終幕
お鳥が去って数日のうちに急に空が秋めいてきた。
相変わらず日中は暑いが、日の落ち具合が少しずつ早くなり、寝苦しいほどの暑さの夜もなくなった。
夏よりちょっと高いところにある雲が橙色に染まるのを眺めながら、兵庫はぶらぶらと家に向かって歩いていた。
長屋の木戸をくぐり自分の家の前に立ったとき、フッと夕餉のいい匂いが漂ってきた。
「お鳥さん?」
兵庫は慌てて戸をあける。
「おかえりなさい」
かまどで火吹き竹を吹いていた女が顔を上げた。
お鳥ではなかった。
「一真さんが、兵庫さんの元気がないから飯を作ってやれっていうのよ。風邪でも引いたのかと思ったけれど、元気そうでよかったわ」
沙代は、愛くるしい笑顔を兵庫に向けた。
沙代は一真の一つ年下の従妹である。
お鳥でなかった虚脱感から思わずため息が出る。
「やだ、本当はどこかお悪いんじゃないの?」
沙代は、さっと青ざめた。
「大丈夫、ちょっとした暑気あたりだよ。だいぶ涼しくなったけど、日中はまだ暑いね」
兵庫はそういい訳すると、畳に上がりこんだ。
「ご飯、作ってくれてありがとう。せっかくだから食べていきなよ」
兵庫の言葉に沙代は頬を染めながらうなずいた。
沙代が飯を運んでくるとまた、お鳥のことが胸を掠めた。
沙代が座っているところにお鳥はいた。
沙代が食べている茶碗でお鳥は飯を食べていた。
沙代には悪いが、思い出すことはお鳥のことばかりだ。
「おいしい?」
突然、沙代が聞いてきて兵庫は現実に引き戻された。
「おいしい、おいしいよ。沙代ちゃんは料理上手だね」
慌ててその場を繕うようにいった。
それを聞いて沙代は、よかった、と満足げに微笑んだ。
「楽しい」
ふと沙代が、ため息交じりにポツリとつぶやいた。
不思議そうに兵庫が首をかしげると、沙代は首まで真っ赤になって弁解した。
「その、兵庫さんに元気がないことが楽しいんじゃなくて。夫婦みたいというか。いや、夫婦だなんてそんなだいそれたこと思ってるんじゃないわ。ただここに私がいて、兵庫さんがいて、真ん中に子供がいる想像をしてしまって・・・。ああ、もう!何言ってるんだろうっ。私ったら」
沙代は顔を覆った。
沙代は兵庫のことを慕っている。
もっとも兵庫はそんなこと微塵もわかってないのだが。
「そうか」
兵庫は突然悟った。
お鳥さんは重ね合わせていたんだ。
この小さな長屋の中で、喜助がいて、子供がいて、自分がいて、心温まる家族をずっと想像していたんだ。
けれど現実にはお鳥さんに家族はない。
だから、記憶を心の中に無意識のうちに閉まって、喜助の代りに俺を、子供の代りに寿限無地蔵を仕立て上げていたんだ。
そういえば地蔵様って子供の神様で、顔も子供みたいだしな。
兵庫は、ハハハ、と力なく笑った。
お鳥は家族ごっこをしていただけだった。
自分は、それを愛されている、そう勘違いしていただけなんじゃないか。
「俺が勝手に盛り上がっただけだったんだな、こりゃあ」
「え?」
「沙代ちゃんの作った飯の方がおいしいや。おかわり」
飯をかきこんで差し出した椀を、不可思議そうに受け取った沙代は、兵庫の顔をちらりと見る。
兵庫が大盛りで、と手で山の形を作ると、沙代は微笑んで飯椀いっぱいのご飯をついで差し出した。