第二十一話「山を下りる日、レナが見送りに来なかった」
二十一話目です。
山を去る話です。去り際というのは、いつも何かを教えてくれます。来たときには分からなかったことが、去るときに分かることがある。
レナが見送りに来なかった理由が、この話の核です。
では、どうぞ。
山を去る日の朝、空が曇っていた。
雨になるかもしれなかった。
荷物をまとめた。都のときと同じで、大したものはなかった。岩人の集落でもらった干し肉と、ゴルが持たせてくれた山の地図と、道中の水。
小屋の外に出たら、ゴルが待っていた。
「今日、出るか」
「はい。森の集落に戻ります」
「天気が崩れるかもしれない」
「山を下りる前に崩れなければ、大丈夫です」
ゴルが空を見た。
「午後には崩れるかもしれない。午前中に下りた方がいい」
「分かりました」
シロが、すでに出発する気でいた。
昨日から、少し落ち着かない様子だった。森の匂いが、恋しくなってきたのかもしれなかった。
「シロ、今日で帰れるぞ」
シロが尻尾を振った。
◇
出発前に、集落の人たちが広場に集まった。
岩人たちは、あまり感情を表に出さない人が多かった。でも、みんな出てきてくれた。
子どもたちが、シロの周りに集まった。シロが、子どもたちに舐められていた。嫌がらなかった。
「また来ます」と私は言った。
「待っている」と、何人かが言った。
ゴルが、山の地図を私に渡した。
「次に来たとき、東側がどう変わったか、確認してくれ」
「確認します」
「レナが、続ける」
「続けてくれると思います」
「あいつは、芯が強い」とゴルは言った。「最初は、岩に触るだけでも戸惑っていた。今は、自分で問題を見つけて、自分で動く」
「ゴルさんが、機会を与えてくれたからだと思います」
「お前が来たから、機会が生まれた」
「きっかけを作っただけです」
ゴルが、また短く笑った。
「本当に、いつもそう言うな」
「本当のことなので」
◇
出発しようとしたとき、気づいた。
レナがいなかった。
集まった人たちの中に、レナがいなかった。
「ゴルさん、レナさんは」
「東側にいる」
「今朝から」
「ああ。夜明け前から、行っていた」
「見送りには来ないんですか」
「来ない、と言っていた」
少し驚いた。
ゴルが、少し目を細めた。
「あいつなりの、送り方だ」
「送り方」
「お前が、続けていくことに意味があると言った。見送るより、続けることを選んだということだ」
私は、少し黙った。
「そうですか」
「気にするな」
「気にしていないです。ただ、少し嬉しかった」
ゴルが頷いた。
「では、行け」
「行きます」
「また来い」
「来ます」
◇
山を下り始めてから、一時間ほど経ったとき、後ろから声がかかった。
「待って」
振り返ったら、レナが走ってきた。
息を切らしていた。
「来たじゃないですか」
「東側を見てから、やっぱり来た」とレナは言った。「少し迷ったけど」
「迷ったんですか」
「見送るより、続けることを選んだ方が、ナギが言ってたことに近いと思って。でも、やっぱり来た」
「どっちにしたんですか」
「両方した」とレナは言った。「夜明けから東側に行って、作業して、それから走ってきた」
「無理しなくてよかったのに」
「無理じゃない。走るのは得意だ」
レナが、荷物の中から何かを取り出した。
小さな石だった。
山の岩と同じ色の、灰色の石。でも、形が丸くて、表面が滑らかだった。
「これ、東側の斜面で見つけた。川に磨かれた石が、斜面の岩の間にあった」
「川の石が、斜面に」
「昔、川が流れていた場所かもしれない。今は川がないけど、こういう石が残っていた」
私は、その石を受け取った。
「これが意味すること、分かりますか」と私は聞いた。
「昔、水があった証拠。つまり、条件が整えば、また水が流れるかもしれないってこと」
「正解です」
「だから、やる価値があると思った」とレナは言った。「持っていってくれ。また来たとき、その石を持ってきてくれれば、どのくらい変わったか話し合える」
「次に来るとき、持ってきます」
「約束」
「します」
レナが、少し笑った。
「ナギ、最近、ちゃんと約束するようになった」
「練習した」
「ルナって子に、でしょ。ゴルから聞いた」
「そうです」
「森人の子どもに練習させてもらうって、面白いな」と、レナも言った。
「よく笑われます、それ」
「笑ってない。いいことだと思う。誰に教わるかは、関係ない」
レナが、手を差し出した。
「じゃあ、また」
握手した。
レナの手は、岩みたいに硬かった。でも、温かかった。
「また来ます」
「待ってる」
レナが、山に向かって走って戻っていった。
走り方が、来たときより速かった気がした。
毎日、東側を歩いているから、足が鍛えられたのかもしれなかった。
◇
山を下りる道で、石を見た。
灰色の、丸い石。
昔、川に磨かれた石。
今は、川のない斜面にあった。
でも、この石が証明していた。
かつて、ここに水があった。
水があった場所は、また水が来る可能性がある。
条件が整えば。
整えるために、レナたちが動いている。
三十年後、五十年後に、東側の斜面に水が流れるかどうかは、分からなかった。
でも、この石が残っていた。
それだけで、可能性があった。
シロが、横を歩いた。
「レナ、ちゃんと続けると思う」
シロが耳を動かした。
「来たときより、山が少し変わってた。レナたちのおかげで」
また耳が動いた。
「次に来るとき、もっと変わってると思う」
シロが尻尾を振った。
そうだといいな、という顔だった。
◇
山の麓に下りたとき、空が少し暗くなってきた。
雨が来る前に、森の入口まで歩きたかった。
足を速めた。
シロも速くなった。
歩きながら、今回の山での日々を思い返した。
ゴルと泉の記録を読んだ夜。
山の精霊の、疲れた目。
レナに岩に触る感覚を教えた朝。
東側の斜面で見た、岩だけの景色。
濁った川。
そして今朝、レナが走ってきて渡してくれた石。
全部が、この山で起きたことだった。
解決したことより、解決していないことの方が多かった。
泉の水は、まだ戻っていない。
東側の斜面は、まだ岩だけだ。
川は、まだ濁っている。
でも、動いている人がいた。
レナたちが、続けていた。
ゴルが、待っていた。
山の精霊が、待っていた。
それだけで、次に来る理由があった。
◇
森の入口が見えてきたとき、雨が降り始めた。
ぽつぽつと、小さな雨だった。
シロが、足を速めた。
「もうすぐだぞ」
木の下に入ったら、雨音が変わった。
葉に当たって、葉から葉へ伝わって、地面に落ちる音。
森の雨の音だった。
「帰ってきた」
シロが、嬉しそうに歩いた。
足取りが、山の中とは全然違った。
森の方が、合っているのだと思った。
私も、森の空気が好きだった。
でも、山の空気も、悪くなかった。
どちらにも、大事な場所があった。
大事な人がいた。
石を、荷物に入れた。
レナが渡してくれた、川に磨かれた石。
次に山に来るとき、持ってくる。
それまでに、東側がどう変わっているか。
考えながら歩いたら、足が速くなった。
集落まで、あとどのくらいかかるか。
ルナが待っているかもしれなかった。
クロとキョロが待っているかもしれなかった。
ガルが、食事を多めに作って待っているかもしれなかった。
帰る場所があるというのは、歩く速さを変えるものだと思った。
シロが前を走った。
今まで見た中で、一番速かった。
「そんなに急がなくていいぞ」
シロが振り返った。
急ぐ、という顔だった。
「分かった、急ごう」
一緒に走った。
森の雨の中を、二人で走った。
木の葉から水が落ちてきた。
冷たかった。
でも、気持ちよかった。
二十一話目、書きました。
レナが見送りに来なかった、という場面から始まりましたが、レナは両方しました。続けることを選んで、それでもやっぱり走ってきた。どちらかではなく、両方した。それがレナという人物の真骨頂だと思います。
川に磨かれた石を渡す場面は、書いていて一番好きだった場面です。その石が示すこと、昔ここに水があったということ、それを見つけたレナの目の確かさ。「また来たとき、その石を持ってきてくれれば、どのくらい変わったか話し合える」というレナの言葉は、次への約束を、物として残した形です。
シロが森の入口に入ったとき、足取りが変わった、という描写。動物は、自分の場所に帰るとき、全身で喜ぶ。それが、この場面を書きながら感じたことでした。
次話から、また森の集落に戻ります。ガルとルナとの再会、そしてそろそろ、この物語の少し大きな流れが動き始める予定です。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




