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ある人々と過去の追憶。

 パンドラ全てに時半朝日が昇り、そのほとんどの地域で雲が晴れたころ、ナナシの国の廃拠点ファラリスにて、カイとロム医師とは二人きりで、“ケヴィン誘拐”の情報に焦燥にかられて、溜息もこぼさないほどに眉間にしわを寄せ、机をへだてて向かい合って話しをていた。ニュースではアリア大陸南に位置するパンドラでは、西の海洋と大陸の気圧の関係で近ごろ気温は温かいといっていたから、暖炉の火は消えていた。カイとロム医師は先ほどまでお互いの持ち寄る情報をもとに、話しをしていた。自分たちの現在置かれた状況について、問題を整理していた。しばらくするとカイは部屋の外にいてカイは電話をとり、廊下に席をはずした。ロム医師は資料をみていたり、ぼーっと考え事をして頭を抱えた。電話の相槌がきえ、医師が耳をそばだてると、カイは扉をあけて、しばらくしてリビングのドアをあけてもどってきた。扉を閉じて、スマートフォン端末を持つ左手をだらりとたおし、きおちしたように肩をかがめて廊下側の椅子に腰かけた。リビングのカーテンはあいていたが、人影どころか動植物のなき声さえひびかなかない薄明りが広がっていた。形態端末を腰ポケットにしまいつつ、その動作に自分で溜息を吐いた。

 「だめだ、つかまりません」

 ケヴィン少年と大家エメ、もといジルの行方不明について行方が知れないのはカイの大失態だったし、自身が一番反省の気持ちを胸に抱いていた。ジンクスファミリーには情報を共有していたが、ケヴィンの家族に何のいいわけもできていない。一つ前の任務から長らく自分勝手な行動をしている。組織にもいい訳がつくかどうかわからない。溜息まじりにいうその瞳からは、力がぬけている。自分たちは大きな失敗をしてしまったという思いが互いの頭の大半をしめていて、お互いに少し動揺をともなっていることは、お互いのしぐさとどぎまぎとした動作の中からみてとれる。一挙手一投足、そのすべてががんじがらめの緊張の中にあった。先に口を開いたのは、白衣をはおって体をうごかしたロム医師だった。

 「もし彼らなら、必ず取引があるはずだ」

 「はい……」

 “彼ら”というのはこの場ではもちろんロム医師よりかは、カイの方がよく知っていた。そもそもケヴィン少年がこの状況に追い詰められた原因の最初に出会った敵であり根本的理由。敵対ファミリーの手下ラヴレンチとソスランである。少し空白が流れたのは二人とも言葉をみつけられなかったからだ、そのまま30分ほどが経った。 家の中は静けさにつつまれて、少年の高い声もエメの甲高い声もきこえない。それどころか物音は二人の呼吸以外にはほとんどなく、冷蔵庫の製氷機の内部のコロコロリとかわいた音がなり、固形のモノがずり落ちる音がしたて空気をなごませた。しかし、沈黙はふたたびカイのまゆをひそませた。

 「私のせいです、私は恐れ過ぎたんだ、自分自身の中の暗闇の事も自分自身に流れる“血”の事も」

 彼等の誘拐のことだ。ロムはそれについて、何もいわなかった。責める事はやめておこうという思いと、こればかりはどうしようもない、情報を整理しなければいけないという思いは二人だけの広いリビングと頭の中で交錯する。断崖絶壁に立たされたときのような危機感が身をこわばらせた。しばらくすると、思考より先に口が開いた。考えるよりも自然なことだった。

 「情報屋とは、そういう人間だ、お前はなぜ信用したのだ?」

 「現場には、確かに情報屋の形跡がありました、そうですね」

 ケヴィン少年が一番最初にその場に居合わせたことは、現場をみるにあきらかだった。カイは、一番最初に現場をみた。あれた排気ダクトの入口、見せしめのように落されたままの吸気口の重い蓋。入れ掛けのコーヒー。警察や探偵でなくとも、そこで何かが起きた事は見て取れた。だから悔しさをにぎりしめ、カイは唇をかんで両の手のひらをぐっとつかんだ。確信はない、だが自分が持つ何かが相手の目的だと信じるほかはない。推察するに彼らは取引を望んでいる。でなければカイを標的にしなかった意味はない。身代金、相手に有利な条件、ともかくまずは取引の場が必要だ。

 「すみませんでした」

 「な、俺に謝るな」

 カイは、しかし冷静に誠実に状況を整理しようと試みた。いっぱいのコーヒーを口にすすり、ごくりと咽を通る音がキッチンにまで響き、二人の間には、しばしの沈黙。決意をしたようにロムが答えた。

 「続けよう」

 それからロム医師はあれやこれやと気が動転しているカイのために必要な情報と資料を見せてテーブルに広げた。カイは聞いているか聞いていないかわからなかったが、しかしロム医師の問にはひとつひとつ答えて、決断と決定とをくわえた。また1時間もたった後。お互いに向かい合い、もはや整理する情報をお互いに出し終えたあとだった。カイの頭の中ではロム医師との結束感は確かなものだ。互いに放つ最初のひとことが良くも悪くもこの場の意気を左右するであろうことは理解ができた。きっと情報屋には裏切られた。それは今いったところでどうしようもなかった。それからカイは、脳裏によぎる最悪の事態を自分で何度もかき消して、その身に起こるよりも恐ろしい不幸について、自分の事のように恐れた。もう何度ロム医師が貧乏ゆすりをしただろう、もう何度もカイが息を殺して謝罪の言葉を放っただろう。しかしそれらはお互いに、お互いの心境をはかり、はかりながらも距離を保ち、心を落ち着けるすべでしかなかった。カイはこうして心をふさぎ込んだ。すべては自分の原因だ。しかしこれからすべき事もある、それはわかっている。そこでその気持ちを察して老齢のロム医師が、そこをあえてこんな切り口で言葉をはいた。

 「なあ、ジルとはどうなんだ」

 さりげない言葉が、非日常の緊縛から彼の心を一瞬解放した。さりげない言葉は、耳から心情へささやかに届く。第義賊エスピィミア時代から、むしろもっと前から、ロム医師とは関係がながかった。だからこそ彼女とのことを一番気にしている人だ。だから敢えて、なぜ彼女をこの件に巻き込んだのかを気にしていた。今それを切り口に選んだのは彼なりのユーモアのつもりでもある。

 「いいえ、何もないです」

 ロム医師は、初めて彼に語気を鋭くはりあげて言葉を放った。

 「何もないなら、なぜ少年を巻き込んだんだ、偶然とはいえ、今はそういう形になっているだろう」

 ロム医師は知っていた。彼女が偶然あのアパートの大家をしていたことも、その相談を真っ先にうけたのも彼だった。

 「巻き込んだ、そうです、でも僕にはわからなかった、決して変化なくして、自分を変える事はできなかった、けれどあの時、誰が少年を救えたでしょうか、私と同じ不条理をみた少年を」

 ロム医師は知っている。かつて大切な人間を無くしたひとみの輝きをうしなったカイが、本当に大切な人を失ってしまった過去を、だからこそ、その迷いの中の矛盾をみぬいていた。だから、励ましをこめて今は強くものをいうべく、こう叱った。きっと叱らなければ、彼は満足などしないだろう。しかし、ならなぜもう少ししっかりと状況を把握していなかったのかという思いもあった。

 「彼に、少年に過去の失われた自分を重ねるな、この先の未来を作るのは少年の自我を見つける事だ、それでやっと、お前も、あの子も救われるだろう」

 青年カイの瞳には、自分の肩を両腕で引き留めるロム医師と、その義眼と本当の眼の輝きが映る、まるで移り行く街を眺める道路の車内のように、めまぐるしく過去が、その断片をひきつれて彼の瞳の中をうごめくのがわかる。そこでかつて、純粋な時間を失った自分を想い、ケヴィン少年を想って、涙が頬をつたった。その恐れのために自分の顔を両手の手のひらで隠しを覆う行為は、3分も前にすでにすませていた。

 きっとすべてにつながりはない、けれど交錯する事情は自分の中にいくつかのつながりをつくった。自分とケヴィン少年の類似点、そして似ていない部分。置き忘れた新聞紙に、腕時計に、ネックレス。ネックレスは彼の胸元でゆれた、それを開けば、ジルの顔が浮かび上がる。それとともに、胸が痛んだ。


 かつて、彼とエメの間に、何があったのか。どんなことがあり、二人を変えたのか。

「僕は彼女を失ってはいない」 

 アリア大陸の大半をしめる、大国アリアニア。その年はその首都の西に停泊していたエスピィミア。その首都ネア中央広場の“機械天使の像”の前で待ち合わせ。夏の朝に樹木や昆虫たちは、街の傍らでしたたかさを見せてのびのびと花をさかせ生き生きとした首都の人々の感性に語り掛けている。落ち葉や枯れ葉を踏んづけた音を聞くのは心地がよい、だれもそこまで耳を済ませたりはしなかっただろう。あの季節が脳裏に強くこびりついたのは、彼女という存在があってのことだ。彼女のうるんだ澄んだ瞳が、自分の失われた青春時代を呼び戻した。肩は日に焼け、淡くオレンジ色をにじませている。待ち合わせの場所につき目が合うと、彼女は自分から自分のそばにより、ほほ笑んだ。

 いつかの夏、もう3年もたつだろうか?。カイは衝動に駆られるのにあわせて、思い返したくはなかった。首都には“エスピィミア”崩壊のうわさがながれ、巷は大義賊集団の崩壊のしらせにあわてふためき、新時代の到来を恐れ、待ちわびていた。きっと何も変わる事がなかった人々が、きっと私がこの次の世界の主役になるのだとでもいうように浮足だっていた。何も変わりはしなかった。何も変わりはしない事こそが、自分が変った証拠だった。良い場所から離れようとする性質があった。

 最後の彼女の瞳の中に映る世界。街燈やビルや商店のガラスと街頭のはざまのショーウィンドウ。地面に均等にならぶタイルと街路樹の群れ。誰も主役ではない、だからこそその場所に自分を追い込んだ。変れるかもしれなかった。過去を背負わなくてよくなったのかもしれなかった。けれど、彼女の瞳に映る自分の生き生きとした自分におそれ、おびえ、やがてそのハードルに答えられなくなった、自分は生き残った人間だ。あの日、家族と死ぬはずだった人間だ。だから彼女の瞳の中の、自然でいて、自由奔放な、自分自身が本当の自分だと信じてあげる事ができなかった。

 (もとめていたのは、一つでした。彼女の中の輝きが、自分のものになればいいと思った。それが未熟だったんです。彼女がいなければ何もできない人間になれば、私は過去の負債を抱え、それを一人で返す事ができなくなります)

 その言葉は、いつかロム医師に伝えた事があった。そんな中なので、カイは拳銃の改造をたのんだ。カイの持つ拳銃は、実弾を一度しか撃つことができない。彼はその一髪のために、拳銃の腕を鍛えた。

 「この拳銃は、きっと自分ひとりのためにしか扱う事ができなかったでしょう」

 しかし、なぜ自分は、拳銃を彼に教えたのだろうか、その想像力の欠如はなんだろうか、考察の揚げ足をとるような、ベストタイミングでロム医師がポツリと放った。

 「なぜ、彼に拳銃をおしえたのだ」

 ネックレスを右手でにぎった。きっと何も変れてはいなかった、だからどこかで、誰かに救いを求めていたのかもしれない。近づく事をおそえれて、その恐れは、自分の周囲に波及する、決断がたりなかった。


 未だにジルは揺られる車の中にいた。2時間、3時間、ともかくもう数時間はたっているように思えた、ジルは目を防がれて、ただ瞼の裏に過ぎ去りし日々を投影して、ひまをつぶした。別れの前にこれだけは、と最後にカイにぶつけたセリフを頭の中に呼び戻した。

 (崩壊は防げなかった、自分をとがめる事はやめておくように)

 そんな事をいって彼に別れをつげて、あるいはその先の希望の判断を彼にまかせ、けれど半分では自分自身にも重圧として背負わせたときはいつだっただろう。あれはいつ、どれくらい昔だったろう、もう数年は立っていた。私が、彼が“エスピィミア”の看板を捨てたのは。車の中でどれくらい揺られても、その記憶は焦る事なく、何の傷をうけることもなく頭の中を迷走していた。

 コンビニでの短いたむろの間に、つらつらとまだ少女だった頃の思い出を、青年と少女だったころのエメとカイの想いでを、ケヴィン少年に語りおえたのはもう一時間ほど前になる。どこへ案内されているのか、けれどそれほど不安はなかった。彼ら“クローファミリー”の場所はにぎやかな都市の真ん中にある。だからそこから遠ざかり一目を避けるように車をはしらせている、エメには運転手の目論見も大なり小なり理解できた、きっと私たちを、遠く人気のいない場所に隔離したいのだろうと企みがみえた。

 しかし、男女関係の不可解だけは、少年の心には伝わらないだろうとふんでいた、それもあの野蛮な、ラヴレンチを覗く野蛮な部下たちに、自分の思い出話を盗み聞きされるのは腹が立った。だからケヴィンに伝えたのは、かつてエスピィミアとして働いた経験と、その役職や立場に関するいくつもの秘密があること、そして今近くにいる“情報屋”によって裏切られたこと。けれど怒りは示さなかった。ただ“またか”と感じただけだった。

 二人にとって“エスピィミア”時代。なぜ、あれほど優れた日々だったのか。カイもジルも、その理由はしらない、偶然あそこに居合わせてしまった自分たちにとって、日々は探り探りのもので、その日その日の積み重ねの結果として、美しい記憶となったのだから。

 週一回の会合で、彼等は常に半分、仮面をつけていた。仮面に何を蓄積したか。自分の異質性を誇張するような特徴。黒い鳥はカイの紋章。カイはエスピィミアに入団にあたって、左ひじにタトゥを入れた。それは自分の両親の亡骸をくらうカラスの絵だった。

 たとえば黒鳥は“助けるべき時に人を助けない苦痛”

 たとえば白鳥は“名前を知らず名前を付けられて未来をつくられた苦痛”

 それらが異質な“もう一人の自分”をつくりあげてしまって、それが拡張された。その対峙の中に、件名に自己の本質を見抜こうとする事実がうまれた。


彼の存在は、一部の若い構成員を引き付けてしまった。知らず知らず人員は割れ、構成員は自分の心の所在や立場、イデオロギーの問題を二分して小競り合いや小さな諍いが増えた。そんな事は、決定的な問題ではなかった。もっとも、エスピィミアにとって最も不運だったのは、病にかかったその時の首領(かしら)、もとい、彼女の父のような存在でもあった。ブラウン・クーレンの存在だった。比較的おとなしいが奥底に正義をひそませている、そんな存在で、ジルもたびたび彼と衝突する事はあったが、最後にはどこかで必ず対話をはさみ、人々を納得させる指導者としての力量をもちあわせていた。旧世界の“レコード”が好きで、古いジャズを好んで聞いた。それらもまた“機械化された芸術の塔”“マーニア”に補完されていた古い芸術品を、世界中からえりすぐってあつめたものだった。彼はえらくカイを気に入って、その瞳の奥に宿る正義について興味をいだいていた。

 (やがて彼に私の地位を譲ろう)

 しかしカイに、そんな言葉の重みは分らなかった。特にあの時のカイだ。まだ恋人についてや友人について詳しくその定義や、形が理解できておらず、責任についても理解ができなかった。その時の彼は家族をうしなった、まだ若い青年だった。それにその時、組織の中でいっぱしの用心棒でしかない彼に、その地位を譲る。その決断にどれほどの勇気が必要だったかを考えると同時に、彼は疎まれる可能性についても既に理解していた。しかし彼の部下たちはそこまでは考えを巡らせることはしなかった。ただ危篤な状態にある彼の行く先を案じ、あるいはそれは錯乱や倒錯の状態にあったのかもしれない。彼の部下たちは、最後まで在りし日の強い英雄“ブラウン・クーレン”を愛し、忠義に徹底した。だから彼が直接告げない彼の言葉を、その義理の娘であるジル、エメの本名。ジル・クーレンの口から告げられた事にむろん、不信感をあらわにして、組織の引き締めにかかった。その組織のゆがみ、ひずみが外部にもれさえしなければ、裏社会で一世を風靡した義賊団体“エスピィミア”は未来永劫、きっとその栄光を明らかにし、存続する事が可能だったかもしれない。

 疑心暗鬼は不安に不安を呼び、義賊組織を内部から脆弱なものにし、外部からの襲撃に備えるような組織のきっかけを減らしてしまった。組織はまとまる事ができなかった。その時ばかりは、彼女の父ブラウン・クーレンは、彼のその人望の厚さを呪っていた。

 (恥かしい事だが、私から伝える、そのことがまた別の問題を引き起こすことをしっている、だからどうか、彼に、カイに覚悟を決めてほしい、その時まで、私は粘る)

 カイは、弱気だった。理由はわからない、器ではないとはっきりといっていた。けれど、仕方なしに重荷を背負う覚悟は持っていたようだった。彼の条件もまた不幸なものだった。

 「彼の死、それを待たずして、私が責任と彼の地位と栄光とを引き継ぐことなど、できるはずがない」

 エメは、ある仮面舞踏会で、彼を父に紹介されたその日から、彼と似通った自分の一部の特性を、彼という存在によって見抜く事ができていた。

 「彼は、きっと自分の存在に仮面をつけて、しばりをつけて、自分に嘘をつき、自分を隠している」

 二人の男女が関係を深めると深めるほど、明かになる別の面もあった、彼は自分を隠す、それだけではなかった。むしろその特性を利用して、彼の信念を明らかにして、あるいは表現に変えようとしていた。それは道化のようだった、この国に古くから伝わる“機械天使の物語”のような、ものだった。けれど彼の気丈さは、深刻さは、それとも違った。ほかのどれとも違った、それは彼だけの秘密が関係しているようだった。きっと過去におきた深刻な事態が、彼をこういう存在にしているとでもいうように、彼はスリを働き、言葉巧みに詐欺を働き、時に見たこともない武術によって、エスピィミア一の用心棒としての役目を果たした。

 無防備に巨大飛行船の一室で、彼女に背中をあずけ、本をよむ彼の肩をきゅっとだいた。その行為の意味はわからなかった。自分と同じにおいがした。ひじで彼を小突くと、彼はようやく現実に目がいったとでもいうようにはっと半分顔をひるがえし、彼女の方を向いた。そこで気が付いた。彼の瞳に宿る光は、義賊の信念“富めるものから貧しいものへ”の理念とは別の美意識を持っている。それは彼女の一室にある蔵書、宝箱、宝石類や装飾と技巧を凝らしたどんな一品とも違うへんてこな信念だった。彼と知り合って2ヵ月ほどだった、それまでは子猫たちがじゃれあうほどの、程度の低いふれ合いをくりかえしていた男女が、心を通わせた含みをもったのは。

 「僕は、それだけじゃない、自分だけが理由じゃない」

 「……今何て?」

 おかしな間だった、なぜなら、数分や数秒の事ではない、きっと1時間、ひどければ2時間ほどの間をもたせて、そんなにも前の質問を覚えていて、彼は彼女の疑問に答えたのだ。ランタンやろうそくも、ひしめく宝石の群れも、天蓋にレースのカーテンをこしらえた純白のベッドも、彼の澄んでいて、奥に深淵を感じさせる彼の瞳を照らしはしなかった。その瞳が、彼女の問にまるで今の今までそこで先ほどの会話を交わしていたことを想起させるように、なんとなしに簡単に応えた。

 「僕はさ、悪人に救われたんだ、悪人に救われた命なんだ、罪の重さ、その意味を考えている」

 その日に限って、彼は饒舌で、いつにもまして饒舌だった。それは何かしらの、これから自分に課せられるような使命を遮って、逃避、逃亡の選択を相手方に、ジルに提示しているかのようだった。

 彼が語りだしに選んだ語句は、きわめて一般的な、そして現実であまり好んで口にする事のないような言葉だった。


 「“死”に対する罰則が、きっと“罰”なんだ、この世の色んな宗教や、倫理が選んだ事さ」

 そのうさんくさい言い回しと語句にまどわされない、ゆるぎない彼の信念の片りんを、彼のしぐさ、雰囲気、そしてそのどれでもないものから感じ取った。センス、説得力という言葉のほかの何ものでもない彼の空気感が、二人しかいないはずのその空間を、初めて出会ったあの仮面舞踏会の中の、仮面をつけた男女のささやかな密談のようにたわいない世間話を交わしているようでいて、その場でつくられた隠語や用いられた慣用句の反復のような小気味の良い空間をつれてきた。もしかしたら自分でなくとも彼の隠された一面を知る事ができたかもしれないし、もっといえばそれを武器に、彼は他人をたぶらかしたことがあるかもしれない、けれど、その次の言葉に別の意図を感じ取った。

 「人は知らないもの事に関しては単なる罰則をつけるだろう。けれど、もしその罰が、あるいは罰同士が相関関係をつくったとき、それを目撃し、体感をした第三者は、罰と、死の、どちらを見つめればいいのだろう」

 彼女は、知らなかった。饒舌な彼がリズムよく語りだし、語り続けることばを、その技量や才能にまかせて一定の音階で奏でられる音楽のような気持ちでうけとり、それ以外の受け取り方をしらなかった。だから彼をとめる方法をしらなかった。

 「その話、聞きたいけど、怖い、ひとつだけきかせて」

彼女は唾を呑み込んだ、もう夜も深く、寝室で質素なネグリジェに着替えていた。

 「あなたがそれを話すことで、あなたがエスピィミアに関する事柄で、貴方の信念を曲げる事があるの?」

 「いや、それは、わからない」

 回答はなかった、彼は彼の饒舌な言葉を、彼以外のために用いる余裕をもっていない。彼の深みにある闇は、きっと彼以外の誰にも救えない。だからこその彼の技量、だからこその彼の人望の厚さがあるように今では思える。いや、むしろ彼こそが、不幸の原因をつくり、感じ取り、大口をあげてその種が彼にしのびより、彼が両手を上げて降参のしぐさをみせていて、彼自身が、不幸と一体になることを望んでいるかもしれない事を、その場に居合わせたほかの誰が理解できただろう。というのも、あとからわかることだったが、その会話を聞き探っていたのは、二人だけではなかった。


 ワイングラスを見つめた。それはいつかの舞踏会とは違って、もっと簡単なものだったし、ワインも安いものだったが、むしろカイは堅牢にその瞳の奥に隠された秘密を隠し通し、彼と対峙する何者もそこに、固く閉ざされたその場所に寄せ付ける事は許さないように、多弁に、雄弁にものを語った。おかげで比較すると彼の紳士服も、彼の形式ばったいい姿勢もいささか陳腐なものに見えた。

 「俺の家族は、ある犯罪者がきかっけで、皆死んだ、けど俺はその犯罪者に救われたんだ、その後の人生を」

 軽やかに笑う彼の瞳に、本当の笑顔はなかった。 


 地下の多きな地下1Fの西側の一室の中で、追憶に耽るもう一人の“首領(かしら)”が静かに祈るように佇んでいた。そこに人をよせつけず、物思いにふけるとともに、自分の肩を自分で抱いた。

「いまでもふと甦る事がある、だがな、だがな、どうしようもないことだ誰のせいでもない、だが、だが、ならなぜ“生命の維持”なんて国際的に意味のある法律をつくってしまったんだ!!俺は、すでに死んでいる、死んでいたかったんだ!!!」

 怒号にも似た声は、その土地と、街と、市、そして国の隅々まで響くほどの重低音だった。一室に反響した言葉は、その室の上座と下座に、組織に仕え、忠誠を誓う警備の部下たちの肩を震わせた。

 「ボスは一体、何を怒っているんだ」

小声でそんな話し合いも交わされたように思えた。それほどまでに近頃のクローはこれまでとくらべてもおかしかった。つきあいや行儀や礼節は以前にもましてさらにわるくなり、孤独を好むようになり、ともすると小さないたずらも増えメイドの死のような深刻な事態も起こした。もう組織は疲弊しきっていた。

 部下の中では、その一件以来クローを恐れるものも増えた。しかしそれでも彼はおかしなな行動をとめようとしなかった、もう自制を効かせる頭もなかったのだろう。それはまるで何者かの叱咤をまつような小さな子供のようなしぐさだった。それだけで、きっと周囲の人間に知らしめる事はできたのだろう。“彼の過去に何か重大な問題が生じていたのだという事を”


 実際、頭を抱えていた“首領(かしら)”自体がその物思いにふけっていた。つまり幼少のある少女との記憶、約束、そしてその後の事故による障害と—―16年—―そんな長い間コールドスリープしていたという、取り返しのない彼の青春時代の追憶だ。彼は歪んでいた。彼が組織をまとめ、創ろうと志したのもその歪んだ自己顕示欲のためだった。ただそれが満たされたとき、同時にその物思いや悩みさえ失ってしまう事などの、生命と生存への疑問をもったものだった。


 どこにでもありそうな何の変哲もない日常の風景、ナナシの街についてで、彼が追憶の中に見るのは、大きな高校までの登校風景や、夕方アメフト部の部活帰り、そして部活帰りのファストフード店の友人たちの簡潔とした語らいの場だった。かつても彼は一般人だった。この奇妙な歴史の成り立ちをしるためには、彼の受けたこの世からの仕打ちをたどらなくてはいけない。彼の記憶の道なりを。

 まずはじめに、彼はいまでも自分が蘇ったことと、よみがえらせながら、命の再生について無関心なこの国と他の国々をきらっていた。それは産業と医療と文明の精度をあらわして制度だったけれど、それは人の心を救うには十分な整備はされていなかった。

 (ただひとつ……あの裏切りさえなければ、きっと私は、この記憶に一つ区切りをつけて、別人として生きる事が可能だっただろう)

 「機械天使の物語!!!あれが希望と絶望を奇妙な形に、異質な形にしなければ、我々は!!素直な“死”の意味を、個人の中に見出す事さえできたのに!!もうこの世は、ディストピアだ!!!」

 悲壮な叫び声をあげる。嫌な記憶を取り戻すときに、こめかみに深い痛みが走る。そのとき、もう16年も前のこと、パンドラはまだ栄華をきわめ、古き因習によって成り立つ特権階級は解体されることはなかった。革命と改革が政治にもたらされたのは、労働者たちの目的なき怒りが、ポピュリズムに集結されたあとだった。

 2144年。16、16年前。……それまでは、平穏な人生が遅れていたのだ。一変したのは“死”を確信したあとだった。2144年そのとき彼は富豪の家に住む、この街“ナナシの街”の特権階級の息子だった。地位としてはもっと確固たるもので、かつてこの地に哲学と物語と宗教をもたらした科学者とともにこのパンドラを成り立たせ、科学に制約をつけ、そして“マーニア”機械化された芸術の塔の階層、32階層を過去を掘り下げる最大限度だと定めた、特権階級を得た貴族であり、彼は哲学者の子孫だった。だから自分の血は期待され、期待は裏切られる事はないと、子供な柄に信じ、そのためにその信仰を心に抱き、裏切りなどは考えられないものとして人生を想像しをつくり、ときにささいな障害を乗り越え、寄り道、遠回りを交えながらも日常を送っていた。それなりの学校、高校へ進学し、大学は今より少しがんばってランクが高いところへめざそうと誓い、高校まではたくさんの人と出会おうと考えた。それが自分の中で、世間とわかりあえる唯一のみちだと思っていた。パンドラの統治について詳しく調べていたが、実際そんなものは周りの雰囲気に左右されることもあるもので、回りの雰囲気を見るに、“一度蘇生制度”といわれるそれは、国でうまく活用され機能もしているはずだと信じていた。大人たち、教師や周りの大人たちも、威圧的にそれを子供に信じ込ませようとしていた。

 高校一年生のとき、教師のサポートもあり、小さないじめはすぐに収まり、自分は変わった貴族出身として、平凡な容姿と平凡なコミュニケーションをたもち、また異質な言動をしないように心がけた。そんな中、そうしたふるまいがうまい人々へのあこがれも目覚め、そのころ同じクラスあの少女、“マドンナ”的存在のラテナと出会って、その設計にもう一つの美意識が生まれた。ラテナは大器晩成型の器といわれ、勉強も読書も部活のテニス好きで智慧があったが、抜きんでる所がないのは、彼女がまだその本質を隠しているからだと、周囲から言われていた。事実彼女が本気をだしたときに、スポーツでも、勉強でも彼女にかてたものはいなかった。それに薄桃色の肌に、きりっとしまった唇に、澄んだ瞳で、つんとした瞼をもっていた。立ち居振る舞いは清潔感があふれ、その一方でどこか器量の広さを感じさせるような相手にする人が怖気づいてしまう気迫ももっていた。多感な時期に、ラテナはクローにとって、とても尊敬し敬愛すべき存在であり、それと同時に愛すべき異性としての存在だった。中流家庭の出身のラテナは医師を志し、人並外れた良心をもち志たかく、自らの幸福より人々の幸福、それを第一に考えこの世の他の誰とも知らない誰かの不幸にまで心を痛めるような繊細な心と感性の強さをもつ人間性を兼ね備えた人だった。クラスのだれにもすかれ、自分もいずれ彼女を射止めたいと考えて居たが高根の花であることは理解していた。ただ、自分の記憶の中に、彼女のまなざしのやさしさを、多感な時期ゆえに記憶にとどめておきたいと考えて居たのだ。

 “アンダーグラウンドと地下闘技場”という、ファミリー組織のたたき台のシステムは彼が整備した。それはかつて、高校時代に青春をともにした、トムという親友であった頃と同じく、自分に課したものだった。高校の頃、それはいい思い出であるとともに苦痛の思いでであり、逆境の思いでであった。自分に苦痛をかすと、必ず見返りがあると信じていた。トムは成績優秀、スポーツ万能。サッカー部のエースであり、映画俳優顔負けの外見としぐさをものにしていた。表向きだれもが憧れる好青年であり、その実、どこか隠し事をしているようなふしもあった。しかし親友であるクローには心を開いていると、クロー自身は考えて居た。あのときまでは。

 トムという男、彼はラテナと古くからかかわりがあり、ただ幼馴染というだけで、なんどもクローを目の敵にして、彼と二人だけの時に幾度も嫌がらせをしてきた。だがクローは、彼も愛したそうすることでその苦痛と逆行をのりこえることで、いつかラテナと結ばれることを信じていたからだ。クローの身なり、センス、そして外見は、平均かその下。そういう人間が世の中でどういう風に扱われるかは歴然としているものだと思っていたしその事実に触れるたびに、世界をつまらないと感じた事があった。しかし彼は、平均的な知性も持ち合わせていたし、人よりはかつての歴史ある哲学や世界の歴史には精通している自負はあった。いつも彼はポジティブだった、なぜならきっと自分にはない良さがあるのだと、そしてそれはいつか報われるはずだと、そう思うと確かに自分の心は素直にその殻をやぶったし、実際必要以上の力をだせるときがある。そう思っていたからだ。でなければラテナが彼を親友としてみるはずはないと思っていた。自分は、富豪の息子として育ち世間のことにはうとい、その身分を隠し、ひどく嫌っていた彼にとって、学生生活のすべては、自分を変えるすべての要素を携えてまっていた。すべてが新鮮で、嫌な事さえも、素晴らしいこととうけとるほどに。

 だから、相手は調子にのった。靴を隠す、金をせがむ。ときにクローのバイト先にも出没した。けれどクローは突出した自己管理によって、みらいを“決めて”いた。だからこそ我慢できた、彼の本性も彼と友人であるという詭弁に満ちた嘘でさえも。

 「ばかだなー、こいつ」

 彼は、尋常ではない強さで肩や頭をはたくことがあった。気を失いそうな事もあった。それは敢えての事だった、けれどそれさえも、ラテナは許し、笑っていた。ラテナの正義の基準は絶対だった。なぜならラテナは気品があふれ、その学園の誰一人として、彼女の本性を隠す事もしなかったし、異なるしぐさを見せる事もなかった。聖人君子のような人で、ラテナもその彼女を支えようとするクローに次第にひかれていった。約束は、そんなときに生まれた。

 「学園を出たら、結婚しよう」

 決意は固かった。だから体の重要な部位を時折意味もなく、二人だけのときに攻撃する彼の、長馴染みのトムの行為にも“好意”であるとさえ思っていたのだ。きっといずれ分かり合う事ができる、そんな風に。

 「俺は守らないよ」

 そんな不信な言葉を掛けられたのは、彼女と自分が付き合い、関係をもったと思い切って打ち明けたその日の帰りみちだった。少しも手を出してこない“親友”の意味ありげな静けさに不気味さを覚えて、あたりをみまわたした。

 (やばい)

 駅の待合室。二人だけだった、この時間帯にいるはずの他の運動部の姿はみえない。時折いじめのような扱いをうけるにしても、人が見える場ではお互いがお互いの利益を重んじて親友を演じていた。だから人目がないという事は、親友という規則性のあるテーマが、二人の演技の間から欠落してしまう事を意味していた。

 スマートフォンで駅の時刻表を調べた。看板を見る余裕はなかった、それはすぐ背後にあったのに、いくらかある自由を束縛されている。それは状況の意味する事であって、状況は自分では選べない。

 (なあ、俺たち、親友……)

 「なんかいったか?“優等生”」

 胃がキリキリといたんだ、その痛みが“正義”に対する共鳴でない事はその日初めて理解できた。こいつは、友人ではない、いままで隠していた自分の中の秘密がはじけるように飛んだ、予告通り、その駅をとばして通り過ぎる電車が快速で通りぬけていく寸前だった。

 「ふっざけんんの、もっ、いっ、いいかげん、にっ」

 腹痛がきた。それは精神的なものではなく、物理的なものだった、手をみたがうごいていない、そんな姿勢から敵は、ケリをあびせてきた。学生服の2人がもつれてころがった、待合室の扉をあけたのは自分ではない、それは意識を失い、二人が青春を失うその時まで、彼の確かな記憶の一つだった。


 「親友への忠義だ、一緒にしのう」


 その言葉が、彼の呪いだった。彼の細胞は、破片も残らずに砕け散った。生き残ったのは、自分の、クローの脳、その断片だった。


「裏切りが、腹を痛める」


 生き残った彼は、長い時間の強制生存手術の末に、サイボーグ化して生命を取り戻した。そのころには一家は落ちぶれ、親戚を頼ったが、誰も彼をよくは思わなかった。彼の死は、そのわずかな生涯の間の数年にできた、ある法律によって守られていた。

 「一度蘇生制度――俗にいう“生命維持法”です」

 蘇生されたのは13年後、それもクローンではなくサイボーグによるもの、規則によると生体の状況によって“一度蘇生制度”はその選択肢を変える。役所は、同じ文言を機械的に述べるだけだった。いくつかの国から支援の手段はあったが、ほとんど機械的に支援という名前をうっているだけで、実情、心の空白を埋めるものは何もなかった。ましてや没落貴族……13年ものブランクは簡単に取り戻せるわけではなかった。親兄弟はすべて没落していて、自分の生活をたてるので精いっぱいで自分を世話をする意志もなく、彼と完全な絶縁関係にあった。だから彼は生きるすべもしらず、誰のサポートがない事もうらまなかった。ただ、彼はこの街でせこい商売をして、ときおり闇稼業を営む人々の助けをうけながらほそぼそと生き延びた。そのせいで性格がゆがんで、外見さえもあえて脆弱な醜いものに変えてしまった。自らの意志でサイボーグ体を醜いものにした。——それはどこかではその姿こそ、またラテナのような美しいものとの出会いをもたらすことだろうと信じていたからだ――都市では、才能や学歴と智慧が力をつけ、また逆にそれらが繁栄をもたらす一方で、高くのびる志は、持たざるものを見下すために使われ、貧富の差を大きくかけ離れたものにしていた。“ラテナ”彼女が今どうなっているか、興味はあったが触れる勇気もない神聖な存在だろうと思っていた、時折仕事の間や睡眠前に暇ができると、彼女の事を調べようとしたこともあったが、本当にその顛末を知る勇気もなかった。——彼女は医者になったのだろうか?——その疑問はこの街の医者“闇医者ロム”にであったころに、猛烈に強くなった。それから3年、彼は闇社会との距離をおいているつもりだったが、その残酷さ、残忍さは、むしろ彼の心の空白を埋めてしまった。誰も人が落ちぶれる事に興味はない、ただ、自分が落ちぶれないという確証のために、人の落ちぶれるさまをみていた、それを達観するすべが、闇の社会にはあった。彼女に会いに行った。真相をしるために……、国立公園の丘で待ち合わせ、楽しみにまった。今年の5月の事だった、まだ春で遅いサクラがまっていた。——そこで真相はすべて明らかになり、彼は絶望を感じた。

 いつもと変わらない笑顔、それは16年前と変わらない彼女のやさしいほほえみ、それが確かにあった。

 「クロー、私も一度死んだわ、あなたのためではなく、彼のためにね」

 ほほえみとはにつかわしくない、残酷な、それでいて心の空虚を怒りでうめつくす何かがそこにあった。

 「あなたにやさしくしたのはね、クロー、彼のやさしさがもとだったの」

 「……え???」

 「あなたにとっては私がどんな存在かも知らないし、興味はないの、私は最初から、いつもそばにいた彼の事を想っていた、彼がいたからこそ、どんな天使も、聖人にもなれた、けれどもう、ここは楽園じゃなかった、違うのよ」

 彼女は、小さな子供をつれていた。どうやら自分の知らない男と結婚したらしい。そんな事に、クローの苦しみの真相はなかった。

 「私はね、あなたと恋人になる前に、永遠にあの人に忠誠を誓っていたのよ」

 「忠誠……忠誠??」

 なみだがにじんだ、そのにじんだ涙に呼応するように、試行が交錯をつづけた、この後に紡がれるどんな希望の文言をもってしても彼の絶望を止める事はできなかった、勘違いか?そんな心配は無用だった。なぜならすでに彼は青春のすべてをなくしていたのだから。

 「あいつが、最後に言った言葉、とどけにきた」

 とっさに吐いた嘘だった。彼女は途端に饒舌に、優しくなり、聴けば、医者の旦那を持っているらしい、夢は彼によってかなえられたといっていた。ただそれだけの事だ。

 「彼は、彼なりにあなたを愛していたわ、彼は偽る事しかできなかった、なぜなら私を愛していたからよ、けれど最後には、偽る事ができなくなった、自分のしてきた事の、遊戯の、無意味さに気が付いた」

 「それは、それは、一体どういう意味なんだ?」

 問いかけに反して、答えはクローの中にあった。

 「わかっているでしょう、そこに、愛なんてなかった、私はあなたを、愛して何ていなかったのよ」

 奇異なるひとみが暗闇に輝いた。今ではそれは名実ともに玉座を持っていた。しかし実社会では栄光もなく、むしろそれがあったとしても彼の中の空虚を埋めることはできなかったのだろう。


 【復讐が、人生に意味をなすと、いつかどこかの本で読んだ】


 復讐の気持ち。気概。それは今では朧気な、純真なだけに向くな青春時代の面影を帯びていた。自分がゆがんだのは、自分のせいだとわかっていた。それでも苦痛は取り払う事ができなかった。自分は何にも選ばれなかった。全ては喜劇、悲劇という言葉に集約されていた。なぜなら彼の脳の大部分は、もう彼のものではないのだから、その所属願望も愛も、かつて与えられた、友と愛する人に与えられた絶望に返すす事でしか元の形に還元する事は不可能だった。その細かな神経が、彼を駆り立て、悪を演じさせた、彼の意識と怒りは、もう一度甦ったときには止めようにももはや止められない場所にあった。多くの無秩序な人間を率いて、その闇舞台で社会の裏の“首領(リーダー)”となった彼をなぐさめようにも、その権力に歯止めをかけるような神聖な何かは、もう彼の生活の中から過ぎ去っていて、それを社会の何かに救いを求める事も、彼にはできなかった。

 闇社会の傀儡となり、人々の欲求をたばねるクローファミリー。組織の長としての彼はピエロだった。かつて自殺するほど追い詰めてしまった友。そして愛する人を自分の手にかけた自分の悲劇、そのすべてを、青春の続く刹那の間に解決できなかった重荷。そのすべてが、彼の、いまでは人並よりよっぽど小さくなった、彼の肉体が感じ取っていた。彼一人でうけとめる、それには、重すぎたのだ。


 (ピエロか、私はピエロだったか、けれど気丈に、精一杯気丈に振舞った末の、そのゆくさきの狂気を演じた、演じているつもりだった、だが、ふりまわされていただけだったのか)


 そうして三段の形式的階段とレッドカーペットを前に、玉座に座りそれににつかわしくないほどひざをまるめ、頭をかかえてうなだれる彼の周囲を、王冠をつけた彼の姿によくにた、幾人かの兵士が並んでいた。それらは、トランプの兵士で、彼の顔そのものをみせて、みなそれぞれに思い思いの言葉をはいた。

【初めからわかっていたことじゃないか、人間は見返りがなければ動かないんだよ】

右のトランプの兵士がはいた。

【君は人心を欺き、あるいは従える力をもった】

左のトランプの兵士がはいた。

【もうやめなさい、反省すべきだ、失われた四肢たちも、それを望んでいるんだよ】

右奥のトランプの兵士がはいた。

【すべて無駄だ、自害しろ】

左奥のトランプの兵士がはきすてた。

 それらすべての狂気の幻想さえも、彼は、彼の中の復讐心に変えて、生きる意味として考えていた。時折それが暴走する事も踏まえて、彼はすでに、彼の意味を、現代での彼の意味を見いだしてしまっていた。彼は、自分の舌を噛んで、嗚咽を流した。その血を呪うしか、すべはなかった。王たるすべも、その論理、そこにしか存在しなかった。

 【わたし、彼の弟君と結婚したの、よかったわ、彼の血につれそえて】

 そういう彼女の瞳の中に、自分への復讐心が見えた。でなければ、きっと彼女に手をかける事はしなかっただろう。だが今年の5月、彼女はクローの手にかかって亡くなった。


 いつまでそうしていたことだろう、ただ、時折眼前を光がかすめ、それが柱のように規則的に瞼のそとに広がるのをさっして、自分が生きている事をさとった。まわりを忠義の厚い部下たちがかこんでいる。

 【俺は、いきたのか、なぜ】

 コンシリエーレ、セナが自分の名をよんだ。この部下だけは、信用にたりる、たりるのだが、この狂騒の、限られた人間に与えられる、偶然の悲劇の中では、彼は自分を裏切る役回りだった。だから最後まで信用せず、彼の中の内なる神の光をみた。それは上から、光をもってきた。木漏れ日のような光だった、やがて泡沫の夢が在りし日の、高校時代の彼と、そして友人とを彼の眼前につれてきて、最後には二人で、彼女の、ラテナの墓に華をそえた。そして彼は、嗚咽を流してないた。

 【俺は、許していたんだ、許していたんだ、けれど、君が、救いをもとめて、しかし俺は、俺はまだ生きているのか】

 彼の意識がふと日常に呼び戻される、コンシリエーレ、セナの顔をみるとすぐに事務作業や自分の役割を思い浮かべ、とたんに思考が回転しはじめた。

 「おわりなのだ、終わりなのだ、この組織が、あの結束力のある組織に目を付けられては」

学生時代に重ねて考えた。どんな強豪との闘いですら、決してあきらめなかった親友の姿、そしてそれに憧れていた自分の姿。そのなかにひとつだけ卓越していたものがあった。それは試合を俯瞰でみる知能、それが彼にはあった。




 それと比較するには、比較するには忍びない、それよりは優れた、しかし普通と比べると劣るような、彼等の人生にとって素晴らしい日々が、カイとジルにはあった。記憶の中にあってそこはよく日の当たり場所でいて、よほどの事がない限り人目につかない場所にある幸福の場所だった。

 ラヴレンチの部下が運転する車は行く先も告げず、東区らしい延々と荒れ地や廃墟群の佇む人気のない道路を走らせていた。ときおりあらいずたぶくろの間から、それに別々にくるまれた二人の男女が顔をだした。やがて、山間部に車はのりすてられ、手を縛られたままで、奴隷のように一時間ほど歩かされた。路はほとんど獣道で、案内がいなければ、二、三日ほど余裕で迷子になるほどのうっそう木々の茂る森の中だった。やがて拠点を、ラヴレンチが指し示す、部下たちに何事かを命令すると部下たちはしぶしぶという事をきいて、やがて車を走らせてどこかへ所用をすませにいくようだった。だから脱出の機会は、大分増えたように思える。しかしケヴィン少年には、ケネス、情報屋の力量は測れずにいた。

 「いつもここにいた、あのきりたったがけの中腹に、洞窟がある、あそこは一目をしのんで生活するにもってこいだ、もっとも、もう組織にみつかっちまったがな」

 洞窟の中にはいった。中は予想通りしめっていて気持ちが悪い。こけや虫や哺乳類の残骸が多少目に移り、衛生面の話をした。ラブレンチは笑った。

 「おまえたちは格子のある部屋、いや、牢屋にいれるがな、安全は保障するよ、でなきゃ何の意味もない、俺たちは首領(リーダー)に用があるんだ、でなければ事は動かない、交渉の余地はない」

 ラヴレンチは、その日は多くは語らなかった。けれど本当に安眠のためのベッドや、廊下の一室の掃除なども行き届いていたし、空腹のためにパンも用意されていた。尿意だけが心のこりだったが、明日には準備をするといっていた。だから眠りにつこうとおもったが、不幸中の幸いか、ラヴレンチが誰より先に眠りについたので、ひまをもてあましてか、けれどケネスの監視の目をかいくぐるように、エメは、ジルはケヴィン少年に伝えたい事があるようだった。


 「彼は、過去を背負い過ぎている、過去には、不幸も幸福もあるけれど、彼は過去に意味をつけすぎている、でも、私にもどうにもできなかったわ、だから彼は、臆病なの」


 うつらうつらと、まるで“機械天使の物語”のような童話チックな話を聞いた。それはエメの、いや、ここからはジルといおう、ときめたが、ジルの心の風景を、ロマンチストな一面を感じさせるような、彼女と彼、カイとの別れとの物語だった。


 「私たちは、裏切られた事を恨みに思ってはいない、何の意味もないから、誰も悪くなかった、不慮の事故のようなもの、誤解が誤解を与え、その誤解が意義をもち、イデオロギーをもって、組織を分割させてしまった、これらのことは、どんな組織でも起りうることよ、人望を持つ人間が、そんなに組織にたくさんいてはいけないの」


 ファラリスではカイもまた同じ過去に思いをはせ、時を同じくして、彼女と、ケヴィン少年の行く末を案じつつも、残されたロム医師と、あたりを警戒し続けるベルノルトと数名の部下とともに、その一夜をのりきろうとしていた。不安が心をかけめぐっている、そしてこんな言葉が口をついて出た。

 「なぜ、あの時、俺は組織を背負えなかったのか……」

 「なあ、そんなにふさぎ込んでも仕方がないだろう」

 義眼の白衣の老紳士ロム医師ががそうなだめる。軋轢を生んだのは、組織だけではなく、エスピィミアを取り巻く環境がすべてそうだった。エスピィミアは、他の義賊や裏社会の勢力から恨まれていた。なぜなら何より“正義”と“秩序”を重んじ、まるで表の世界における社会慈善事業でもあるかのように義賊の仕事をなんてこともなくそつなくこなした。

 だからなじみの情報屋に裏切られたのも無理はなかった。そもそもがどこからが裏切りで、どこからが誤った情報かさえ理解はできなかった、派閥は疑心暗鬼になり、衝突は増え、そして双方が来る日をまっていた。つまり、首領(ボス)の肉体が死ぬ時だった。

 「結局最後は、わって入ってきたほかの義賊や、マフィア、小悪党たちに拠点としていた首都のある場所や、飛行船をあらされて終わった、それもボスが死ぬ前の事だ、ボスの死さえ、謝った情報だった、ボスは死の間際にいったさ、あとを頼むと、けれど残されていたのは、俺とあと数人、そして、彼女、ジルだけだったのさ」

 組織は崩壊、エスピィミアのうわさは途絶えた。栄光は短い幕を閉じた。その不幸を呼び込んだとして、カイはふさぎ込んだ。そんな折、エメは彼に決断を迫った。

 

 ――洞窟の中で、ジルとケヴィンも同じ話をしていた。

 「まだ未熟だったのよ」

 遠い廃拠点よりも随分みすぼらしい、人間が生活できるギリギリのラインのスペースしかないほどの牢屋の中で、互いの格子ごしにジルとケヴィン少年は言葉をかわした。

 「もしあたしと一緒になる覚悟があるなら、あなたの大事なネックレス、それと腕時計、その日の新聞を、一週間後の正午に、首都の女神像前においておいて」

 答えは、複雑なものだった、カイはそれによって逃げ切ろうとした、人を傷つける事からも、自分を傷つける事からも。

 一日目、何も置かれていなかった。二日目、三日目も同じ、四日目には腕時計、五日目に新聞、六日目には何もなし、そして期待した7日目には、今までおかれていたすべてと引き換えに、ネックレスが置かれていたわ。私は、彼がかけつけてきたとき泣いていたけど、彼は、海よりも深い瞳の中で、自分の考えを何一つ持ち合わせていないようだった。私たちは、もはや仮面をかぶるすべを失っていた。



 「私たちは、あの時の私たちは、希望を抱えていた、きっと自分たちの過去を拭い去るほどの希望を」

くやしそうにつぶやくジルには、いつもの見知った顔の大家の印象と姿は消え去っていた。けれどケヴィンには、それに伴う疑問がひとつ生まれた。

 「エメさんの特技って何なんですか?」

 「へ?」

 間の抜けた返事とともに、二人の間に齟齬が生まれている事を、大人のほうのエメが確信を抱いて感じた。そこで少し含み笑いをして、こんな風に聞いた。

 「ねえ、それって、エスピィミアにおける私の役割ってこと?」

 「そうです」

 なるほど、と答えたあとに、元エスピィミアだった彼女は傍らのポケットから財布らしきものをとりだした、パタパタとおとをたてて反面にだけ化粧をしはじめる、そしてこんな風にいいはなった。

 「私、化けるのよ」

 なるほど、彼女の反面は、年相応に思えない、とても老いた面影を蓄えたしわくちゃの老婆の化粧ができあがっていた。


 そしてその時、カイににた少年の中に、カイとの思い出をたどった。そのすべてを彩るのは原色の、自分の形にふさわしいシンプルな風景、けれどカイは仮面のその先をみていた。それが彼女の中の希望となって、いままで彼女の人生を支えていた彼女の過去だ。

 「カイは、信念を裏切れない」

 その確固たる自信が、彼への敬意となって、尊敬の意味となって彼女の胸の奥底にひそみ、ときにくじけそうな彼女の胸のとびらを何度もたたいた。そうだ、彼女は彼女の中に彼を思い描き、彼もまたそうした。そのはざまにある誤解を抱えながら、それでもお互いを支え、尊重できる未来に、希望を抱いていたんだ。

 重篤な肺の病を抱えた父は、もう長くはなかった、父を戦火からとおざけ、最後までみとり、そして感謝の言葉をつげたのは、彼だけだった。だからいえる。彼の気持ちに嘘はない、いつだって、どんなことにだって。

 思い出はいくつもある、今出し渋るにせよ、それが口をついて出てくるのを押しとどめるのは容易ではなかった。彼は再び自分の前にあらわれた、その喜びを口にするにはその場はふさわしくなく、相手はあまりに子供すぎた。だから口ずさんだ。偽りに満ちた欺瞞の歌を、この国にある嘘にかためられた希望の歌を。

 「ルルル、ルル~ルル~」

 ケヴィンはその歌に安息の地を導き出そうとはしなかった。しかし反対に彼女は、ジルはこんな記憶をとりだした。深夜徘徊をする仮面の自分たち、繁華街。スラム街にばらまいた宝石や札束の類、人類を縛る規則から逃げる事のできる、盗賊の手にした自由。私たちは、互いに自由を保障した。それはきっと日常の中でさえ、再現可能なものだと、そう思う。

 「カイ……」

 そんな静かで温かい記憶の中で、エメは記憶の中へ落ちて行った。


 翌朝また牢屋ふと意識を取り戻すと、少年は自分の頭を目覚めさせるため両頬をたたいた。寝ているかねていないのかわからないが、ぼんやりと人の輪郭がみえる。ドブネズミのケネスが自分の牢屋の前で見張り番をしているようだった。小さめのパイプ椅子にすわり、小さな足をのばしている、そのしぐさはまるで小動物のようだ。

 「ケネス、どうしてあの人が……」

 目を合わせたがふいとかわして洞窟の奥へ隠れていってしまった。何かペットボトルの飲料をもってきて、それをケヴィンに二つ渡してあごで隣の牢屋に配るように目配せした。まだ目がさめたばかりで、自分の意識や手足の長さ、これまでの事やこれからの事に一瞬思考をめぐらせて、ふと気づきをえる。そうだ、自分はまだ少年であり、そして今生まれたばかりかのように周りの情報をどんな小さなことさえも見逃さないようにしなければならない、ただひとつ赤子と違うのは、彼が産声や鳴き声を挙げる事がないだけだ。ようやく起きた事にきがついたのか、朝日が牢屋の中をてらすと、逆行のようなまぶしさとともに、ケネスがまた奥へ隠れるように移動するのをみた。そして入口の方から物音が聞えた感じがしていた。

 「おきたか、少年、君には専用の枕が必要か?それともなんだ、よく眠れたか」

 それから入口と思われる洞穴の外のほうから、聞き覚えのある、昨日きいたばかりの顔なじみの声をきいた。それはラヴレンチの声だった。かれは首にタオルをかけて、なにやら運動を終えて一区切りがついたようだった。汗を流して、それをタオルでぬぐいつつ、日光を浴びていた。

 「今ならあなたが悪役なんて、どうして信じられるでしょう」

 わざとらしくセリフ的な言葉をはいてしまった。なぜなら昨日のこびへつらうような態度の決意がまだ引続き、彼の思考の根底にあったからだ。


 昨日のうちに二人は話し合いを終えていた、それはひそひそ話で、ドブネズミのケネスが眠りにつき、どこかへラヴレンチが、不用意に不用心にでかけたあとに交わされたものだ、向って左は入口、右には木でできた扉があり、その一室はこの拠点の重要な地点らしかった。

 「これから、どうします?」

 「彼ならこういうわね、もし危険を感じたら、むしろ危ない選択をとる考えを残しておくこと、逆に危険に入る、それによって相手の思考を読むことができる」

 「へえ……」

 おもってもいないことだ、しかし、思ってもいない事だろうか、いつか二人きりで拳銃の扱いの練習をしているとき、こんなジョークをカイがいっていた。

 「ベルノルトがもし敵であるなら、おどろいてはいけない、きっとそれはチャンスでもあるから、じゃあ、どうする?もし彼がそうなら君はどうやって攻略する?君はすぐさま自分の気持ちをいってしまう?」

 まるで相手の思考を手玉にとったようなジョークを彼は好んでいた。それは会話というよりも、むしろ彼の内在する秩序から自然に構成されていく詩のようにも感じる。彼は歌を歌っただろうか?少なくとも、そのふるまいは、いつもどこか、自分のことさえも遠目にみているような、大きな広い視点が存在していた。 

 「そんなときは、それなら僕は、こうします、“あなたのボスにいいつけますよ”」

 ぷぷっ、そのときカイは口を押えてわらった、体をつかうためにまくった裾に筋肉や血管が映えた。

 【いい線だが、甘いよケヴィン、それも踏まえてこういおう、こう付け加えておくといい、“この状況で自分とカイのどちらが憎いか、先に僕を倒すべきか、僕には疑問が残る”きっと彼の狙いがわかる】

 本気かどうかわからないアドバイスをして、その後、ケヴィンの頭をがさがさと大きな手のひらでなでて、彼を家の中へ案内(エスコート)したのだった。

 きっと彼なら、ここから逃げ出す方法を与えてくれるはず。どうやらケヴィン少年もやはりその彼の考えを信用しているようだった。そもそもこの状況で助けを求めるべき外部の最も信頼できる筋は、彼でしかなかった。

 「少年、どうだ、やっぱり元気がないか」

 答えようがない、けれど答えるしかなかった。のどがかわいていたし、トイレも近い、自分は我慢できるが、きっとジルは我慢しすぎてしまうだろう、ここは丁寧に話を進める、そのために相手の要求を少しずつ飲むことにした。

 「いいえ、そのうちきっと元気になりますよ、僕のことはそんなに気にしなくて大丈夫です」

 そのケヴィンのいい交渉の結果か、やがて午前10時には、ジルはトイレにもいけたし、ケヴィン少年とジルは朝食にありつく事ができた。それよりも意外だったのは、彼ラヴレンチが自分の両腕を自分で整備していたことだった。さぐりさぐり、一つでも多く情報を手に入れ、そして彼の気をよくする必要がある。

 「少年、そしてジル、私のしたことを許してくれとはいわない、だが貴方たちの健康状態は、私の一番の関心の的でもあるのだ、私は彼をおびき出すため、そして彼を倒す事によってしか、もはや私の未来をつかむことができないから、そこであなたたちをなるべく自由にしておきたい、一人ずつならばまだいいと思う」

 日はもう高くのぼっていた。先ほど話していたラヴレンチとの会話も薄く記憶の中へ整理されていく。

 「午前はあなた、そう、少年です、午後はきみ、ジル、白鳥です」

 なによりラヴレンチがその日与えた、“交互に与える自由”のおかげで、ケヴィンは先に、午前中に外に出る事ができた、もちろん手だけは厳重に拘束されていた。ケヴィンは出された時、思いっきりのびをして、外からくる空気をすって、左奥にみえる外の空気を吸い込んだ。

 「う、く、おおおお、はああーすぅうう」

 少し尻目にジルの姿をみたが、顔いろは変えずに、ただ自分がラヴレンチと対等に会話する事だけを心掛け、心にとめておいた。牢屋から洞窟の廊下にでると、さぐりさぐりラヴレンチとの会話を試みた。

と、ラヴレンチのほうがそれに備えていたとでもいうように、ケヴィン少年の背中をおしながら、何か質問をしてきた、溜めていた質問がある風だった。

 「少年、さっき私が悪役に感じられないといったな、悪人に見えないと」

 「たしかにいいましたが」

 少しばかりの追憶の合間に、少年がふと感じた昨日から続くラヴレンチへの親切さに答えた言葉を相手は拾い上げて考察していたらしい。

 「ならばエスピミィアのカイは君にとって善人だったか?」

 これは絶妙な問いだった。彼らに情報を与えてはならないし、しかし彼らがもっている情報を得なくてはならない。ラヴレンチの骨ばった筋肉質の顔は昨日よりは晴れが引いていくらか勇ましい。傷が引いてきたようだったのだ。

 「僕は、カイさんが、今度の事から救ってくれたし、結果はどうあれ、彼は善意をもっていますよ」

 「善意、フフフ」

 真面目な話をするのに笑う、その様子に違和感を感じて少し悪寒が走った。なぜ人の行為をこうしてよくしりもしないのに笑う事ができるのだろう、少年相手だとおもって、なめてかかっているのか。いや、彼の呼吸は次の言葉を旋律を奏でようとしている。彼の間だ。

 「いいや、ね、きみは表の社会、“裏のない社会”で生きるものだ、貴方を裏に引き込んだのは、私ではなく、ほかならぬ(カイ)であって、その上彼は君や君の周囲に、彼の中に蔓延していた悪意の種をばらまいたはずだ、これは押しつけがましい事などではない、純粋な事実だ、たとえば反対の側の人間がどんな運命にあってもほったらかしにする事、そうして表の社会と裏の社会がかかわりをたっている、君をきっかけにジルというかつての恋人まで自分のものにしようとたくらんでいる、カイというあの青年、あの生き様《優柔不断な自分が判断を先延ばししている問題について人におしつけたのと同じことだ》」

 急いで物語を語るために声をあらげ、裏返るのをおさえるのに自分が自分で躊躇したように、一度ここでラヴレンチは右手拳を握り咳払いをした。

 「この国は、戦後の社会は、無関心と偽善でなりたっている、裏も表もそこは同じだ、外にむけてそれと同じ暴力をふるう、科学者と哲学者の生残りが建てた国だからだ、そうして自分たちの正当性を、その矛盾の中に隠してきたからだ、自分たちは正しい、自分たちはかつてのような過ちを繰り返す事がない、自分たちは他よりすぐれている、しかし、裏を返せばそんなの虚勢だ。そんなものがたとえば裏路地で、たとえばゴミ捨て場で、廃棄された工場で、その場でくすぶっていればよかったはずのものが、仮想空間、軍事によって発達したネットワーク空間や、サイボーグたちの違法改造、いびつなコミュニティで凝縮され、その美しくない態度に出すものさえあらわれた、自分たちは正しい、そして自分こそがその自分たちの中で一番正しい、などという、そして偽善が生まれた、アリアの人々すべてにいえる事だ、自分たちは人間を“二度死なせる”力をもつ、しかしそれは善意ではない、自分たちの有用性を証明しようとすることは、誰にだってあるものだ、だが今では、それは卑屈な競争の中に隠れている、科学の技術がそこをつき、限界を決められ、機械的に働く人間たちのてによって、悪意は増幅させられている、悪意……善意の放置、そして放棄という悪意なのだ、かつて優れた人間たちがいたといって、それが何になるのだろう?そんな品のない善意だったものを、あがめて何が手に入るのだろう、彼も同じさ、勲章を欲しても、実際の善に関心があるわけではないのだよ、そもそもが“機械天使の歌”あれこそが究極の意志であるという、メンタリティに問題があり、齟齬がある、それは全体の医師ではない、一度行き場を失ったものは、自分たちの卑屈さと、自分たちの劣等感さえ人に押し付けるだろう、だからこそ科学者と哲学者は、無関心を利用して、軍事利用さえ可能な科学を、そのギリギリまで復興させた、無関心の行きついた先がこの偽物の全体、“機械天使の物語”だったのだ」

 ケヴィンはクエスチョンマークが頭を駆け巡るのを想った。そんなはずがない、いくら物事の順序が転倒したとしても、彼のロジックは不可解だ。それでは、まるですべての原因が、明かに彼と関係ないところでさえ、彼の責任になってしまう。だから探りをあてる意味もこめて、こう返した。

 『それは、僕が生まれたことさえも彼のせいだといっている事にひとしい、いくら何でもそこまで彼に悪意があるというのは、あなたの偏屈でいることのあかし』

 彼は笑った。腹の底はしれないが、やはり何か通ずる所があったようだ。

 「違うよ、私は事の良しあしの話はしていない、ただこう個人的に思うんだ、君にとって彼は“非日常の異物”だとね、その接触そのものが君に悪い影響と苦悩をもたらした、そしてその解決方法に対してカイは真面目に理解していない」

 詳しく説明を促すようにケヴィン少年の肩をだいて、大男は洞窟のそとへ少年をエスコートした。

少年はその背後につられて歩き、けれど小声で繰り返した。掌をにぎって、その中に感情を込めたように。

【彼のせいだと、思うけど思いません、誰にだって何かを人のせいにしたくなることはある、けれど子供だからといって、そんなロジックに取り入られるほど、物事を難しく考えてはいない】

いつか、ヴラドはケヴィンが世のあれこれになんでも口を出したい年頃、小学生の自分、父はたしなめるように、テレビにむかって分かった風な口をいって見下す息子にさとした――世界は決められた形をしているのではない。楽をして決められた形で考えると痛い目を見る。ヴラドはよくケヴィンが人の心理を先読みしてそれが結構な確率であたる、つまりケヴィンは弁が立つという事をはっきり認知していて、それでもケヴィンのその予想をなぞって、警鐘をならしたのだった。


 クローファミリー拠点地下1F 玉座の間。赤い玉座に、宝石がちりばめられた椅子、技巧を凝らした椅子は、いまではところどころにガラス片らしきものがつきささって、常人には座れない状態になっている。彼の体は、血の代わりにオイルの液体をながした。彼は両腕をだらんとたらし、座る必要のない背もたれをさけた、しかし所々不具合があるらしく、時折人工筋肉は意に反して脊髄反射的な行動をした、それがまるで、何か持病の発作のように思える、不気味さは問題ではない、疲れ切っていたのは彼と、その精神だ。筋肉は弛緩しきっていた。落ち着きからではなくむしろ、緊張からそうなっていたのだと思う、けれど彼は、まだ嘘のような記憶をさぐり、手探りで探し当て、その中からある言葉を抜き出した。

 「彼女は、彼女は、俺が殺してしまった、もはや許される事ではない」

 ひきつった笑みを浮かべ、彼の狂気を抑えようとする部下たち、そのドアの左側、下座のほうがドアドタと騒ぎ声やら、もみあいになった時の人のがんじがらめの足音やらが聞える。彼はぴくりとこめかみに筋をたてた。浮きたつもの、それは人工の血管だった。

 『どうした……おい、セナ、何が起っている』

 うなだれていたのは、彼独特の悩みのためだ。どうも心が落ち着かない、落ち着く場所を失ってしまった。それは機械天使の中だろうか、それとも失われた青春の中か、いや、どれとも違った。手元にある本を漁る、それでもなかった。彼はふたたび彼の小さな両腿に肘をたて、頭をかかえて、静かな自分の呼吸や人工筋肉の軋み、骨のこすれる音に耳をそばだてた。何も変わるはずはない、自分は生きている、しかしどこに、どこかしらに、この空虚の答えが存在している。そんな気がする。けれどそんな澄んだ、研ぎ澄まされた意識の中ですらつかめないものがある。掴んだところでもはやどうしようもない事だ。きっと自分は、正義を行う事ができないだろう、自分は秩序を失っている、どうか自分の愛する人がその失われた秩序に近づかないように、クローはそれだけを祈っていた。

 『……』

 しばらくしてセナがうごいた、また彼が頭痛と自意識の倒錯と戦っていると、セナがいつのまにか自分の下から自分のことをのぞき込んでいた。セナの薄い笑みは、鋭く人の意識の中を覗きこむ、自分のとがた、モグラの様な鼻が気がかりになる。いったい彼は、自分の何に不足を感じているのだろう。

 「ボス、どうやらカイに接触を試みたようです、ラヴレンチが」

 「おお!!」

 その雄たけびは、何の意味を持っているか自分でさえわからなかった。ただ彼の中には憎しみと愛情がうずまき、その対処方法を自分でさえわからず、自分の遠くにおき、そして時折それを自分に近づけ、愛でる。すると別人のようになり、近くの存在を傷つける事がある。だからクローはセナにいった。

 「セナ、しばらく退室してくれ」

 「……これからどうするつもりで」

 セナは即座にいう事はきかなかった。だからこんなことをいった。

 「私の組織だ、私の組織なのだ、セナ、私の秘密を守らなくては、私の秘密を……」

 しばらくして部下をひきつれてセナが退室を終えると、扉の外で部下たちがごまをすっていた、ボケが、いすかない、この非常時に。そう思いつつ、セナは彼らにチップを渡す。

 ボス・クローの心は空虚だった、空白だった、もう自分が何を、どんな大事な事を忘れているかも忘れているように空虚だった。しかし、だからこそ自らをたたえる一室の空白な四隅に向って訴えた。

 「あれは、大事なものだ、私が、私がボスに値しない心の問題を持っているものと、癇癪や心の狭さを持っているだなどと、そんな事は口にしてはいけない、それに、それにそんな事は、部下たちに知られてはならないのだ……チップを、とりかえせ、奴はまだ、隠し持っている」

 彼の意識は混濁していた。ひと昔まえのインターネット電話が混線をおこしたように。彼は一人だけで玉座に座り、観衆に訴えた。彼の人望は、才能は、いささか歪んでいた、なぜなら彼は過去を隠し、組織の本当の目的を隠し、優秀なマネジメントのすべてをセナにおしつけた。だからしらなかった、今の自分は本当に、一体どんな人間から、どんな社会の人々から、どんな風に見られているかという事を。それは実際どうであるかよりも、恐怖こそが先行していた。だからこんなことを口走り、再び意識を落とした。

 「ああ、哀れか、私はあわれか、人々よ……」


 午前11時。半東区のラヴレンチとソスランの拠点、まるで岩の外では、まるでケヴィン少年に熱弁をふるう教師のように、完全に彼を救った救世主(カイ)に成り代わったとでもいうように、ラヴレンチは彼の罪を白状していた。そしてそれが罪ではないと、生きるすべはたくさんあるのだという。優しく、ときに厳しく彼に接する事で、きっと何かしらの情報を引き出そうとしているのだ。それが人を救う正義によって行われたなら、ケヴィンもそれを信じただろうが、それをしたのはカイではなく、ラヴレンチだった。彼は今まさにケヴィン少年をたぶらかそうとしていたのだ。

 「私たちは、お互いに、もはやひとつの罪もなくして存在できない、君は小鳥に同情をした、が救わなかったな?それもまた罪だ、君は黒鳥をとめない、もはやカイを正義だときめつけている」

 「……」

 惑わされるふりで、尊敬をこめる意味で、ケヴィンはただラヴレンチに相槌だけを撃った。左掌の拳をつよくにぎって、反感だけはもたないようになんとか自分の二面性をこらえていた。 

 「私たちの生活は、表の社会の健全な人々のものではない、理由は問題ではないのだ、この場合問題など、理由には存在しない、なぜなら表の社会では、理由などというよりも、何にせよ結果こそがすべてなのだ、結果だけを見て人は人をさばき、ときに原因など存在しなかったかのような世界をつくる、しかしそれが実際の出来事だ、実際の出来事はそんなものでしかないのに、カイは君に自分ひとりの正義をおしつけて、そしてその決着方法さえ、君と話し合うことを恐れている」

 「そうでしょうか」

 難しい大人の話はわからない、あえてそんなそぶりで目を泳がせるケヴィン少年、しかし虎視眈々と、それが演技である事も、自分のわざとらしさも自分の体の見下ろす意識を取らえてわきまえていたのだった。

 「いいや、そういうものだ」

 見下ろしたのは東区だった。東区には山間部が多い。大きな大陸の山脈もある。その地形でごまかしたかのように貧富の差がそこにあった。富めるものと貧しいもの、人間がみつけた構造は、人間の形である種ほったらかしにして、その場にそれぞれのカオスを形成している。つまりいくつかの都合が見て取れる。ケヴィンの頭は瞬間的に相手の思考をよみ、その思考を整理する。

 (貧富の差、生れの事や、治安の事だろうか、そこには埋まらない壁がある、きっとこの国の分断の事をいっている、東区は郊外にあり治安が悪く嫌われる、そしてや中央にばかり富があつまる、誰もこの落差を本当にどうにかしようとは思っていない)

 富める者の裏に安い労働力や、苦痛や苦労を負うものがいる、直接の関係を表す事はできない、しかしそれは文化の言葉や慣用句ことわざの端々にまでちりばめられている。時にひとをけなし、時にひとをいましめるそれらは、ある一点の理想を排除している。性善説のようなものだ。

 見下ろした自分のしぐさにおそれを抱いた。決してそんなはずはないと思いつつも時折ひとをしたにみる事がある、人類は確かにどこかで平等を保障したはずだが。そんな推察を見越したように、相手は新しい言葉をよこした。彼もまた、東区の街並みをみていた。この崖の真ん前にも木々がたちならびやっとそれらの密集が抜けたところに東区の端くれが見える、鉄クズや鉄骨、むき出しの工業機械や廃工場。これらはすべて、世界の必需品であるはずだ。

 「少年、私は憎しみをおった、私なりの憎しみだ、その憎しみを負っている限り、私は表の社会の人間のように器用にものを考えられない、理由と結果を分離できないのだ」

 なるほどとおもった、時折見せるこの人の場数を踏んだかに思われるあらあらしい言動やしぐさ、そこからある種自分中心の、自己中心の理屈を感じる、もしこれらが社交的な場で表されたなら、彼は変人として扱われる事だろう。

 「だからな」

 しかし、その後に続く言葉には同意できなかった。理屈はわかる、だがそこに自分の意思は介在できないかのように、彼のことばの目的は恣意的であるように読み取れる。彼は熱弁がまさり、肘をついていた膝から状態をおこし、ケヴィン少年に右手のひらをひろげてうったえた。

 「カイも同じだ、ケヴィン少年、彼は君と出会うはずもなかった、その必要もなかった、それでもそうしたのは彼なりの自由で身勝手な原因があってのことだ」

 はたしてそうだろうか。未熟な心が心音とともに脈を打って、否定の試みがイメージトレーニングの中で空回りする、彼につかみかかりたい、あるいはここで自分は、自分の座るパイプ椅子からたちあがって彼を一瞬ひるませたい。ただそれができれば、それさえできれば、この言葉の矛盾をつく、虚をつくことができたのに、それはとても重要だった、なぜなら理屈でない感情がそこにあったからだ。

 「ええ、そうですね」

 言葉が淀むのを隠すのに必死だった、額には汗が伝った。もう冬も近いのに今日の気温は異常なのだ。ただそれだけが理由のはずだった。自分はカイという青年に救われた。その恩義を忘れて、彼は彼の目的のために自分を巻き添えにしただという推察がどうしてできるだろう、悪だ、それは悪だと思った。それこそがこの男がケヴィンを懐柔しようとしている理屈にすぎない。

 「まあむつかしく考える事はない、君には君の考えがあるだろう」

 その物分かりの良さがさらになんだか鼻につく、これは何かの策略だろうか?少年だからといって、自分の主義主張を隠す事が出来ないとでも思われたか?暗示?洗脳?そのどれでもない、もっとも否定しつつ考えに入れておかなければいけないという事は、彼が自分の演技をみやぶって、鎌をかけているという可能性についてだった。

 「私は……」

 おとなびすぎた一人称に少し気分をかえた。

 「僕は……確かに時折、彼の事を考える事もあるのです、彼も立派なマフィアなのだと」

 「……そうか、よかったよ、もし彼が君の気に入った英雄であったなら、この先の出来事は君の心に傷をつけるかもしれない、それは私の美学とは違うのだ」

 彼はケヴィン少年の背中をたたき、そしてまた空の上のほうをみた。きりたった崖の前で木々の生えない山腹のはざまで、二人は何かしらの互いの理解を深めたらしかった。その後、食事を与えられた。

 食事のあと、13時半ごろまで暇はあったが、ラヴレンチは本を読んでいた。それは機械天使の物語、ピエロとある少女の物語。ケヴィン少年はどこで調達したかラヴレンチがもっていたその日の新聞のいくつかのページを読み終えていた。やはり慎重に、下手にでなくてはならない。ただ、彼の語る正義には違和感があった。それはいつか暖炉の前できいた、カイの信念よりおかしなものだった。

 「悪人は正義を導きだす事ができるか」

 彼はそう言っていた。悪が何か、正義が何か、それはわからない、けれど論理自体のおかしさよりもおかしかったことはわかった。それと同時にわきでた疑問は、カイの正義を否定することは、ラヴレンチという男の信念に抵触しないのかという事だった。

 一方で彼の言い分はわかる、大家エメ、もといジルとカイとの関係はあの日から、ケヴィンに会いに来たその後からより一層深みをましているようにみえた。けれどそんなものは、偶然のひとつでしかない、ケヴィンにわかっていることは、彼の、カイのいう正義が、いくつかの迷いによってなりたっているという事実だけだ。

 きっと触れる事はできなかったのだろう、表の社会と裏の社会とそれぞれの事情とは、きっと交わる事も、迷うことも、偶然をこじつけることも、今度の事がなければ起りえなかった。ならばその責任はラヴレンチも負っているはずだった。横でひたすら何かを思い返すように、この国の持つ寓話と教訓の本を読んでいるラヴレンチは自分に何を訴えかけたかったのだろう。それらの理想からはじき出された人の苦悩だろうか、きっとそれは背負っている、だが、それだけだろうか、やはり暗黙の了解の様に気まずい空気が数秒ながれて、次の、ジルとの交代の間に、ラヴレンチは意味深げな言葉をその本に向って答えたのだった。

 「一度裏の社会に落ちた人間は、世界の本当の仕組みに縛られ、過去に縛られる、そのトリガーをひいたのは、まぎれもなく、カイだったはずだ」

 ケヴィンに言い聞かせるようにではなく、目的はひとつ、自分をたきつけるように、ラヴレンチはひとことをはいて本を閉じた。


 やがて、牢から入れ替わりに現れたジルとハイタッチをかわして、今度はジルが軽くのびをした。次の交代は16時で、そのとき着替えを許されている、いったいいつまでこんな事がつづくのか、それはラヴレンチは多くを語りたがらなかったが、その日しつこくケヴィン少年が訪ねていると、やがて18時の夕食のときになって、牢の中にいる二人に食事を提供しつつ、彼はいった。ケヴィン少年は彼に提供されたシリアルとシチューを飲み干しながら、相手の会話をまっていた。 

 「…………」

 「…………」

 大穴の中の、丁度テーブル大のたかさにおいてある邪魔な大岩を椅子代わりにして、食事をしていたラヴレンチは、先ほどからケヴィン少年が訪ねていたことに聞き耳をたてながら、あえてきこえないようなそぶりで自分の食事だけを粛々と進めていた。その男のそぶりとは面白いものだった、何せ昼などは、ジルが自分に近づこうものなら。

 「ひっ」

 と悲鳴をあげたのだった。感覚でわかる、彼は女性が怖いのだ。ラヴレンチはそんな面をさらしたあとなので、自分の体や顔のあざや傷についてはもはや隠そうともしなかった、だが時折痛みをかんじてか、彼は自分のそうした部分をさするように、雨風からかばうようにしぐさをするのだった。

 「少年、答えよう、この顔のあざが直る頃には、君たちは自由になる……かわりに」

 ごくり、と勢いよく食べていた、口に書き込んでいたケヴィンがのりだして彼の顔を覗き込む、視界を牢屋の格子に邪魔をされ、左の顔面しかみえなかった、彼の髪は男にしては長いので、もし彼の天然パーマがなければ、遠目にはどちらかきづかなかっただろう、彼の肌は白い。

 「かわりに……」

 まちきれなくてうながした。相手は思ったよりも押しに弱いようだ。

 「このあざがなおるころ、変わりに君たちの愛する人間は死ぬだろう」

 間違いがないカイの事だ。それだけは何とか避けなければ、明日からの情報収集のため、その言葉をきいたジルの気落ちした瞳と表情を左に見ながら、ケヴィンは洞窟の奥で眠りについた。

 「言っても仕方のないことを、言っても仕方のない人にいっても、仕方がないんだ」

 ラヴレンチに抗いたかった言葉を隠してくちをつぐんだ。



 クローファミリーの拠点地下2Fにて、薄暗闇に研究所の内部から発せられる明かりだけがかろうじて作業が可能な必要最低限な光を保っていた。研究者たちは集い、シャツとジーンズをはいたある三人組を部屋中央に四つん這いに座らせて何かの準備をしているようだった。

 「は、はははは、ははは」

 科学者は狂気に両腕を広げて、助手の女性をわきに、自分だけが何かしらの準備を進めている、左腕に抱えた書類、右手のペン。、控えている背後のパソコン。長身の女性ヨハンは、レッサ老人の補佐をしているだけだった、しかしそれだけでも、彼の巻き髪や、綺麗に整えられたメイクは高揚によって赤みを帯びている。それだけではない、この新しい実験には、クローファミリーの、いや彼らのマッドサイエンティストの今後がかかわってくる。

 「博士、彼らも改良できますね!?」

 「ああ、もちろんだ」

 猿顔の男、一人は映画俳顔負けのととのった顔立ち。一人はブルドックに似た男、そう、彼らはラヴレンチの手下で、誘拐犯のはずだった、実験室と思しき暗がりの中で、その彼らがなぜかとらわれ、彼らの背後には、重々しい計器や機械の基盤、パーツや配線をとりこんだ脊椎にも似た形の奇怪がつながっていた。ぶるぶる、ぶるぶる、一人の男が震える、よくみると彼ら一人一人の頭にも、ヘルメットの形ににた機械がつながっていた。そして明るい光、赤の光は彼らそれぞれの体内から発せられていた。

 「少しずつだ、徐々にだ、だがしかし、この腐った、腐敗した組織のくらがりに、過去の栄光が“危機(パンドラ)”の箱が開きつつあるのだ!!」

 彼らは一人は右手を、一人は額を、一人は腹を機械的に変形させ、武器のような形をとって、やがて10秒もすると、息絶えたように意識をうしなっていった。


 それと同じ時刻、ソスランとラヴレンチの拠点“崖っぷちの洞穴”へと舞台を戻す。ラヴレンチはもう一人で、どこかであきらめの気持ちをもっていた。もはや自分の意思ではなく、組織に求められる償いによって、ケヴィン少年から何か重大な価値を引き出そうとしていた。ラヴレンチは、その夜、いつかのカイ青年のように饒舌にものをかたった。いくらかケヴィンの融通の利く対応が、彼の心を開かせたと言えるかもしれないが……。

 その夜彼が語ったある村の話は、ケヴィン少年の心をうった。それがラヴレンチという男が闇深き裏社会に入れられたきっかけであり、彼がこうした悪行を繰り返すきっかけでもある。

“機械天使の物語”は、いったいこの国に生きるだれのために唄われたのか。それは深夜にまで、おぼろげな意識の中、ジルが眠りにつくまでつづけられた。深い夜の沈黙と、見張り番をしているラヴレンチとともに、語りははじめられた。ケヴィンはラヴレンチに与えられた整備の一式をもとに、自分の右手のサイボーグの腕を自分でメンテナンスを施していた。


 「少年、君には、私も、カイという青年も救う事はできないだろう」


 ケヴィンの心はきまっていた。すでにここにきてから、彼に与えられた信頼は形として現れていた。彼は、ラヴレンチはやはり、信念を持つ存在だった。その判断は何にも勝るものだ。それらは形だけのものや、表だけの事実によって、全てを図りにかけて、人を裁くような態度とは似て非なるものだった。


 「少年、私は少年の中に私をみた、君の中には一部私の中の本心がある、それはかつて、私ののっとられた村で、村人が私に向けてみせた、怒りのこもった目とは似て非なるものだった」

 ラヴレンチは、洞穴の右にほられたケヴィンと、その奥の牢屋で眠る女性のために、ある昔話をつづけた。ケヴィンはそれを黙って聞いていた。彼の村、ドグ村の話だった。

 「彼らは、彼らは罰を欲した。新しくなる世界の中で、刷新される支配の中で、他人に罰を与え、それによって他人がか悪い事にだけ期待した。自分は変わらず、むしろ支配に脆弱になっていくなかで、自分では何もかわらず、また手を貸さないでおいて、私に変化を求めたのだ。彼らは人を裁くことしかできなかった。私は、私以外に、本当に物事が変化する期待を預ける相手がいなかった。私は期待したのだ。私が変われば、すべてが変わるという事に、しかし不条理にも人は人を裁くままだった。だから私は、それを見下し、乗り越えなくてはいけなくなったのだ。」

 「何があったのですか?」

 ケヴィンが尋ねると、病んだ老人のような咳払いをして、相手のラヴレンチは、ひざにてをおいて、肩をすくめ、こう続けた。

 「私は、私が変わればすべてが変わるとおもった、だから私の味方となる人間を探そうとした、けれど皆臆病でいて、しかし、彼らの賞罰の対象となる存在を探していた、私は、そうしたものの見方を変えるための資料を欲した、けれど彼らは一様に、のっとられた村の支配に従うだけだった、私は内面が私を改善するという期待を、そのたびに裏切られてしまった、人は皆、病んでいた、だから私に期待したのだ」


 ある村、ドグに起こったこと、ケヴィンはそれを自分の頭の中で整理した。整理する限り彼の言い分の中で、彼の存在が邪魔をして、物ごとの実態がみえてこない。そうだ、彼は思考を整理する事になれていない、まるでその村におこった悲劇を、蓋をして誰かに語る機会をまっていたようだ。


 「その村での生活は、本来は豊かなものだったのだ、変わってしまったのは、別の統治者が現れたからだ、本来の当事者は、私の血縁のものだった、これには、段階が必要だ、追って話そう、まずは、私の幼少時代のことからだ」


 そういって、数日前にソスランに聞かせたように、ラヴレンチは少年に、過去の話をきかせた。

ケヴィンには、彼の語りだし、それどころではなく、彼に語るときの親、祖父、教師、大人たちのいいたいことの概要はなんとなく頭にはいってくるように、予測できるようになっていた。意識したのではなく、それは彼本来の素質で、それ以上でも以下でもなかった。しかし彼の臆病さは、その能力をもてあましているところにあった、持て余しているあげく、それが現実に確からしい筋道をたどるまでは実感できないところに彼の不幸はあった。その中で、それまでにかたられた物語りの中に女性の影をみた。彼の幼馴染である、ミシャという存在だ。彼ラヴレンチにとって、おかしなことだが漠然に確かに、それはカイにおける、エメ、ジルという存在に他ならないと感じられたのだった。それは不吉な気配だった。悲劇の気配だった。

 その少年時代に想いをはせるときに、ケヴィンの心をえぐる痛みがあったのは、彼だけがしっている。

なぜならケヴィンが助かったところで、彼の代わりに犠牲になる少年がいる事を、彼は察していたからだ。 

  「かつて、失われた文明があった。それはパンドラの片隅で、自然生活にまぎれ、動植物とともに昼夜をともにしていた民族が住んでいたその民族は、“異国の人”に特別な権限をあたえていた。それは、“玉座につく権限”であり、“王の首を取る権限”だった、それは、ある秘密がかんけいしていた。この村の信仰は、すべて“ある物語”を基準にして、それを抽象的に表現したものにすぎなかったからだ、 “ピエロ”は“仮面をつけた踊り子”をしめした。それは村がうまくやっていく手段であった。村は自らが自らに課したしきたりの、犠牲になったのだ、我々の……ドグ村は、だから私の後悔は、私の身内を守れなかったという事実にしか存在しない」


 いつしか洞窟の奥で、小さな丸太に腰かけた相手は、両腕のきしみ、冷え、痛みを訴えるように両肩を両手のさすった。その合図が何だか、ケヴィンには分かるような気がした、わかったようなきになっていたのだ。彼が話を続けるまでは。


 「ある時期のことだ、ドグ村には例のごとく蛇仮面をつけて、村長がいた、ある時期の村長には息子がおらず、娘がそだった、そこで村長は、息子を遠くの親戚からとった、それはパンドラで生きる人間だった、息子と村長ははじめこそ仲がよかったが、徐々に軋轢がうまれはじめた、それは“ある女性”をうしなってから起きた事だ。村長には孫がいた。それが……私だ、失われたのは、私の母だった、家族を失う事が、私の世界、村の破壊とつながっているとは、その時は考えもしなかった、私はまだ、無知だったのかもしれれない」


 「それが、貴方の話した“村の変化”とかかわりがあるのですね?新しい権力の誕生、権力の転覆など、そうした変化のもととなる事があったのですか?」


 「私の村は、簡潔にいえば、村長ではなく、息子にのっとられ、息子のいいようにもてあそばれたのだ

、つまり私の父こそが、ドグ村を壊した主犯だよ」

 ケヴィンの回答に答えなかったが、もはやケヴィンのものわかりのよさは、彼も、ラヴレンチもわきまえていた、しとしとと雨の音が聞こえる、午前3時にもなって、洞窟のそとではあめがふりはじめたのだ。

ただでさえ湿気が多く、かび臭い洞穴の中では、ケヴィンだけではなく、ジルもうなされていた。気持ちが悪かった。ただラヴレンチだけは、両掌を痛みのかわりにだきしめていた。

 「次期村長といわれていた村長の息子、つまり遠い国の婿は、村長の死をまたずして、権威を欲していた、軋轢はさらに増え、別の村から新しい人間が仲介に入るまで続いた、ユアンという新しい人間が、仲介にはいるまで……ユアンは、父の相談役だった、彼が父をたぶらかして、私が知らないところで、祖父とその周辺の派閥と、父を、争わせていた、だから村長はいれかわり、父が支配する世界になった」

 「あなたは、それに歯向かったのですか?」

 「歯向かおうとしたさ、しかし、完全に歯向かうには、時が必要だった、私はいくつもの犠牲を必要としたさ、大事な人間さえも犠牲にした、村は、いつしか私の支配を恐れ、私はその村をさった、やがて村の崩壊をしったのは、何年もあと、私が地下闘技場にはいってからのことだ」

 そこでケヴィンは、新しい会話の糸口に手を伸ばした。しとしととした掘らあなの廊下は、こけや甲虫などの薄気味悪い景色でびっしりとうまっている。

 「地下闘技場?」

 ラヴレンチの脳裏に思い浮かべられるのは、かつてどこかの国で行われた殺し合いの拳闘のような、貴族たちに鼻で笑われののしられ、息を殺して命を奪い合う、自らの宿命じみた泥臭くも生命に縛り付けられた凄惨たる光景だ。彼らの、クローファミリーのほとんどが、その儀式の生残りである。それを拾われ、マフィアとしてしたてあげられ、やがて烏合の衆の人々がこうしてクローファミリーを象った。


 「私はそこで拾われたのだ、スラム街と、貴族たちの遊びだよ、私はそこで、村以外で生き延びるすべを学んだ……それは暴力であり、武術だった」

 「武術……」

 カイがみたこともない武術の練習をしているのを見た事があった。

 「私は私の武術は、そうした過去への恨みによって精錬された、簡潔にいえば、私は武術を鍛錬するうちに、いざこざに巻き込まれたのだ、しかしそうしたものは私の技をとぎすますひとつの材料にすぎなかった、ユアンは、父と手を組んで、村をのっとる策略をたくらんでいた、それらは過去や、歴史、宗教、全てを自分の中の歪んだ、憎悪にも似た愛を自分の近親者から、関係者すべてにふりまくものだった、もともと父は、祖父の事を、この村に来る前から恨んでいた、それは血筋に関するものではない、父は恵まれたすべてのものを恨んでいたのだ」

 勢いよく話す彼は、相手の同意をまたなかった、ケヴィンははじめて、彼の凶暴さをしった。なんどもうなされるジルは、そろそろ起きようかというほどに、彼の言葉に相槌をうった。

 「父はまず、親戚の人間だと話したがもともと彼は器量が悪く、さまざまな障害を抱えていた。それは教育にも、知性にも感情にも歪みを抱えていた。父の家族や父のもといたくには、そうしたものは恥だった。だから恥ていたのだ、恥ていることは、恥をもたぬものへの恨みでもある、父は自分の中にこその村の古くからの教えや宗教を思い描き、それと異なる部分を排除していき、それを村におしつけた。それは長い年月をかけて、ユアンとともに行われた。私はしらなかった、父がいつも仮面をつけていた理由を、ユアンがいつも仮面をつけていた理由を、それはそれまでの慣習とはちがったということを、そして私が二十歳の儀式をおえたころ、祖父の暗殺がおき、村長が死に、一瞬のうちに村は乗っ取らた。しかし、その革命の後に待っていたのは、彼に与えられたのは、罰だ、父もユアンも、そこで虚構をしったのだ」

 続けられる彼の話に時折相槌をうったり、ときにそれを拒んだりしつつ、その要領をかいつまんで理解しようとしてはいた。

 「虚構とは」

 まるで探偵のように、ケヴィンは足を組みなおしひざをかかえて、膝の上にあごをおいて、頭をかいて眉間にしわをよせて物を考えるしぐさをとった。しかしうつむくラヴレンチに、少年ケヴィンのそのわざとらしい媚びた、へつらったしぐさは視界の中にはいってこなかった。

 「虚構だよ、彼が知ったこと、それはその村の歴史が、パンドラの歴史より短かったってことだ、彼はそこから、完全な、自分の理想の自分の支配と宗教による、その村の改革をたくらみ、それは実現した」

 「しかし、話しを聞いていると不思議です、あなたの父によって、その“首長や王を殺す”ようなことがおきても、そんな簡単に大勢の人間が変わるものですか?」

 ラヴレンチは、両腕を力づよくだきしめた。その力があまりに強く、考えなしだったので、彼の人工筋肉や外部装甲が、きしみ、ひずみをうったえるように、キィキィ、ギィギィ、キューキューと奇妙な音をあげた。

 「あわれだな、君も僕も、暴力という圧倒的な力を、武力という圧倒的な多数性の力を、まだ知らないのだ、横暴な為政者など、本当に知っているとはいえないのだ、それは一瞬なのだ、それまで普通だったものが、一瞬にして姿を変える、その村や、組織が抱えていた秩序がいっときの間にすべて覆り、崩壊への道をたどる、恐怖、その恐怖をまだ君はしらないだろう、ただひとつ、君にいえるのは、私の村が抱えていた宗教、その究極の秘められた秘密は、宝は、隠されていたものは、蛇を象り、ジンという精霊をかたどったその神話さえ、ある神話をもとにしていたことだけだ」

 「ある神話?それが、あなたの父の感じた虚構??」

 「そうだ……ある神話とは……彼らが村を支配して知ろうとしたものは、祭壇にまつられていたもの、そして村長たる祖父が隠し持っていたその村ドグの成り立ち、すべてはこの国の建国のあとにつくられた欺瞞でしかなかった。それが父を絶望させた。それは、隠されていたものは、100年近くまえに書かれた、パンドラの建国の元となった寓話。“機械天使の物語”だった、父にはそんなものは、力強い神話ではなかった、だから彼は力によって、人を支配しようとしたのだ」

 ケヴィンは息をのんだ。そうか、だからドグ村の“歴史の浅さ”に絶望した。いつかケヴィンは聞いたことがある、“機械天使の物語”はもともと、ある失われた大国のプロパカンダだったのではないか、という噂について、それは終戦を迎えたあとのこの世界にとっては救いだったけれど、何者がかいたかもわからない、ただ“サイボーグ化技術の良い部分”を描いた、童話にすぎなかったということを、彼は、父は、絶望した。なぜなら世界は一度、大戦で滅びたし、そのせいで過去の歴史さえ、今生きる人々は、その片鱗ほどしか、味わう事はできていないのだ。

 それだけでは、それだけの科学技術や文明では、彼の父は救えなかった。だから彼の父は、ドグという村を滅ぼしたのだろう、その概略は、ケヴィン少年は頭で、その日のうちに理解してしまった。





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