90 お着替え
不動産屋から飛び出してダッシュすること百メートル。正直そこまで走る必要などなかったのだが、ついつい勢いで走ってしまった。しかもウルルの手を掴んでダッシュ。まるで恋人同士の逃避行ではないか。しかも今は走っている状態なわけで、走っているということはその振動によりきっとウルルのおっぱいは激しく揺れているわけで……。俺は視線をウルルの方……主にウルルの胸部の方へと向けようとしてあることに気が付き足を止めた。
「あれ?」
俺の手が軽い。俺が掴んでいたはずのウルルの手がそこにはなかった。それどころかウルルの姿自体が見当たらなかった。
――まさか!? 迷子!? いかん、いかんぞ。あの純真なウルルのことだ、変な男に騙されてあんなことやこんなことになりかねない!!
嫌な妄想ばかりが俺の脳裏を過る。あの純真純朴な笑顔を曇らせてはいけない。それはきっと全人類男子の総意に間違いない。俺は五感どころか第六感、さらには第七感を総動員してウルルを捜索を開始した。
捜索は困難を極め……なかった。なんと、たったの、たったの五秒で見つけることが出来たのだ。拍子抜けだった。ウルルはしゃがみ込んですぐ近くの洋服店のショーウィンドウを食い入るように見つめていただけだったのだ。
「おいおい、急にいなくなるからビックリしたじゃないか」
俺がウルルに声をかけても、ウルルは返事をしなかった。あれれ、聞こえていないのだろうか?
「おーい!」
俺は音量をアップさせて声をかけた。それだと言うのにまたしてもウルルは返事をせずにただひたすらにショーウィンドウを見つめ続けている。まさか、まさか無視をされている? 俺の先程の不動産屋での行動があまりにも不甲斐なかったから愛想を尽かされてしまったのか!?
『はぁぁ、もっと頼りになる人やとおもてたのに、とんだ期待はずれやわぁ〜。そんな人とはもう口きいたらへん!』
――そんな事を思われてしまっているのだろうかァァァァ!! それは嫌だ! 精神的ショックで今にもゲロを吐いてしまいそうだ。よぉし、こうなったらあの不動産屋の親父をあんなことやこんなことにしてやって無理矢理にでもアパートの契約を……
と、俺が腕をまくり鼻息を荒くして先程の不動産屋に殴り込みをかけようとした刹那。
「ええなぁ〜。かわええなぁ〜。こんなお洋服着てみたいわぁ〜」
と、ウルルがウットリとした声でつぶやいた。
どうやらウルルは洋服に見惚れていただけで、別に俺に失望して無視していたわけではなかったのだ。良かった。本当に良かった。もう少しで俺は不動産屋にあんなことやこんなことをして犯罪者へと堕ちるところだった。
「ついついお洋服に見惚れてもうてたわ。住むところ探しに行かないかへんのに、ごめんなー」
ウルルは名残惜しそうにショーウィンドウから視線を外すと、立ち上がり俺の腕の裾を掴んで歩きだす。だが、前に進めないでいた。それもそのはず、俺が歩こうとしていないからだ。
まるでトランペットに憧れる黒人少年のようにショーウィンドウを見つめるウルルを放っておけるわけなもなく。
「服、欲しいんだろ? 見ていこうぜ」
俺はウルルの腕を反対方向に引っ張り洋服店の中に誘う。
「ええの?」
そう訪ねるウルルの目の中には星を幾つもきらめかせていた。
女物の洋服屋というものは基本男一人で入るものではない。それ故に、俺はこういう店にはとても不慣れである。いや、こんな俺でも一応彼女は居たわけなのだが、その彼女が偏屈変態女の神宴久遠では、こういう店に入ることは無かったのだ。
しかし、そんな俺以上にウルルは不慣れなようで、緊張のあまりか足元がプルプルと震えていた。動きもどことなくロボットのようにギクシャクしている。
「もしかして、地下帝国にはこういうお店はなかったりするのか?」
「うん! 全然ないよー。この服ももろたやつやしー。これしか無いから、ずーっと着てるんやよー」
ウルルはパーカーの袖口を引っ張ってみせる。
なるほど、こんなサイズが全く合っていないブカブカのパーカーを着ている謎が溶けた。似合っていないわけではないのだが、よほど長い間着続けていたせいでかなりボロボロになっている。
「よし! なら、服を買ってやる! 好きなのを選べ!」
「ええの? 本当にええの?」
「おう! 男に二言はない!」
嘘である。モチのロンで嘘である。俺に二言どころか三言、四言もありまくるのだが、ここはそういう事にしておく。
「えっとな、それやったらな、うち洋服のことようわからんから、似合いそうなのを選んで欲しいんやけどぉ……」
ウルルはフードからこぼれている赤い髪を毛先をいじりながら、少し目線を外して恥ずかしげに言う。
「俺が選んでいいのか?」
「うん!」
ウルルは元気よく頷いた。
「わ、わかった。まかせとけよ!」
俺は胸をドンと叩いて見せた。自信満々のポーズである。そして勿論嘘である。自信などあるはずがない。女物の服を見立てるんなんて出来るはずがない。だが、やるしか無い。やるしかないのである。この笑顔を曇らせないためには俺はすべての知識を総動員してウルルに似合う服を選ばなければならないのだ。
「うぉぉぉぉぉ!」
俺は奇声を上げながら店内を所狭しと走り回った。店員から白い目をされてもお構いなしだった。
そして、俺がチョイスしたのは……。
「これとこれでどうだろうか!」
走り回って戻ってきた俺は、まだ息が整わないままチョイスしてきた服をウルルに押し付ける。ウルルはまるで大事な宝物を渡されたかのように大事そうにそれを受け取る。
「ご試着なさいますか?」
唐突に背後から女の店員に声をかけられた。どうやら、俺の奇行のせいで店員に目をつけられていたようである。まぁ無理もないだろうう、血走った目をしながらハァハァと息を荒げて女物の洋服を物色していたのだ、通報されなかっただけマシと言ったところだろう。
俺とウルルは店員に導かれるまま試着ルームへと向かう。
「うち着てみるわー」
ウルルは試着室に入り、カーテンレールを閉めようとして手を止めた。
「ちゃんと、待っててな?」
首だけを外に出して、少し不安げに言う。
「何処にも行かねぇよ」
俺の言葉に安心したのか、ウルルは笑顔に戻って試着ルームへと入っていった。
ガサゴソという音が一枚の布切れ越しに聞こえてくる。この中でウルルは服を脱いでいるわけなのである。いかん、いかん、想像してはいけない。またしても暗黒面に堕ちてしまう。
「お若い彼女さんですねー」
女店員が話を振ってくる。
ここはどう答えるべきなのか? ウルルは彼女ではない。勿論子供でもなければ、妹でもない、親戚ですらもない。かと言って見ず知らずの女の子ですと正直に答えてしまっては、またしても通報される可能性が出てきてしまう。
「あははははは」
俺は笑ってごまかすという選択をした。
「うんと、これをこうして、あれ? これはこれでええんかなぁ? よし、これでええかなぁ?」
試着ルームの中で服を相手に悪戦苦闘しているウルルの声が聞こえてくる。今までパーカーしか着てこなかったわけなのだから、苦戦するのも無理はない。
そして悪戦苦闘すること約数分間。
「こ、これでええかなぁ?」
遂に魅惑の扉は開き、着替えを終えたウルルが姿を表した。




