第十九話「ゴルに書類を届けたら、山が少し変わっていた」
十九話目です。
山に戻ります。ゴルに採掘停止の書類を届ける話です。それと、凪がいない間に、レナたちが何をしていたか。
誰かが始めたことを、別の誰かが続けていた。そういう話です。
では、どうぞ。
森の集落に三日いて、それから山に向かった。
シロが一緒だった。
集落を出るとき、ルナが見送りに来た。
「また帰ってくる?」
「帰ってくる」
「ちゃんと言えた」
「練習の成果だ」
ルナが満足そうな顔をした。
クロとキョロは、今回も留守番だった。クロが私の横にくっついてきて、なかなか離れなかった。
「また来る」
クロが低く鳴いた。
「ちゃんと帰ってくるから」
クロがようやく離れた。
振り返ったら、ルナとクロとキョロが並んで立っていた。
三人とも、手を、いや、前足を、あげた。
ルナだけが、両手をあげていた。
「行ってきます」
◇
山への道は、二度目だったから、少し楽だった。
岩の感触も、斜面の急さも、分かっていた。
歩きながら、前回来たときのことを思い出した。
ゴルと山の記録を読んだこと。山の精霊に会ったこと。レナたちに、岩に触る感覚を教えたこと。
あれから、三週間以上が経っていた。
山がどう変わっているか、少し気になっていた。
◇
山の入口に差し掛かったとき、岩肌を見た。
来たときと、違う場所があった。
苔だった。
前回、手を当てて生やした場所から、少し広がっていた。完全に広がったわけじゃなかったが、点だったものが、少しつながりかけていた。
「続けてくれたんだな」
誰かが、続けてくれていた。
シロが岩肌を嗅いだ。
「レナたちだと思う」
シロが尻尾を振った。
◇
集落に近づいたとき、レナが出てきた。
私に気づいて、少し驚いた顔をした。
「凪、戻ってきた」
「戻ってきました」
「都はどうだった」
「色々ありました。後で話します。ゴルさんは?」
「中にいる。呼んでくる」
レナが集落に戻った。
しばらくして、ゴルが出てきた。
前と同じだった。大きくて、岩みたいな顔で、ゆっくり歩いてきた。
「戻ってきたか」
「戻ってきました」
「都はどうだった」
「動きました」
ゴルが少し目を細めた。
「採掘の件か」
「はい。渡したいものがあります」
◇
集落の広場で、ゴルに書類を渡した。
ゴルが書類を受け取って、読んだ。
ガルのときのように、すぐに感情を見せなかった。
ゴルは、表情があまり動かない人だった。
でも、読み終わって、しばらく書類を見ていた。
「採掘、止まるのか」
「暫定停止です。調査期間中の停止なので、調査結果によっては再開するかもしれません。でも、農務局と調査部門が一緒に動いているので、可能性はあります」
「可能性」
「五分五分より、少し上がった気がしています」
ゴルが私を見た。
「前は五分五分と言っていた」
「動いたので、少し上がりました」
「どのくらい」
「六割くらいかな、と」
ゴルが、短く息を吐いた。
「お前は、正直だな」
「六割でも、ゼロより全然いいです」
「そうだな」とゴルは言った。「ゼロよりいい」
ゴルが、書類を丁寧に折った。大事に持った。
「泉に、見せに行く」
「泉に」
「水は、まだ戻っていない。でも、止まる可能性が上がったことは、伝えたい」
精霊に伝える、ということだった。
「一緒に行っていいですか」
「来い」
◇
泉に向かう道で、ゴルが言った。
「お前がいない間、レナたちが続けていた」
「見ました。苔が広がっていました」
「最初の一週間は、何をすればいいか分からなかったらしい。でも、お前が言った、感じ取ること、を続けた。そのうち、自分たちで気づくことが増えたと言っていた」
「どんなことに気づきましたか」
「水が滞っている場所が、もう一か所見つかった。それを直したら、下の方の植物が増えた」
「自分で見つけて、自分で直したんですか」
「そうだ」
「それは、一番いいことです」
ゴルが少し頷いた。
「お前がいなくても、できることが増えた」
「それが目的でしたから」
ゴルが、歩きながら私を見た。
「目的というのは、最初から、それだったのか」
「最初から、というより、気づいたらそうなっていた感じです。私がいなくなっても、続けられる状態にしたい、というのは、どこかで思っていました」
「なぜ」
「私は、ずっとここにはいられないので」
「どこかに行くのか」
「いつかは。でも、今はまだ、やることがあります」
ゴルが、また前を向いた。
「岩人は、待つのが得意だと言った」
「そう言いましたね」
「待てる。ただ、待つだけじゃなくて、できることをやりながら待てるようになった」
「レナたちのことですか」
「そうだ。お前が来る前は、待つだけだった。山が変わるのを、ただ見ていた。今は、少しだが、動けている」
「それが、一番大事な変化だと思います」
ゴルが短く笑った。
◇
泉に着いた。
相変わらず、底は乾いていた。
ひびが入った泥が、広がっていた。
でも、岩の側面の水位の線を見たら、前回より少し変わっていた気がした。
「この線、前と同じですか」
ゴルが岩の側面を見た。
「少し、下の方に線が増えた気がする」
「採掘の振動が減ったせいかもしれない。暫定停止の話が動いた頃から、作業が少し減っていたとか」
「そういうことか」
「まだ完全には止まっていないので、断言できないですが」
ゴルが泉の底に手を当てた。
大きな手が、乾いた泥に触れた。
「精霊、いるか」
返事はなかった。
でも、岩の中に、微かな気配があった。
私には、それが分かった。
「います。眠っているか、とても静かにしているか」
「聞こえているか」
「たぶん」
ゴルが、書類を泉の底の近くに持ってきた。
書類を精霊に見せるということが、意味があるかどうかは、分からなかった。でも、ゴルがそうしたかったのだと思った。
「採掘が止まるかもしれない。そうすれば、水が戻るかもしれない。そのために、人間が動いてくれている」
静かに言った。
岩の中の気配が、少しだけ動いた気がした。
「待ってくれ」と、ゴルは続けた。「もう少しだけ待ってくれ」
風が吹いた。
乾いた泉の底で、小さな砂が動いた。
答えではなかった。
でも、聞こえた気がした。
◇
集落に戻って、夕食を食べた。
レナが隣に座った。
「都で、何かあった?」と、レナが聞いた。
「色々ありました」
「市場に行った?」
「行きました」
「人間の市場、どんな感じ」
「賑やかで、においが多くて、木が少ない」
「木が少ないのは、辛そう」
「少し、辛かった」
「岩人は、山がないと落ち着かないって言うけど、森人は森がないと落ち着かないんだよね。人間は、石の中にいて大丈夫なのかな」
「大丈夫と思ってる人が多いと思う。でも、体は少し疲れているかもしれない」
「体が?」
「木がある場所と、ない場所では、空気が違う。木があると、湿気が保たれて、温度が安定する。木がないと、乾いて、熱くなる。それが毎日続くと、体に影響するかもしれない」
「知らないよね、都の人は」
「知らないと思う」
レナが少し考えた。
「山が元気になったら、下の人間の街にも、何か伝わるかな」
「伝わると思う。山の水が川になって、川が農地に流れて、農地が元気になる。遠回りだけど、つながってる」
「全部つながってる」
「全部つながってる」
レナが頷いた。
「ナギが言ってたのって、そういうことか。感じ取れると、つながりが見える」
「そういうこと」
「最初は、何を感じ取ればいいか、分からなかった。でも、毎日やってたら、少しずつ分かってきた」
「何が分かってきた?」
「乾いてる場所と、湿ってる場所の、違い。岩が冷たい場所と、温かい場所の、違い。それを感じると、水がどこに行ってるか、なんとなく分かる気がする」
「それ、大事な気づきだよ」
レナが、少し照れた顔をした。
「大げさじゃない?」
「大げさじゃない。感じ取れる人は、直せる人になれる」
「直せる人」
「問題を感じ取れなければ、直しようがない。感じ取れれば、どこを直せばいいか、分かる」
レナが少し考えた。
「じゃあ、ここの問題、まだある?」
「あると思う。泉の件が解決しても、山全体が元気になるには、時間がかかる。その間に、できることはまだある」
「続けるよ」とレナは言った。「ナギが来なくても、続けてた。次にナギが来たとき、どこまで変わったか、見ててほしい」
「見に来ます」
「約束?」
「します」
レナが笑った。
「ナギ、最近、ちゃんと約束するようになった」
「練習した」
「誰に」
「ルナに」
レナが声を立てて笑った。
「森人の子どもに、練習させてもらったの」
「させてもらった」
「面白いな」とレナは言った。
◇
その夜、ゴルと少し話した。
「明日、どこかに行くか」とゴルが聞いた。
「山の東側を見てみたいです。前回、時間がなかった場所がある」
「案内する」
「ありがとうございます。レナも来ますか」
「聞いてみる」
ゴルが少し間を置いた。
「一つ聞いていいか」
「なんですか」
「お前は、この山に何度来ると思うか」
「分からないです。来られる間は、来ます」
「来られる間、というのは」
「この世界にいる間は、ということです」
「いなくなることがあるのか」
「あると思います。いつかは。でも、今はまだ、来られる」
ゴルが山を見た。
夜の山は、暗くて、静かだった。
「来てくれる間に、できることをやってくれ」とゴルは言った。
「やります」
「それだけで十分だ」
「ゴルさん、一つ聞いていいですか」
「聞け」
「山が元気になったとき、岩人の集落は、どうなると思いますか」
ゴルが少し考えた。
「水が戻れば、動物が増える。動物が増えれば、食べ物が増える。人が増えるかもしれない」
「六十人が、百人になるかもしれない」
「かもしれない。百年かかるかもしれないが」
「百年でも、方向が変われば、違います」
「そうだな」とゴルは静かに言った。「方向が変われば、違う」
風が吹いた。
山の夜風は、森より冷たかった。
でも、清かった。
「明日、東側に行こう」
「行きます」
「お前が気になるところを、全部見せてくれ」
「全部は無理かもしれないですが、できる範囲で」
「できる範囲で十分だ」
ゴルが立ち上がった。
岩みたいな大きな背中が、闇に溶けていった。
シロが私の隣に来た。
「明日も、歩くよ」
シロが尻尾を振った。
分かってる、という顔だった。
山の夜は深かった。
でも、静かで、落ち着いた。
ここにも、帰ってくる場所があった。
十九話目、書きました。
レナの成長が、今回の話の核でした。凪がいない間に、自分で気づいて、自分で直した。「水が滞っている場所を、もう一か所見つけた」という一言が、それを表しています。教えてもらったことを続けるのと、自分で新しいことを見つけるのは、違います。レナは、後者までできるようになっていた。
ゴルが、乾いた泉の前で書類を見せた場面。言葉が通じるかどうか関係なく、伝えたかった。それがゴルという人物の誠実さだと思います。
「全部つながってる」という言葉が、森人のルナと、岩人のレナの両方から出てきました。違う場所にいる、違う種族の人たちが、同じことに気づいていた。それもまた、つながりだと思います。
次話では、山の東側を歩く話になります。新しい発見と、少し大きな問題に気づく場面になる予定です。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




