【099】ラルフ伯爵、アンドラ公国入り
大陸統一歴三一七年
時は遡り、ラルフ伯がルトニア王国で商都ハンザのバーンズと話をしてから約一か月後のこと。
ラルフ伯は、ハンナをはじめ二十名を伴い、アンドラ公国へ入った。
ルトニア王国はすでに再興を果たしていた。
一方、かつてその国を滅ぼしたサイサリス公国はアンドラ公国に併合され、この大陸から完全に姿を消していた。
アンドラ公国の行為は、火事場泥棒と呼ぶほかなかった。
ラルフ伯がこの地を訪れたのは、サイサリス公国によってもたらされた損害の賠償を求めるためであった。
バーンズの独り言に応じたわけではなかった。
しかし、ルトニア王国とアンドラ公国の国境付近にあるヴィクセル川には、彼の言葉通り、アラスター侯が一万の軍勢を展開していた。
交渉と武力、いずれにも対応できる構えを見せ、アンドラ公国に隙があれば即座に攻め込む姿勢を崩さなかった。
アンドラ公国の公都に到着したラルフ伯は、同行していたハンナに声をかけた。
「アンドラ公国とはまだ正式に開戦していない。
敵国と呼ぶには早いが、この人数で訪れるのはやはり緊張するな」
「ルーク王も、もう少し人数を増やすべきだと仰っていました。
それをお断りになったのは、ラルフ伯爵ご自身です」
ハンナは、淡々と事実を口にした。
「それはそうだ。これ以上の人数であれば、迎える側も心穏やかではいられまい。
そのことは、ハンナ、あなたにも理解できるだろう」
「はい。ラルフ伯爵のおっしゃる通りです。
この人数であれば使節団と見なされますが、さらに増えれば警戒を招きます」
「我らは二十名の使節団にすぎぬ。
だが、背後にはヴィクセル川に布陣するアラスター侯爵軍一万が控えている。
ゆえに我らも、一万の兵を背にしているつもりで臨めばよい」
「そう考えると、後方に頼もしい味方が控えていることになりますね」
ラルフ伯は、ハンナの言葉に頷き、言葉を続けた。
「アンドラ公国がヴィクセル川へ兵を派遣すること自体は予想通りでした。
しかし、ヒューゴ公子が三千を率いて現れたのは予想外でした。
まだ十六歳の公子ですから、実際に戦を交えるつもりはないのかもしれません。
もっとも、交渉が不調に終われば、すぐさま増援を送る腹積もりなのか。
そのあたりは、見極める必要があるでしょう。
アンドラ公国も公都に軍を残し、旧サイサリス公国領とヴィクセル川のどちらに動きがあっても対応できるよう備えているはずです。
それに、ヒューゴ公子はブレント公子やザルファ公子と違い、シュール大公からもレギレウス将軍からも評価が高くないと聞きます。
場合によっては、見捨てられる可能性すらあるでしょう」
「ラルフ伯爵。
公都に軍勢を待機させ、ヴィクセル川か旧サイサリス公国領のどちらにも対応できるよう備えていることは理解しました。
ですが、見捨てるとはどういう意味でしょう?」
「兵力差を考えれば、ヒューゴ公子が我がルトニア王国軍に敗れるのは必定です。
よくて捕らわれ、悪ければ討ち死にとなるでしょう。
では、なぜその状況に追い込むのか。
それは、レギレウス将軍がヒューゴ公子を亡き者にしたいと考えているからです。
将軍には二人の孫がいます。
ブレント公子は併合したサイサリス公国の統治を任され、ザルファ公子はアンドラ公国に残っている。
その二人の将来を考えれば、ヒューゴ公子は邪魔者にすぎないのです」
少年を戦場に送り出すことに強い違和感を覚えたハンナは、口を開いた。
「しかし、ただ邪魔だという理由だけで、命の危険を伴う戦場に送り出されるのでしょうか。
さすがに他の重臣たちも、三千の兵で勝ち目のないヴィクセル川へ公子を送ることを、黙って認めるとは思えません」
「それはその通りです。
だからこそ、今の状況でなければ送り出すことはできなかったのでしょう。
我らはルトニア王国の使節団としてここに来ています。
仮に、アラスター侯爵がヴィクセル川を越えてヒューゴ公子を攻めれば、我らの命は保証されません。
逆に、我らが交渉の場で討たれれば、ルトニア王国は報復として公子を攻めることになるでしょう」
「つまり、お互いに軽々しくは動けないということですね」
「その通りです、ハンナ。
そもそもサイサリス公国のように、何の前触れもなくルトニア王国を急襲するなど論外です。
本来であれば、幾度もの交渉を経て、それが不調に終わった末に戦となるのが筋です。
戦は何も生み出しません。
本当に最後の手段であり、最悪の選択です。
ただ、結果的に我が国は今回の再興を通じて、旧態依然とした体制を一新することができました。
ルーク王のもと、新たな国として歩み始めています。
もっとも、これはあくまで結果論にすぎません」
「確かに、ルーク王と三人でルトニア王宮で話し合っていたのが、もう昔のことのように感じますね」
「ルトニア王国再興から二か月ほどですが、あの時は我が国も存在していませんでした。
アンドラ公国もサイサリス公国を併合していませんでしたからね。
めまぐるしく状況が動いています。
私も、ハンナを伴ってアンドラ公国に入るとは思ってもいませんでした。
ハンナ自身は、今回の外交使節の一員に選ばれたことを不思議に思っているのですか」
「そうですね。私は独創性が乏しく、交渉事の経験もありません。
あるのは、サイサリス公国で学んだ軍事的な素養くらいです」
「ハンナは自分を過小評価していますね。もっと自信を持って良いと思いますよ。
あなたは誠実で、祖父の代から続くルトニア王国への忠誠心を忘れなかった。
それはとても貴重なことです。
幽閉中のルーク王が不自由なく暮らせたのは、あなたが過ごしやすいよう気を配っていたからでしょう。
今回で言えば、私が交渉に専念できるよう、あなたを同行させたのはルーク王の配慮だと思っています」
「ラルフ伯爵、ありがとうございます。
ご期待に添えるよう、精一杯務めます」
「それと、言いにくいのですが、今回はもう一つ役割をお願いすることになるかもしれません。
ビアトリクス公女への対応です。
あなたがルトニア王国に仕えていると知る者はごく少数で、サイサリス公国で知っている者は皆無です。
我々がビアトリクス公女を利用する必要があると判断した場合、あなたに動いていただきます」
「その役割は、この使節団に選ばれた時から覚悟していました。
私はルトニア王国の人間です。
国の利益になることであれば、喜んで引き受けます。
いつでもお命じください」
ラルフ伯は、その答えを聞いて安心した。
「ところで、明日のシュール大公との会見前に、商都ハンザの代表としてアンドラ公国を訪れているシモーネ殿と、何とか会っておきたい。
段取りはできるだろうか」
「はい、すでに連絡を入れてあります。
今晩、お会いできることになっています。
ただ、この屋敷にはアンドラ公国の護衛という名の見張りの騎士がおりますので、暗闇に紛れて屋敷を抜け出していただく必要があります」
ラルフ伯は、ハンナが冗談を言っていると思ったが、顔を見てそうではないと悟った。
「あれだな。
ルトニア王宮でもそうだったが、私は暗闇の中を行動するのが好きな人間だと思われていないだろうか」
「好きとは思っていませんが、決して嫌いだとも感じていません」
そう言って僅かに笑うハンナを見て、冗談だとわかったラルフ伯は安心した。
「私は、戦場という表舞台で華やかな戦功を挙げるよりも、他国との交渉や領地の経営で力を発揮する人間だと自覚しています。
しかし、暗闇を歩くのが好きなわけではないので、それだけは覚えておいてください」




