第七話「山は、森より正直だった」
七話目です。山編に入ります。
森と山では、自然の見え方が違います。森は覆われていて、湿っていて、生き物の気配が濃い。山は開けていて、乾いていて、むき出しです。
凪の目には、山の傷がどう見えるか。そして岩人のゴルという人物が、少し違う角度から見えてくる話です。
では、どうぞ。
山への道は、思ったより険しかった。
森を抜けて、岩の多い斜面に入ったあたりから、足元が変わった。柔らかい土から、固い岩と砂利に。木の根が張り出した道から、岩を削って作ったような細い道に。
ゴルはよく知っている道を、当然のように歩いた。
私はシロと一緒に、少し遅れながらついていった。
護衛の二人は無口だった。私を警戒しているわけではなさそうだったが、話しかけてくる感じでもなかった。ゴルもあまり話さなかった。歩きながら話す習慣がないのかもしれなかった。
静かな道だった。
風の音と、足音と、遠くで鳥が鳴く声だけだった。
◇
二時間ほど歩いたところで、最初の異変に気づいた。
岩肌に、白い筋が走っていた。
「これは何ですか」
ゴルが振り返った。
「塩だ」
「塩」
「地下水が蒸発して、塩だけ残った。水が少なくなった証拠だ」
岩肌に手を当てた。
乾いていた。当たり前だが、乾き方がおかしかった。表面だけじゃなくて、奥の方まで乾いている感じがした。スポンジから水を絞り切ったような、そういう乾き方。
「ここ、昔は違いましたか」
「私が子どもの頃は、この岩に苔が生えていた。常に湿っていた」
「苔が水を蓄えていたんですね。苔がなくなって、岩が乾いた」
「そうだ」
「苔がなくなった原因は」
ゴルが少し黙った。
「人間が、この山の下を通る街道を作ったのが三十年前だ。それから、旅人が増えた。火を使う者が増えた。山火事が二度あった。それで、この斜面の植物がかなり減った」
「山火事のあとに、植え直しはしましたか」
「岩人は農耕をしない。植えるという発想がなかった」
そうか、と思った。
岩人は、自然があるものを使う文化なのだろう。植えて育てるのではなく、あるものと共に生きる。それ自体は間違っていない。ただ、一度大きく失うと、自然に戻るのに時間がかかりすぎる。
「少し試していいですか」
「何をする」
「苔を増やせるか、やってみます」
ゴルが黙って頷いた。
岩肌に手を当てて、力を込めた。
今回は、森でやるときと少し感覚が違った。土に水を送り込むのではなく、岩の表面に薄い膜のようなものを作る感じ。水を保つための何かを。
一分くらいして。
岩肌に、うっすら緑のものが出てきた。
苔だった。
小さな小さな苔が、岩の表面に点々と現れた。
ゴルが岩肌に顔を近づけた。護衛の二人も覗き込んだ。
「生えた」と護衛の一人が短く言った。初めて声を聞いた。
「これが広がれば、水が保てるようになります。ただ、広がるのに時間がかかります」
「どのくらいだ」
「早くて数か月。しっかり定着するには数年かかるかもしれない」
「数年」
「すぐには変わらないです。でも、始めないと始まらない」
ゴルがまた岩肌を見た。
「この先にも、同じ状態の岩が続く」
「全部は無理ですが、できる範囲でやります」
「一人でか」
「今日は一人ですが、やり方を覚えてもらえれば、誰かに続けてもらえる」
ゴルがこちらを見た。
「岩人に、それができると思うか」
「できるかどうかは、やってみないと分からないです」
ゴルが短く息を吐いた。否定でも肯定でもない音だった。
◇
さらに一時間歩いて、岩人の集落に着いた。
森人の集落とは、全然違った。
岩を削って作った家が、山の斜面に並んでいた。家というより、岩の中に掘った空間、という感じ。入口に木の扉がついていて、煙突から煙が出ていた。
人が出てきた。
みんな大きかった。子どもも、森人の大人くらいある。老人は、逆に少し縮んでいるような印象だった。
みんな私を見た。
好奇心と、警戒が混ざった目だった。
「人間が来た」と誰かが言った。
「転生者だ」とゴルが言った。「魔王とも呼ばれている」
「この小さいのが?」と別の誰かが言った。
「小さくてすみません」と私は言った。
笑いが起きた。少し、場が緩んだ。
◇
ゴルの家に通された。
岩を削った部屋は、思ったより広かった。天井が高くて、岩の壁に棚が作ってあって、いろいろな道具が並んでいた。
火が焚かれていて、温かかった。
食事が出てきた。肉だった。大きな塊の肉が、豪快に皿に乗っていた。森人の食事より、ずっと量が多かった。
「食べられるか」とゴルが言った。
「食べます」
思ったより、美味しかった。
シロも隣でもらって、満足そうに食べていた。
食べながら、ゴルが話した。
「この集落には、今六十人いる。百年前は三百人いた」
「減りましたね」
「山が変わった。水が減った。動物が減った。食べ物が減った。それに合わせて、人も減った」
「人間の影響ですか」
「半分は人間、半分は時間だ」ゴルは静かに言った。「山はもともと、少しずつ変わっていく。人間が来る前から、ゆっくりと変わり続けていた。人間が来て、その速度が上がった」
「ゆっくりなら適応できるが、速すぎると追いつかない」
「そうだ。お前は分かるやつだな」
「別の世界の話を知っているだけです」
「その世界でも同じことが起きたのか」
「起きています。今も」
ゴルが黙った。
火が揺れた。
「止まらないのか」とゴルは言った。
「今のところ、止まっていないです」
「なぜだ」
「知っているのに、変えられない人が多いから。あるいは、知っていても、自分一人では変えられないと思っているから」
「変えようとしている人間はいないのか」
「います。でも少ない。そして、変えようとしている人間の声は、なかなか届かない」
「届かないのに、なぜ続けるんだ」
私は少し考えた。
「届かなくても、やらないよりましだから、じゃないですかね。あと、全部変えなくても、一部変われば違う。ゼロかイチかじゃなくて、〇・一でも〇・二でも、ないよりある方がいい」
ゴルが火を見た。
しばらく、無言だった。
「お前の世界は、まだある」と、やっとゴルは言った。
「あります」
「滅びていない」
「滅びていないです。ぎりぎりのところで、まだある」
「ぎりぎりか」ゴルは短く言った。「その世界の人間は、ぎりぎりだと気づいているのか」
「気づいている人と、気づいていない人がいます。気づいていても、どうしたらいいか分からない人も多い」
「お前は、気づいていた」
「気づいていたと思います。でも、力がなかった。こっちに来て、初めて何かができるようになった」
ゴルが私を見た。
長い、静かな視線だった。
「お前の世界は、助かると思うか」
一番正直に答えようとした。
「分からないです。でも、諦めてはいないです」
◇
夜、ゴルに案内された部屋で横になった。
シロが隣で丸くなった。
岩の壁は、冷たかったが、不思議と落ち着いた。森の小屋とは違う静けさがあった。山の静けさ。深い岩の静けさ。
天井を見ながら、ゴルの質問を思い返した。
お前の世界は、助かると思うか。
分からない、と答えた。それは本当だった。
でも諦めていない、とも答えた。それも本当だった。
この世界も、助かるかどうか、分からない。でも、今日、岩肌に苔が生えた。それは本当のことだった。
数か月後に広がるかもしれない。広がらないかもしれない。数年後に定着するかもしれない。しないかもしれない。
でも、今日、生えた。
それだけは、確かだった。
シロが寝息を立て始めた。
私も目を閉じた。
明日も、山を歩く。
直せるものが、まだある気がした。
七話目、書きました。山編の一話目です。
ゴルとの夜の会話が、この話の核になりました。「お前の世界は助かると思うか」という問いは、かなり直球の問いです。凪は正直に答えます。分からない、でも諦めていない。それが凪の立ち位置です。
岩肌の苔のシーンは、森とは違うアプローチでした。土に水を送り込むのではなく、岩の表面に水を保つ仕組みを作る。同じ「直す」行為でも、場所によってやり方が違う。それは現実の自然再生でも同じです。
岩人の文化として「植えるという発想がなかった」という部分は、文化による自然との関わり方の違いを表しています。良い悪いではなく、違う。その違いが、環境が変わったときに生存の差になる。
次話も山編が続きます。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




