【044】アーロン将軍、最後の戦
西門で戦っていた、デレクとバイロンは、撤退命令を受け取った。
そして、全軍を退却させるための殿をアーロン将軍が引き受けるとの知らせを受けた。
アーロン将軍が選ばれたと知った時、この戦場が本当に危険であることを悟った。
「あの方か。オリバー大公と長い付き合いだが、これまであまり日の目を見てこなかった」
デレクがぽつりと呟き、少し間を置いて続けた。
「この殿で、ようやく武勲を立てさせるつもりかもな」
「堅実な人だが、地味すぎる。だからこそ目立たなかったんだ」
バイロンが、どこか哀しげな声音で応じる。
重い空気が二人の間に流れる中、西門でルーク王子率いる部隊と交戦していたサイサリス公国軍が、退却の準備を進めていた。
そのとき、突如としてルトニア王国軍の陣営から、思いもよらぬ大声が響き渡った。
「おぬしたちの主。オリバー大公は、昨晩、命を落とした!
おぬしたちは、いったい誰のために戦っているのだ!」
その声は、確かに戦場にいた誰の耳にも届いた。
兵士たちが顔を見合わせ、指揮官たちがざわつく。
剣の音も、足音も、ほんの一瞬止まるほどの衝撃が、戦場を包んだ。
「まさか」
「嘘だろ」
前線の兵たちが顔を見合わせ、口々に不安の声を漏らす。
敵からの情報か、それとも混乱を狙った策略か。
緊張に包まれる中、サイサリス公国軍の将軍が喉を枯らすように怒声を張り上げた。
「惑わされるな!敵の計略だ、耳を貸すな!退却準備を続けろ!」
命令を受けた兵たちは再び動き出したが、その足取りには迷いと動揺が感じられた。
誰もが心の奥底で「もし本当だったら」という疑念を拭いきれず、それが士気を静かに削っていく。
将軍は、兵たちの表情から迷いを悟ると、再び声を張り上げた。
「ここで退かねば全滅だ!私を信じろ!」
その言葉に兵たちは頷き、「確かにその通りだ」と互いに声を掛け合った。
勢いを取り戻したサイサリス公国軍は、一度ルトニア王国軍を押し返し、その隙を突いて一気に退却を図った。
その退却は、結果として成功を収めた。
というのも、ルーク王子自身が敵軍の退却をあえて許し、王都の外に誘い出してから殲滅する意図で動いていたからだ。
退却するサイサリス公国軍の兵たちは、時折、建物の二階から放たれる矢に狙われた。
だが、いまさら二階に駆け上がって反撃している余裕などない。
退却こそが最優先。それが全兵士に徹底された共通認識だった。
「まったく、なんてことだ。あちこちから矢を射かけてきやがる。
最初に火でもつけておけば、こんな目には逢わなかっただろうに」
デレクが苦々しくつぶやいた。
だが、それもただの愚痴にすぎない。
いま兵士たちにできるのは、ただひたすらに駆けることだけだった。
走りながら、バイロンが不安げに問いかけた。
「デレク、さっきルトニア王国軍が言ってたこと、本当なのか?」
「そんなもん、敵に聞けよ」
デレクは苛立ちを隠さずに言い放つ。
「それに、仮に本当だったとしても、どうする。今は退却中だ。考えるのは後だ。
二階からの狙撃に集中しろ」
声には焦燥がにじんでいた。
デレクの言葉は冷たくも現実的で、いま彼らが置かれている状況を端的に示していた。
その言葉に、バイロンも黙って頷く。
たしかに今、この場で真偽を問うても意味はない。
すべきことはただひとつ、無事に東門を抜けることだ。
やがて、東の城壁が視界に入る。
城門周辺の建物は、退路を確保するために取り壊されていた。
すでに北門や南門で戦っていた味方の部隊は、どうやら東門から脱出を果たしたようだ。
その証拠に、東門の内側にはサイサリス公国軍の主だった部隊の姿はなく、代わりに殿を務めるアーロン将軍の部隊が、城門内で最後の迎撃に備えて静かに布陣していた。
その脇を、バイロンとデレクは振り返ることなく駆け抜け、ついに東門を越えて王都の外へと脱出した。
「デレク、さっきの話だが、うちの部隊からもアーロン将軍の殿部隊に数十名が加わるらしい。
全員、身寄りのない独り身の兵士だそうだ」
バイロンが重い口調でつぶやいた。
「ああ、聞いた」
デレクは沈んだ表情のまま、短く答える。
殿を務めるアーロン将軍の部隊が、独り身の兵士だけで構成されたという事実。
それは、オリバー大公が何か策を弄したのではなく、
本気でこの地を捨てる覚悟を持っていたことの証だった。
正規兵のみで構成された千。
仕掛けを行うには、あまりに少なすぎる。
だが、全員を見捨てるには、多すぎる人数だった。
「オリバー大公は」
バイロンが言いかけたその瞬間、デレクがそれを遮った。
「バイロン、後にしよう。今は東門を抜けての退却途中だ。
いずれ再集結して陣を立て直すはずだ。その時に何か分かるさ」
「そうだな」
バイロンは小さくうなずき、再び前を向いて走り続けた。
そのころ、王都の東門で殿を務めていたアーロン将軍は、当初の想定が外れていることに気づいていた。
本来であれば千で敵全軍を引きつけ、時間を稼ぐつもりだった。
だが目前に現れたのは、ルーク王子率いる四千の兵のみ。
つまり、ルトニア王国軍の主力はすでに、退却するサイサリス公国軍の追撃に向かっているということだ。
予想以上に早く、敵は動いていた。
そして自軍はすでに、完全に包囲殲滅の網の中にあった。
兵は全員、死を覚悟していた。
だが、その覚悟をもってしても、ルーク王子率いる軍勢を打ち破るのは容易ではない。
では王子の首だけを狙うか。それも現実的ではなかった。
もはやルーク王子にとって、アーロン将軍たちを無理に討つ必要はない。
戦局はすでに彼の掌中にあり、犠牲を払ってまで死兵を相手にする理由がないのだ。
兵を分割し、追撃を逃れた兵と合流させる案も考えたが、それも悪手だった。
分けた兵が退却兵と同様に戦線を離脱するだけなら、殿軍としての意味はなくなる。
この時点で、打てる手はすべて尽きていた。
アーロン将軍は天を仰いだ。
しかし、時は待ってはくれない。
ルーク王子率いる軍勢は、虎視眈々と彼らを包囲しようとしていた。
アーロン将軍は、沈黙する自軍に向けて静かに、だがはっきりと宣言した。
「敵はただ一人、ルーク王子である。
最後の一人となろうとも、王子を討て。
我らがそれを成せば、サイサリス公国は今後も生き残る道を得よう。
我々は、死して名を残すのだ」
そう言い放ち、アーロン将軍は静かに剣を構えた。
彼はオリバー大公と共に数多の戦場を駆け抜けてきた。
ほとんどの戦に参加しながらも「堅実」と評され、出世は遅かった。
それでも悔いはない。
生き残ること、それが自分の使命だと信じていた。
だが最後に待ち受けていたのは、勝てるはずのない戦だった。
アーロン将軍はふと空を仰ぐ。
いや、違う。
これは勝てぬ戦ではない。
オリバー大公の名の下に戦う、最後の戦だ。




