第八話「山の精霊は、怒っていなかった」
八話目です。山編の二話目。
今回は山の精霊が出てきます。森の精霊とは、少し性質が違います。水の精霊は小さくて弱っていました。山の精霊は、大きくて、古くて、でも同じように傷ついている。
ゴルという人物の別の側面も見えてきます。
では、どうぞ。
朝、目が覚めたら、ゴルがもういなかった。
部屋の外に出たら、集落の広場に岩人たちが集まっていた。何かを話し合っている様子だった。私を見て、少し話が止まった。
「おはようございます」
「おはよう」と、誰かが言った。昨日より、少し警戒が薄れた気がした。
シロが私の横を歩いた。岩人の子どもが、シロに近づこうとして、親に止められた。
「触っていいですよ」と私は言った。
子どもが、おそるおそるシロに近づいた。シロは動かなかった。子どもの手がシロの背中に触れた。シロがゆっくり尻尾を振った。
子どもが振り返って、嬉しそうな顔をした。
それを見ていた親が、少し表情を緩めた。
◇
ゴルは集落の上の方にいた。
岩の上に立って、山を見ていた。
私が近づいても、振り返らなかった。
「何を見ているんですか」
「水の流れを見ている。毎朝、ここから見る」
並んで、山を見た。
朝の光が、山肌を横から照らしていた。岩の色が、場所によって違った。濡れているところは暗く、乾いているところは白っぽく見えた。
「昔はどうでしたか」
「暗い部分が、もっと多かった。今は白い部分の方が多い」
視覚的にも分かるくらい、乾いていた。
「今日は、どこに行きますか」
「山の中腹に、古い泉がある。そこに連れていく」
「古い泉」
「岩人にとって、大事な場所だ。水が出なくなってから、二年になる」
「二年前に止まったんですか」
「急に止まった。前触れもなかった。突然、水が出なくなった」
「その泉の周辺で、何かありましたか。二年前の前後に」
ゴルが少し間を置いた。
「山の南側で、大きな採掘が始まった。人間が、山の石を切り出している。二年半前から」
「採掘が、地下の水の流れを変えた可能性があります」
「私もそう思った。しかし、証明できない」
「証明しなくても、つながっているのは分かります」
ゴルが私を見た。
「お前には見えるのか。そういうつながりが」
「感じる、の方が近いです。見えるというより」
ゴルが山の方に目を戻した。
「精霊には、見えるだろうか」
「山の精霊に聞けますか」
「聞けるかどうか、分からない。ただ、行ってみることはできる」
◇
中腹への道は、急だった。
岩を削った段が続いていた。ゴルの歩幅に合わせると、私には一段が大きすぎた。シロは問題なかった。四本足は便利だと思った。
一時間ほど登って、開けた場所に出た。
岩の窪みがあった。直径で言うと、三メートルくらい。深さは分からなかった。岩に囲まれた、丸い窪み。
底は乾いていた。
ひびが入った泥が、干上がった池のように広がっていた。水の痕跡が、岩の側面に残っていた。以前はここまで水があった、という跡。今の底面より、かなり高い位置に線がついていた。
「ここが泉か」
「そうだ。私の祖父の祖父の時代から、ここに水があったと記録されている」
「それが二年前に止まった」
「ああ」
しゃがんで、乾いた底に手を当てた。
乾いていたが、深いところに何かある感じがした。水の気配というか、水があったときの記憶のようなものが、岩に残っている感じ。
「水は、完全に消えたわけじゃないです。どこかで流れが変わっている。水自体は、まだ地下にある」
「取り戻せるか」
「地下の流れを変えるのは、私には難しい。でも、流れがどこに行ったか、感じ取れるかもしれない」
目を閉じた。
手のひらから、力を少し出した。地面の中に、探るように送り込んだ。
水の流れが、薄く感じられた。
深いところを、斜めに流れていた。昔はここに向かって集まっていたのが、今は別の方向に向かっている。採掘で岩が割れて、流れが変わったのだろう。新しい割れ目の方が、抵抗が少なかったから、そちらに流れるようになった。
「南の方に流れが逃げています。採掘した場所の方向に」
「戻せるか」
「この泉に戻すのは、今の私には無理です。採掘の割れ目を塞がない限り、流れは戻らない」
ゴルが黙った。
「ただ」と私は続けた。「採掘をしている人間に、このことを伝えることはできます。採掘の場所によっては、調整できるかもしれない」
「人間が聞くか」
「聞く人間と、聞かない人間がいます。ベルクみたいな人間が向こうにもいれば、話になります」
「ベルク」
「森の調査部門の人間です。話せる人間でした」
ゴルがまた泉の底を見た。
そのとき、空気が変わった。
◇
気配を感じたのは、私とシロが同時だった。
シロが耳を立てた。
泉の周りの岩が、少し温かくなった気がした。
岩から、何かが出てきた。
大きかった。
森の精霊が手のひらサイズなら、これは人間くらいの大きさがあった。岩から滲み出るように、形が現れた。岩と同じ色をしていた。灰色で、ごつごつしていて、でも輪郭は人型だった。
目があった。
深い、暗い色の目。
森の精霊の青い目とは全然違った。古いものを見てきた目。
ゴルが、深く頭を下げた。
「山の精霊だ」と、低い声で言った。「めったに姿を現さない」
精霊が、私を見た。
怒った目ではなかった。
悲しいとも、怒っているとも違う。ただ、疲れた目だった。長い間、疲れ続けてきた目。
「こんにちは」
精霊が動いた。
ゆっくりと、泉の底に手を置いた。大きな手だった。岩みたいに硬そうな手。
その手が、底のひびに触れた。
何かが伝わってきた。
言葉ではなかった。でも、意味が分かった。
長い時間、ここにいた。水があった頃から、ここにいた。水が来なくなって、待っていた。戻ってくると思っていた。でも戻らなかった。もう長い。疲れた。
「待っていてくれたんですね」
精霊が、私を見た。
「水を戻すことは、今すぐはできないです。でも、原因は分かりました。原因が分かれば、解決できるかもしれない」
精霊が動かなかった。
「約束はできないです。でも、やってみます」
シロが精霊に近づいた。
昨日、池の精霊を驚かせたのと同じように、鼻を近づけた。
山の精霊は、驚かなかった。
シロの鼻を、大きな手でそっと触れた。
シロが尻尾を振った。
精霊が、また私を見た。
今度は、少しだけ目が違った。疲れは変わらなかったが、その奥に、何か小さなものが灯った気がした。
それから、精霊はゆっくりと岩の中に戻っていった。溶けるように消えた。
空気が、元に戻った。
ゴルが顔を上げた。
「精霊が人間に触れたのを、初めて見た」
「シロに触れたんですよ」
「お前の連れに触れた。同じことだ」
「そうですかね」
「そうだ」ゴルは短く言った。「お前のことを、認めたということだ」
◇
泉から下りながら、ゴルが言った。
「採掘の場所について、調べる方法がある」
「どんな方法ですか」
「山の南側に、岩人の古い記録がある。どこで採掘が行われているか、山の構造がどうなっているか。それを調べれば、流れがどこに行ったか、もう少し正確に分かるかもしれない」
「見せてもらえますか」
「それが目的で、お前を連れてきた」
「最初からそのつもりだったんですか」
「ああ」
「最初に言ってくれれば」
「お前が、信用できるか確認したかった」
「確認できましたか」
ゴルが少し間を置いた。
「精霊が認めたなら、私が何か言う必要はない」
それは、認めてくれた、ということだと思った。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。泉の水が戻れば、それで十分だ」
シロが私の横を歩いた。
山の風が吹いた。
さっきより、少し湿っている気がした。気のせいかもしれなかった。でも、そういう気がした。
◇
集落に戻ったら、夕食の準備が始まっていた。
子どもたちがシロを取り囲んでいた。シロは嫌がらずにいた。昨日より、子どもたちの警戒が薄れていた。
ゴルの家に入ったら、ゴルが棚から古い本を取り出した。
分厚くて、重くて、表紙が岩みたいに硬かった。
「これが記録だ。読めるか」
開いてみた。
文字は読めた。転生補正というやつで、この世界の文字は何でも読めるらしかった。
図が多かった。山の断面図、水の流れを示した線、岩の種類を示した記号。岩人が長い時間をかけて記録した、山の記憶。
「読めます」
「今夜、見ていてくれ。明日、一緒に見る」
「分かりました」
ゴルが食事を持ってきた。
また肉だった。今日も多かった。
「毎日これですか」
「山では、これが一番手に入る」
「美味しいので、文句はないです」
ゴルが、少し目を細めた。笑ったのかもしれなかった。岩みたいな顔が、ほんの少し動いた。
夜、古い記録を読んだ。
シロが隣で丸くなった。
山の記録は、長かった。何百年分もの記録が、丁寧に書いてあった。水の流れがどこにあったか。どこで湧いていたか。どこで地面に沈んでいったか。
読みながら、今の山の感触を重ねた。
泉の水がどこに行ったか、少しずつ見えてきた気がした。
全部は分からなかった。でも、方向は分かった。
明日、ゴルと話せば、もう少しはっきりするかもしれない。
夜の山は静かだった。
風の音だけが、岩の間を通り抜けていた。
八話目、書きました。
山の精霊が登場しました。手のひらサイズで弱っていた池の精霊とは全然違う、大きくて古い存在です。でも同じように傷ついていた。傷の大きさが違うだけで、困っていることは同じ。
「疲れた目」という描写は、長い時間を生きてきた存在が、じわじわと失われていくのを見続けてきた目のつもりです。怒りより、疲労の方が深いところから来ることがある。
ゴルが「信用できるか確認したかった」と言う場面。岩人は無口で直接的ですが、行動で確認する文化を持っています。言葉より、精霊が認めたかどうかの方が、ゴルには意味があった。
泉の水を戻す話は、次話で少し進みます。記録と現状を照らし合わせて、何ができるか考える話になります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




