第4話 治す術
扉は、これまでと同じ顔をしていた。
扉の前のものを打ち破り、息を整え、手を触れる。もう慣れた手順だった。頭の中へ、言葉が流し込まれる。
――そなたの才を捧げよ。さすれば、扉は開かん。
浮かび上がる像を、冒険者は順に眺めた。残っているものは、まだいくつもある。剣。補助魔法。回復魔法。短刀。そして、前の階層で手に入れたばかりの、回避と返し。
指が止まったのは、回復魔法のところだった。
長く、当たり前に使ってきたものだ。斬られれば塞ぎ、打たれれば散らす。戦いのあとはいつも、それで身体を整えてきた。もっとも、このごろの出番といえば、掠り傷を癖で消すくらいのものだ。塞がねばならない傷を、もう負っていない。それでも、手放すのは、惜しい。
だが、と冒険者は思った。
傷は、負わなければいい。
前の階層で、それを覚えたはずだった。盾を捧げ、受けを捧げ――受けるという選択肢そのものを失って、そのかわりに手に入れたもの。相手の起こりが見える。半歩退けば当たらない。現に、あの群れとの戦いからこちら、まともな一撃は一度も貰っていない。あれさえあれば、治さねばならない傷など、はじめから作らずに済む。
では、ほかの何を出せるのか。短刀と、回避と、返しは、いまの戦いそのものだ。抜けば、次の一戦から立ち行かない。補助魔法は、あらゆる場面の底を支えている。剣は――考えなかった。考えることすら、しなかった。
使わなくなった備えと、いま命を支えている技能。天秤は、はじめから傾いていた。攻撃の手立てを失うことのほうが、よほど恐ろしい。守りを捧げたときは、治せることが支えだった。今度は、当たらないことが、その支えになる。それだけの違いだった。
それに、術を失っても、手立てのすべてを失うわけではない。拠点の棚には、薬が並んでいた。塗るものも、飲むものもある。万一のときは、それで足りる。
筋は、通っていた。
捧げよう、と念じた。
抜け落ちる感覚は、軽かった。
盾や受けを捧げたときのような、戦い方ごと引き抜かれるものではない。当然だ。回復魔法は、戦い方の外にある。踏み込みも、間合いも、握りも、何ひとつ変わらなかった。
残ったものへ、いつもの流れが来る。回避が冴える。短刀の手数が増す。足も、軽くなった。
欠けたものは、ない。冒険者はそう判断した。
扉が、音を立てて開いた。
拠点は、静かになっていた。
炉の火はある。寝台もある。だが、人影が前より減っていた。残っている者たちは相変わらず何かをしているようで、何もしていないようにも見えた。
冒険者は、まず棚へ向かった。
回復魔法はもうない。ならば、薬を持てばいい。いくつか腰に括っておけば、しばらくは足りる。潜る前にそうしておこうと、歩きながら考えていた。
棚に、薬はなかった。
包帯もない。傷に塗る類のものも、飲む類のものも、ひとつもない。ただ空いた板があって、そこに埃も溜まっていなかった。
冒険者の手が、棚の縁にかかったまま止まった。
斧のときは、偶然だと思った。以来、棚のことは深く考えなかった。あれは、こちらの技能を映しているだけのものだと、どこかで決めてかかっていた。
だが――捧げたのは、魔法だ。薬を捧げた覚えは、ない。
技能を失っても、手段は残るはずだった。その手段ごと、棚は空けてあった。
しばらく、そこを見ていた。
背後で、紙の擦れる音がした。振り返る。片隅の書記官が、顔を上げていた。目が合っているのかは、分からなかった。また膝の書物へ視線を落とし、筆を動かしはじめた。
冒険者は扉へ歩み寄り、押した。びくともしなかった。分かっていたことだ。
棚から短刀の予備を一本取り、外套の裾を裂いて帯に巻いた。布が要ると思ったのは、そのときにはもう、何かを予感していたのかもしれなかった。
携えてきた食料は、とうに尽きていた。棚の食料を、初めて口にした。この場所のものを腹へ入れることに、思ったほどの抵抗は、もうなかった。寝台に横になったが、眠っていた時間よりも、天井の暗がりを眺めていた時間のほうが長かった。
はじめの半日は、何ということもなかった。
回避は利いた。短刀も、以前より速い。剣を抜く場面すらなかった。欠けたものはない、という判断は、正しかったように思えた。
開けた広間で、それは起きた。
十に近い数の群れだった。前に斧を担ぐもの、剣を持つもの。奥に、弓を構えるものが二体。
冒険者は前へ出た。斧の一撃は重いが、直線的で読みやすい。起こりを見て、半歩退く。退いた勢いのまま、がら空きの胴へ短刀を差し込む。前の階層で身体に刻んだ、そのままの動きだった。
二体目を沈め、三体目の斬撃を外して、後ろへ跳んだ。
貫かれたことは、痛みより先に、音で分かった。
自分の身体から出たとは思えない、乾いた音だった。左の前腕から、矢羽が生えていた。退いた先が、射線だった。
前だけを見ていた。
腕が勝手に跳ね、短刀を取り落としそうになるのを、右手で押さえた。残りは五体ほどいた。考える余裕はなかった。左を使わないだけで、動きは変わる。それでも動いた。半歩退き、差し込む。退き、差し込む。左腕が振れるたびに、視界の端が白く濁った。
最後の一体が崩れたとき、冒険者は膝をついていた。
矢は、抜くしかなかった。壁に押し当てて柄を折り、握って、引いた。抜けた瞬間、堰が外れたように血が出た。思っていたより、ずっと多かった。
裂いた外套を巻き、上から押さえた。押さえていても、指の間から出てくる。
念じてみた。
かつては、それだけで済んだ。手をかざし、意識を向ければ、開いたものは閉じた。当たり前に、そうだった。
何も起こらなかった。
当然だ。捧げたのだから。
それでも、もう一度念じた。念じている自分に気づいて、やめた。
荷の底に、薬がひとつあった。遺跡の外から携えてきた、最初で最後のひとつだ。傷は術で塞げばいい――そう生きてきた男が、念のため、と持ち続けて、一度も使わなかったものだった。栓を抜き、飲み下す。
術のようには、いかなかった。傷が閉じていく、あの感覚はない。身体が己の傷を治す、その働きを、少し手伝う。その程度のものだった。それでも、指の間から出てくるものは、やがて鈍くなった。
空になった小瓶と、空だった棚のことを、順に考えた。それから、考えるのをやめた。
戻ったところで、あの棚は空いている。進むほかに、道はなかった。
それまで、階層をひとつ抜けるのに、大した時は掛からなかった。その同じ道のりが、左腕ひとつ損なっただけで、数日に変わった。そしてその数日は、それまでのどの日々とも違っていた。
一撃も貰えない。貰えば、次がない。
そう思って身体を動かしはじめると、回避というものが、まるで別のものに変わった。
前の階層では、退けば当たらない、で足りていた。もう足りない。退いた先を見なければならない。射線。壁。他の魔物の間合い。床の起伏。それらを、退く前に済ませておかなければならない。
返しも変わった。以前は反撃だった。今は、二撃目を撃たせないための一手になった。返すのではなく、黙らせる。一度で終わらせられない相手は、はじめから間合いに入らない。
呼吸が浅くなった。眠りも浅くなった。魔物の気配に、以前の倍は敏くなった。
数日で、身体つきまで変わった。無駄な肉が削げ、要る筋が締まる。生き延びる形に、肉が寄っていく。
生き延びるための動きだった。強くなるための動きではなかった。だがそれは、これまでのどの適応よりも速く、深く身体へ入った。
そのさなかに、ひとつ、新しい像が結んだ。
敏捷。速さそのものが、技能として立った。斧や剣のように、習い覚えたものではない。逃げ続け、退き続け、間に合い続けた日々が、素の速さを、技能の高さまで押し上げていた。
血の止まった腕は、熱を持ち、しばらく腫れていた。使えないので、右一本でこなす形を覚えた。それも、そのまま身体に残った。
やがて、傷は塞がった。
薬が早めたのは、治りの速さだけで、深さではなかった。きれいには、塞がらなかった。
左の手の甲から前腕にかけて、引き攣れたものが残った。握れる。振れる。ただ、深く曲げると突っ張る。何をどうしても、もとの皮膚には戻らないのだと、触れば分かった。
冒険者は、しばらくその腕を眺めていた。
捧げるとは、失うということだろう。
最初の扉の前で、そう理解したはずだった。理解した、つもりだった。
次の扉が見えたとき、冒険者は、初めて長く足を止めた。




