【021】ルーク王子の決断
ファルジュ王は、オーウェン丞相を言い負かして満足げに笑んでいた。
その姿を目にしたルークは、思わず声を荒げそうになる。
今この場に、そんなやり取りをしている余裕などあるのか。
だが拳を握りしめ、必死にこらえた。時間は刻一刻と迫っている。今は感情をぶつけている場合ではない。
誰も反論しないことに満足したのか、王は得意げに言葉を続けた。
「今回のサイサリス公国の侵攻を見事に撃退できれば、その地位は再考してやらんでもない。
サイサリス公国など、わがルトニア王国の敵ではない。たかが二十数年でようやく国の体裁を整えたにすぎぬ新興国だ。早急に追い払ってしまえ」
そう言い放つと、ファルジュ王は満足げに部屋を後にした。
残された者たちは顔を見合わせ、言葉を失う。
あまりにも危機感のない態度に、ただ呆然とするしかなかった。
ルークは、改めて思い知る。
父は、大陸随一と称されたルトニア王国という名声に、ただ胡坐をかいていたのだ。
しかし、サイサリス公国は違う。
新興国だからこそ、古い常識に縛られず、柔軟な発想と果断な行動力を持っている。
国の大きさや歴史の長さが、そのまま国力や実力を意味するわけではないのだ。
「丞相、王宮に残っている兵は何名だ」
「王宮に正規兵が千、王都に正規兵が四千のみです。徴募兵、徴収兵はいません」
オーウェンは口惜しげに答え、その言葉に部屋の武将たちも次々と目を伏せた。
徴募兵とは志願に応じて雇われる兵で、一定の練度と士気を備えている。
一方、徴収兵は領民から強制的に徴発される兵で、数は揃うが練度は低く、戦場では脆さを抱えていた。
このような急襲は想定外だったのだ。
時間さえあれば、徴募兵二万、徴収兵三万、あわせて五万を集めることは容易だった。
それだけの国力を、この国は本来有していた。
かつて大陸の中心と謳われ、三百年にわたる歴史を誇ったルトニア王国、
その名門の都が、建国からわずか二十五年の新興国、サイサリス公国によって今まさに滅ぼされようとしている。
その現実を、正面から見据える胆力を持った者は、この場にはひとりとしていなかった。
文化の中心として、栄光を謳歌してきた王国。だが、その栄華は今、崩れようとしている。
そしてルークは静かに思った。
父上には、逃げていただくしかない。
「衛兵、ファルジュ王を再度お呼びしろ。
王には、この王宮からただちに脱出していただく必要がある」
ルークの命を受け、衛兵はすぐに部屋を飛び出していった。
一刻の猶予もない。
サイサリス公国軍は、昨夜のうちにチェド城を突破し、休む間もなく王都へと押し寄せてきている。
三万という大軍を運用するには、あまりにも行軍速度が早すぎる。
準備が良すぎる。ルークはそう判断していた。
「敵は、どこまで侵攻してきている?」
「先頭部隊がすでに王宮に取りついております。
現在、守備隊が防衛陣を整え、いつでも迎撃可能な状態です」
「わかった。城壁を頼りに、防衛に徹するよう全兵に徹底してくれ。
この兵力差で城門を開けば、サイサリス公国軍が王宮内になだれ込む可能性の方が高い」
ルークの声には、焦燥を抑えた鋭さと、的確な判断力が込められていた。
「皆の者、よく聞いてくれ。
この兵力差では、正面からの勝利は難しい。
我々は何よりも、時間を稼ぎ、ファルジュ王をこの王宮から脱出させることに専念する」
ルークは、全員の視線を受け止めながら続けた。
「この戦でルトニア王国が滅びるわけではない。
ファルジュ王が無事に逃れ、別の土地で再起を図ることができれば、我が国はまだ生き残れる」
「サイサリス公国は、恐らく全軍をもって攻め込んできている。
だからこそ、ここで王を逃がせれば、我らの勝利と同義だ」
そして、静かに言い切った。
「私は、この王宮と共に最後まで戦い抜くつもりだ。
皆の者も、その覚悟で頼む。ここにいるのは、そういう者たちばかりのはずだろう」
ルークは、王宮の広間にいる全員の顔を見渡した。
ようやく責任者たちの姿が集まり始めていた。だが、それでも五割に満たない。
残りの五割、本来この場に真っ先に駆けつけるべき者たちは、いまだ姿を見せていない。
この非常時にあって動こうとしない彼らを、ルークは内心で「無能」と断じた。
だが、今ここにいる者たちは違う。
王宮に仕える武将の中でも、とりわけ選ばれた者たち。
その顔ぶれを見渡しながら、ルークは確信する。
この場から命からがら逃げようと考える者など、ひとりとしていない、
それだけは、間違いなかった。
そのとき、扉が開き、伝令が慌ただしく駆け込んできた。
「城門が突破されました!」
「なんだと。早すぎる!」
伝令は息を切らしながら続ける。
「先ほどの伝令が城門に到着する前に、王都内の軍勢の一部を収容しました。
その隙を突かれて、サイサリス公国軍が城内へ侵入いたしました。
さらに城門は開いたままで、閉じることができておりません!」
目の前の敵を見て、判断を誤った兵がいたのだろうか、ルークはそう考えた。
全てが後手に回っている。状況は刻一刻と悪化し、もはや猶予など残されていなかった。
せめて、ファルジュ王だけでも逃がさねば。本当に、この国が終わってしまう。
焦燥を押し殺していたそのとき、王を呼びに行っていた伝令が戻ってきた。
「申し訳ありません。ファルジュ王は所用があるため動けないとのことでした。
加えて、そちらで何とかせよとの仰せでした」
机を叩く音が部屋に響き渡った。
ルークの拳からは血が滲み、唇からも鮮血がにじんでいた。
握り締めた拳と噛みしめた口元、うまくいかない現実を、なんとか受け止めようと必死にこらえていた。
「馬鹿なことを言うな。この期に及んで所用とは、どういうつもりだ」
声が震えている。だが怒気は確かに満ちていた。
「再度、呼びに行け!」
ルークの怒鳴り声が響いたが、伝令は一歩も動かなかった。
その言葉を、伝令自身もすでに承知していたのだ。
最初から、呼び戻せる可能性などないことは分かっていた。
それでも、あえて王を迎えに行った。
だが、返ってきたのは「所用により動けない」との冷淡な命。
茫然と立ち尽くす伝令の様子を見て、ルークはファルジュ王の様子をありありと思い浮かべた。
すでに敵が王宮に侵入している以上、もはやこの中に安全な場所など存在しない。
これからは敵を斬り伏せてでも脱出路を切り開くしかない。
時間が経てば経つほど、行動の自由は奪われていくのだ。
ルークは、室内にいる武将の中から、機転の利く三名を選び、王の脱出を命じた。
命令を受けた三人は、無言で深く頭を下げ、そのまま部屋を後にする。
彼らは誰よりも、その任務が極めて困難であることを理解していた。
三人全員が命を落とす可能性は高い。
それは命じたルーク自身も、彼ら自身も承知の上だった。
だが、それでも誰かがやらねばならない。
やり遂げなければ、王国は本当に潰えてしまう。
否応なく、覚悟は決まっていた。
ルークは、残された武将たちに向き直り、声を発した。
「サイサリス公国の奴らに見せてやろう。
ルトニア王国には、まだ戦う兵がいるとな。一人でも多く、道連れにするぞ!」
その言葉に、武将たちの顔が一瞬明るくなった。
やるべきことが明確になったからだ。
これから先、彼らは鍛え上げたこの身体を使い、思う存分暴れ回る。
戦うこと、それ自体が目的となる瞬間だ。
先に出た三人がファルジュ王を無事に連れ出し、脱出できるように、
敵の目をこちらに引きつけ、その隙を作るのが彼らの役目である。
だが誰も、生きて帰るつもりはなかった。
この場に残った者すべてが、死ぬために戦う覚悟を固めていた。




