【100】ラルフ伯爵、シモーネを訪ねて
ラルフ伯は、アンドラ公国の公都にある商都ハンザの商館まで、供も連れず一人で暗闇を歩いてきた。
翌日から始まるアンドラ公国との交渉に先立ち、商都ハンザの代表としてこの地を訪れているシモーネと話をしたかったのである。
シモーネの名は、以前ルトニア王国でバーンズと話した際に耳にしていた。
この状況下で商都ハンザの代表として派遣された人物である。
ルトニア王国に来ていたバーンズが優秀であったことを考えれば、シモーネもまた優秀な人物に違いないと考えていた。
「シモーネ殿、こんな夜分にお時間を頂戴し、申し訳ない」
ラルフ伯は、座っているシモーネの姿を見て、美しく上品な女性だという印象を受けた。
「いえ、こちらこそ。
ルトニア王国再興の立役者であるラルフ伯爵とお会いできることを楽しみにしておりました」
シモーネもまた、ラルフ伯との面会を心待ちにしていた。
ルトニア王国に派遣されたバーンズから、今後はルーク王の腹心として国を支える中心人物になるだろうと聞かされていたからである。
ラルフ伯は笑みを浮かべて答えた。
「そのように言っていただけると、こちらも話がしやすいものです」
シモーネは上品な笑顔を崩さず、軽く首を傾げた。
「バーンズからは、とても独り言がお上手と聞いております。
本日も独り言をご準備なさっているのですか?」
それは、バーンズと話したときのような、きわどい話題を持ち出すつもりなのかを確かめる問いであった。
「確かに、バーンズ殿と話したときには独り言が多かったですね。
ですが、今のところ独り言の予定はありませんので、ご安心ください」
シモーネは、ルトニア王国再興の功績によって伯爵となった彼が、自分のようなアンドラ公国商館の代表に対しても丁寧な口調を崩さないことに好感を抱いた。
「わかりました。
ラルフ伯爵が必要とする情報があればお知らせします。
ただし、商都ハンザの立場上、各国に対して秘匿している情報を開示することはできません。
その点はご理解くださいませ」
ラルフ伯はうなずき、柔らかい口調で答えた。
「ええ、バーンズ殿と話をしたときも同じことを言われました。
今日は商都ハンザの代表としてではなく、シモーネ殿と私という、共通の友人バーンズを持つ者同士として話をしたくて参りました」
その言い回しを、シモーネは「うまい」と思った。
「共通の友人を持つ者として、ということですね。
それでは、私の個人的な所感をお伝えすることになります」
「ええ、私はシモーネ殿と話をしに来たつもりです。
商都ハンザのシモーネと話をするつもりはありません。
早速ですが、シュール大公、レギレウス将軍、ビアトリクス公女とお会いになったと聞いています。
明日以降、私も彼らと会うことになりますが、実際に話したあなたの見解を聞かせてほしい」
シモーネは、早くも本題を切り出したラルフ伯に少し驚き、表情を引き締めた。
「シュール大公については、世評どおり暗愚で愚鈍、低俗かつ無知。
その自己顕示欲を刺激すれば、思惑どおりの結果を得ることは容易です」
シモーネは落ち着いた口調で続けた。
「レギレウス将軍は、アンドラ公国を支えていると評される通りの人物です。
見識も判断力も傑出していますが、常にシュール大公に振り回されています。
その原因は、彼自身がアンドラ公国という枠組みに縛られているからです。
それを越えて発想する力はありません」
「なるほど。枠組みを越えて発想できない、か。
面白い着眼点ですね。
今のお話からすると、将軍のことを悪くは思っていないように聞こえましたが」
「ええ、悪くは思っていません。しかし良くも思っていない。
商都ハンザは大陸全土を相手に商いをしており、各国の国力や財力を総合的に見ます。
それに比べ、将軍は終始アンドラ公国の利害しか考えていません。
その単純さは羨ましくもありますが、尊敬はできません」
「なかなか手厳しいですな。
アンドラ公国は、そのような二人に率いられている。
それなのに、なぜこの機会を逃さずサイサリス公国を併合できたのか。
不思議に思えてきます。
表立っては言えぬ、奥深い何かが隠されているのかもしれません。
しかし、シモーネ殿が二人をどのように考えておられるか、聞かせていただけて助かります」
シモーネは顔色を変えなかったが、余計な手掛かりを与えてしまったことには気づいていた。
アンドラ公国という枠を越えて発想できないレギレウス将軍が、絶好の時機を捉えてサイサリス公国を併合する策を考えたとは思えない。
ラルフ伯は、そこまで察したのであった。
何らかのきっかけがなければ、アンドラ公国がサイサリス公国を併合することはなかった。
それを作ったのは、言うまでもなく商都ハンザであった。
「私は少し話し過ぎたかもしれませんね」
「いえいえ、そのようなことはありません。
アンドラ公国のシュール大公とレギレウス将軍について、シモーネ殿が個人としてどう感じているのかを話されたに過ぎません。
私は明日、アンドラ公国との交渉に臨まなければなりません。
シュール大公やレギレウス将軍と向き合う上で、実に有意義な内容でした。
それだけです」
シモーネは、ラルフ伯の油断ならぬ言い回しに、ぞくりとした恐ろしさを覚えた。
商都ハンザの介入について、ラルフ伯がどこまで知っているのか、あるいは気付いているのかを探るべきか考えた。
しかし、バーンズから聞いていたラルフ伯の人柄、そして目の前で感じている人柄を踏まえると、本当のことを明かしてくれる可能性はないと判断した。
決して嘘はつかないだろうが、こちらの利益となる情報を与えてくれるとも思えなかった。




