第二十話「山の東側に、誰も知らない問題があった」
二十話目です。区切りの話になりました。
山の東側を歩く話です。凪が、今まで見てきた中で、一番大きな問題に気づきます。すぐには解決できない問題。でも、気づかないより、気づいた方がいい。
この物語の、ここまでの流れが、少し広がる話です。
では、どうぞ。
朝、ゴルとレナと三人で、山の東側に向かった。
シロもついてきた。
東側は、初めて歩く場所だった。
集落から一時間ほど歩くと、景色が変わった。
西側や南側と違って、岩が多かった。植物が少なかった。地面が固くて、ほとんど土がなかった。岩と岩の間に、細い草が生えているだけだった。
「ここは、昔からこうですか」と私は聞いた。
「昔から、少し荒れていた」とゴルは言った。「東は、風が強い。植物が根を張りにくい」
「それだけじゃない気がします」
「どういう意味だ」
「感じてみます」
岩に手を当てた。
乾いていた。
普通の乾き方じゃなかった。表面だけじゃなくて、深いところまで乾いていた。水の気配が、ほとんどなかった。
地面に膝をついて、岩の隙間の土に触れた。
固かった。
触れた瞬間、何かが分かった。
水が来ていないのではなかった。
水は来ていた。でも、留まらなかった。
地表に水が当たって、そのまま流れ去っていた。土が固すぎて、染み込めなかった。
「土が固くて、水が染み込めない状態です」と私は言った。
「だから植物が育たないのか」とレナが言った。
「植物が育てば、根が土を柔らかくする。柔らかくなれば、水が染み込む。染み込めば、また植物が育つ。でも、最初のきっかけがないと、その循環が始まらない」
「最初のきっかけ」
「固い土を、少し柔らかくすること。それだけで、変わり始めるかもしれない」
ゴルが、周りを見た。
「広い」とゴルは言った。「この区域、集落から見て、東の斜面全体だ。かなり広い」
「一気には無理です。でも、端から少しずつ、やれます」
「時間がかかるな」
「かかります。でも、始めないと始まらない」
ゴルが頷いた。
◇
さらに東に歩いた。
一時間ほど歩いたとき、遠くに何かが見えた。
建物だった。
山の中腹より下の場所に、小さな建物がいくつか見えた。
「あれは何ですか」
「人間の街道の宿場だ。山の麓にある。最近、少し大きくなってきた」
「東の採掘場も、あのあたりですか」
「もう少し南になる。でも、近い」
「あそこから、ここまでの間に、何があります」
「特に、何もない。岩だけだ」
「岩だけ、というのが、気になります」
「気になる、というのは」
「もともと、ここに何かあったはずです。岩だけというのは、何かが失われた状態です」
ゴルが、その場所を見た。
「言われてみれば、昔の記録に、この区域に低木林があった、という記述があった」
「いつの記録ですか」
「二百年くらい前」
「二百年前に、低木林があった場所が、今は岩だけになっている」
「何が起きたのか、記録が残っていない」
私は、その方向を見た。
遠くの、岩だけの斜面。
感じてみた。
深いところに、かすかなものがあった。
水の記憶、というか、かつて水があったものの残影みたいなもの。
「ここ、相当前から、徐々に変わってきたんだと思います。急に変わったわけじゃなくて、少しずつ、少しずつ」
「何が原因だ」
「一つじゃないかもしれない。風、雨、それに、人間が街道を作ったことも関係しているかもしれない。街道ができると、雨水の流れが変わることがある」
ゴルが、麓の宿場の方向を見た。
「街道は、百五十年前にできた」
「二百年前に低木林があって、百五十年前に街道ができた。それから、少しずつ」
「植物が減って、岩になった」
「可能性として、そういう流れが考えられます」
ゴルが、しばらく黙った。
「直せるか」
「時間がかかります。かなりかかります。でも、方向は見えます」
「どのくらいかかる」
「早くて十年。本格的に変わるには、三十年から五十年かもしれない」
「長い」
「長いです。でも、今始めれば、三十年後の岩人の集落が違います」
ゴルが、再び周りを見た。
「今の集落の子どもたちが、大人になるころか」
「そうです。今の子どもたちのために、始めることができる」
ゴルが、レナを見た。
レナが、その斜面を見ていた。
「やる価値がある」とレナは言った。
ゴルが頷いた。
「そうだな」
◇
さらに歩いて、岩だけの斜面の端まで来た。
そこで、もう一つ、気になるものが見えた。
川だった。
山の東側を流れる、小さな川。
でも、川の流れが、おかしかった。
色が、少し濁っていた。
岩の色に似た、灰色がかった濁り。
「この川、いつもこういう色ですか」と私は聞いた。
「いつも、こうだ」とゴルは言った。「東の川は、濁っている」
「それ、採掘の影響かもしれないです」
「採掘の粉塵が、川に入っているということか」
「そうだと思います。採掘で出た石の粉が、雨で流れて、川に入る。それが積み重なって、川底に溜まる。川底が変わると、水草が育てない。水草がないと、小さな生き物が住めない。生き物がいないと、上の生き物も来ない」
「全部つながってるな」とレナが言った。
「つながってます」
「採掘が止まれば、改善するか」とゴルが言った。
「止まっても、すぐには改善しない。底に溜まった粉塵が、しばらく残るので。でも、止まれば、少しずつ薄まります」
「また時間がかかる」
「かかります。でも、止まらないと、時間をかけても薄まらない」
ゴルが川を見た。
「採掘停止が、早く正式に決まってほしい」
「そうですね」
「動いてくれているのか、都で」
「動いています。あとは、正式な決定を待つだけです」
ゴルが、川から目を上げた。
「お前に頼んで良かった」
「動いたのは、ベルクさんやエイラさんたちです」
「それを動かしたのは、お前だ」
「きっかけを作っただけです」
ゴルが、また短く笑った。
「お前は、いつもそう言うな」
「本当のことなので」
◇
昼過ぎ、少し高い場所に登った。
山全体が、見渡せる場所だった。
西側、南側、東側。
西側は、苔が少し広がってきていた。来たときより、緑が増えていた。
南側は、採掘場があって、岩肌が削られていた。でも、暫定停止の影響か、作業が減っていた。
東側は、岩だけの斜面が続いていた。遠くに、濁った川が光っていた。
全体として見ると、問題がよく分かった。
「山全体を見ると、東側が一番大変ですね」と私は言った。
「そうだな」とゴルは言った。「東側は、長い間、後回しにしてきた。手の届く範囲から、やってきた」
「後回しにしてきた理由は」
「難しすぎた。何から始めればいいか、分からなかった」
「今は、少し分かりますか」
「土を柔らかくすること、から始めればいいと、お前が言った」
「そうです。最初の一手が分かれば、動ける」
「最初の一手が、一番難しかった」
「分かります」
ゴルが、東側の斜面を見た。
「レナたちに、頼もうと思う」
「レナさんたちは、続けてくれると思います」
「そうだな。あいつらは、続ける」
レナが、東側の斜面を見ていた。
何かを考えている顔だった。
「ナギ」とレナが言った。
「なんですか」
「東側、何から始めればいいか、詳しく教えてくれる? 今日のうちに」
「今日、全部は説明できないかもしれないですが、基本的なことは」
「基本だけでいい。あとは、自分たちで考える」
私は、少し驚いた。
「自分たちで考える」
「前も、ナギが言ってたことを続けてたら、自分で気づくことが増えた。基本を教えてもらったら、あとは自分たちでやれると思う」
「そうですね」
「過信じゃないよ。でも、やってみないと分からない」
「やってみれば、分かります」
レナが頷いた。
「教えて」
◇
その場で、基本的なことを話した。
土を柔らかくするために、どういう植物を最初に植えれば良いか。岩の間に、どういう苔を生やせば、水が少しずつ保たれるか。どの場所から始めれば、広がりやすいか。
レナが、熱心に聞いていた。
ゴルも、黙って聞いていた。
一時間ほど話して、レナが言った。
「大体分かった」
「大体で十分です。やりながら、気づくことがある」
「そうする」
「一つだけ、注意することがあります」
「なに」
「急ぎすぎないこと。一気に全部やろうとすると、続かない。少しずつ、続けられる量でやることが大事です」
「少しずつ」
「少しずつが、一番長く続く」
レナが頷いた。
ゴルが、その様子を見ていた。
「レナ、できるか」
「やる」とレナは言った。
「できるか、と聞いた」
「やってみなきゃ、できるか分からない。やる」
ゴルが、短く笑った。
「そうだな」
◇
集落に戻る道で、ゴルが言った。
「今日、どのくらいの問題を見つけた」
「大きいものが三つ。土の問題、川の問題、東側全体の長期的な問題」
「全部、すぐには解決しない」
「しないです。でも、方向は分かった」
「方向が分かれば、動ける」
「そうです」
ゴルが少し間を置いた。
「お前を、最初に連れてきて、正解だった」
「ゴルさんが、連れてきてくれたので」
「そうだったな」とゴルは言った。「あのとき、信用できるか確認したかったと言った」
「言いましたね」
「今は、信用している」
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより、また来い」
「来ます」
「いつ」
「この山の東側が、少し変わった頃に」
「三年後か、五年後か」
「そのくらいかもしれないです。でも、来ます」
ゴルが頷いた。
「待っている」
山の夕日が、岩を赤く染めていた。
西側の苔が、その光の中で、かすかに光っていた。
来たときより、確かに緑が増えていた。
小さな変化だった。
でも、ゼロじゃなかった。
ゼロじゃないことが、続けば、いつか大きくなる。
それだけ分かれば、十分だった。
◇
その夜、一人で空を見た。
山の夜空は、都より、森より、星が多かった。
高い場所にいるから、空が近かった。
全部で、今まで見てきたものを思い返した。
森の乾いた土に、最初に水を送ったこと。
北の池で、弱っていた精霊を手に乗せたこと。
集落の外れで、ガルに「帰ってきます」と言ったこと。
山に来て、ゴルと泉の記録を読んだこと。
山の精霊の、疲れた目。
都で、十七件の問題を見つけたこと。
トウの眼鏡。
星がきれいだと知ったトウ。
保護区の書類を受け取って、泣いたガル。
精霊に好かれたルナ。
苔を続けて広げていたレナ。
全部が、つながっていた。
小さな一点が動いて、別の小さな一点が動いて、また別の一点が動く。
それが積み重なって、今の状態になっていた。
まだ、解決していないことの方が多かった。
泉の水は戻っていない。東側の斜面は、まだ岩だけだ。川は濁っている。都の木は少ない。
でも、方向は変わった。
方向が変われば、時間がかかっても、いつかは違う場所に着く。
私は、転生してから、何ができたか。
花を咲かせた。水を流した。土を柔らかくした。精霊に会った。人間と話した。書類を届けた。眼鏡の作り方を教えた。
全部、小さいことだった。
でも、全部、ゼロじゃなかった。
ゼロじゃないことが、積み重なって、今日がある。
シロが隣に来た。
「ありがとう、シロ。一緒に来てくれて」
シロが尻尾を振った。
「まだ、やることがある」
また振った。
「続けよう」
シロが、空を見た。
星が、たくさんあった。
全部の星が、それぞれの場所で、光っていた。
つながっているわけじゃないかもしれない。
でも、同じ夜空にあった。
それで、十分だった気がした。
二十話目、書きました。区切りの話になりました。
今回、一番大きな変化は、レナの「やってみなきゃ、できるか分からない。やる」という言葉だと思います。教えてもらうのを待つのではなく、基本だけ聞いて、あとは自分たちでやると言った。これは、凪が目指していたこと、つまり「自分がいなくても続けられる状態」に、かなり近づいた瞬間です。
東側の斜面の問題は、三十年から五十年かかる問題です。すぐには解決しない。でも、今の子どもたちのために始めることができる、というゴルの言葉が、この物語のテーマを一つ表しています。自分が結果を見られなくても、始めることに意味がある。
二十話まで来ました。凪が転生してから、森、山、都、また森、また山と動いてきました。それぞれの場所で、小さな変化が積み重なっています。これからも、その積み重ねは続きます。
読んでくださっている方、ここまでありがとうございます。また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




