第5話 剣を捧げる
石でできた、大きな扉だった。飾りらしい飾りはない。ただ古く、固く、閉ざされている。打ち破ったばかりのものが、背後で崩れたまま、動かない。
手を、伸ばす。
――そなたの才を捧げよ。さすれば、扉は開かん。
脳裏に、像が浮かび上がる。いまの自分を形づくっているもの。数は、多くない。
そのなかに、剣があった。
物心ついたときから握り、極め、頂に立った。英雄と呼ばれた男を、英雄たらしめてきたもの。それが、他の像と並んで、静かに浮かんでいる。まるで、順番を待つように。
指先が、迷った。
扉は、急かさなかった。ただ、開きもしなかった。
並べて測るなら、迷う余地はないはずだった。剣は――もう、ほとんど抜いていない。守りを失い、回避で戦うようになってから、腰で眠り続けている。いま命を支えているのは、短刀と、回避と、返しだ。眠ったままの剣を出したところで、明日の戦いは、何ひとつ変わらない。出せるもののうち、失って、いちばん痛くないもの。頭は、とうに答えを出していた。
だが、その頭に従い続けた男が、どうなったか。
左手の甲が、疼いた気がした。理屈は、いつも通っていた。通った理屈の先で、薬の消えた棚を見た。矢を、腕で受けた。理屈と痛みは、別の場所にある。それを、もう知っている。
冒険者は、扉から手を離した。
一度だけ、と思った。
数歩退き、剣を抜く。鞘を押さえた左手の甲が、抜きざまに突っ張った。引き攣れた皮膚が、深い動きを嫌がる。それでも、構えは身体が覚えていた。正眼。爪先の向き。肩の高さ。数十年、毎朝繰り返してきた形が、確かにそこにあった。
構えは、冴えていた。捧げるたび、残ったものは濃くなる。剣もまた、ずっとその残りの側にいた。腕は、鈍っていない。むしろ、頂の先にいる。
だが、構えたまま、冒険者は、いまの自分の戦いにそれを重ねてみた。
踏み込んで、一撃を叩き込む。その太刀筋は、受けと、鎧と、盾の裏付けがあって、はじめて振るえるものだった。裏付けは、三つの扉で、とうに捧げてある。いまの身体は、退いて、外して、手数で刻む。その戦いのどこにも、この剣の居場所は、もうなかった。
剣は、鈍っていない。この剣を振るっていた男のほうが、もう、いないのだった。
美しい、空っぽの形だった。
身体は、先に答えを出していた。
剣を納め、扉に手を戻す。
捧げよう、と念じた。
抜け落ちる感覚は、これまでとは比べものにならなかった。剣の握り。振り抜くときの肩の連動。刃筋を通す感覚。無数の斬り合いで刻んできた経験。相手の剣を受け、弾き、いなすための、身体の芯にあった記憶。それらが根こそぎ引き抜かれていく。
数十年ぶんの何かが、身体から抜けていった。
剣というものが、遠くなる。ただの金属の棒に見えてくる。あれほど手に馴染んでいたものが、もう握り方すらおぼつかない。過去の自分を形づくっていた最大のものが、ここで消えた。もはや、かつての英雄を英雄たらしめるものは、何も残っていない。
残ったものへ、何かが流れ込んでは、くる。回避が、短刀が、わずかに冴えたような気も、する。だが、それが失ったものに釣り合っているのかどうか、確かめる術は、もうどこにもなかった。
扉が、開いた。
拠点の様子は、また変わっていた。
人が、減っていた。残っている者も、顔にまるで生気がない。本当に生きているのかすら、怪しく思えた。棚の武具も、目に見えて少なくなっている。そして――剣が、なくなっていた。
冒険者は、その空白を一瞥した。
驚きは、なかった。
それが、いちばん恐ろしかった。斧のときは偶然だと流し、薬のときは棚の前で長く立ち尽くした。今はもう、剣の消えた棚を、当たり前の景色として眺めている。この場所の理不尽に、自分は慣れはじめている。
ふと、視線を感じて振り返る。
片隅の書記官が、こちらを見ていた。あの、生気のない目で。膝の書物へ何かを書きつけ、また顔を上げ、冒険者を眺める。棚から剣が消えたことも、冒険者がもう驚かなかったことも、すべてを書き留めているかのようだった。
声をかけようとしたが、相手はもう筆へと目を落としていた。書きつけられた文字は、遠目にも、まるで読めない字の連なりだった。




