なら、味方を迎える準備が整っているはずだった。
その異様な静けさに、副官は眉をひそめた。
先触れはすでに送ってある。
にもかかわらず、城は不気味なほど静まり返っていた。
「全軍、停止せよ!」
副官の号令が響き渡る。
隊列が止まり、緊張が走る。
副官はすぐさまローガン侯爵に進言した。
「城の様子が不自然です。偵察を出し、安全を確認してから入城すべきかと」
城門は開いているが、歓迎の気配も、入城準備も見られない。
警戒を強めたその矢先、重々しい音を立てて、ゆっくりと城門が閉まり始めた。
罠だ。
副官は即座に察した。
チェド城は、すでにルトニア王国軍に占拠されている。
だがそのとき、ローガン侯爵の怒声が全軍に響いた。
「騎馬隊、城門が閉じる前に突入せよ!」
続けざまに、さらに声を張り上げる。
「チェド城はすでに敵の手に落ちた!
だが、ここを突破せねば帰還の道は絶たれる!
騎馬隊は門を突破し、歩兵はその後に続け!」
命令を受けた騎馬隊二百は、訓練された動きで即座に城門へ向かって駆け出した。
その背に続いて、サイサリス公国軍の本隊も突撃を開始した。
驚いたのは、副官だった。
城門が閉じかけたのは、明らかにこちらを誘い込む計略であり、それが分からぬはずがない。
本来、攻城には投石器やはしごなどの準備が必要であり、退却中に挑むのは愚策に近い。
それでもローガン侯爵は、罠と知りながら正面から突っ込んだ。
副官は拳を握りしめた。
大公の遺骸を抱えての撤退に、感情が先行したのか。
それとも、他に道がないという判断だったのか。
だが一つ確かなのは、命令を疑って立ち止まる暇などないということだ。
「本当に、あの城に突っ込むつもりか」
副官は、押し殺した声でつぶやいた。
現場で冷静に動ける者が判断を下さねば、誰も生きて帰れない。
それでも命令は下された。
ローガン侯爵自身の口から、全軍への突撃命令として。
副官は馬を駆け、ローガン侯爵に詰め寄った。
「なぜ、突撃命令を出されたのです!
敵の計略は明白です。なぜ、我々の目の前で城門を閉じようとしているのだとお思いですか!」
声を荒らげることは避けたが、その口調は怒気を含んでいた。
だがすでに、騎馬隊は先陣を切って城門に向かって突入している。
後続の歩兵たちも進軍を止める気配はなかった。
今さらこの勢いを押しとどめることなどできない。
こうなれば、願うしかない。
せめて、城門が閉じる前に騎馬隊が中へ飛び込んでくれることを。




