第十七話「保護区になった日、ガルが泣いた」
十七話目です。森に戻ります。
保護区の承認書を届ける話です。ガルという人物が、この話で初めて、感情を崩す場面があります。百年間、追われ続けてきた人が、初めて「ここにいていい」と言われる瞬間。
書きながら、少し時間がかかった話です。
では、どうぞ。
森に入ったとき、また空気が変わった。
湿った、深い匂い。葉の音。土の柔らかさ。
体が、ほっとした。
石の都とは、全然違う空気だった。
シロも、足取りが変わった。
都の中では、少し緊張して歩いていた。森に入ったら、自然な歩き方に戻った。
「やっぱり、こっちの方がいいか」
シロが振り返って、尻尾を振った。
どちらでもない、という顔でもなく、そうだ、という顔だった。
歩きながら、森の状態を確認した。
二週間、いなかった。
木の様子が、来たときより少しだけ変わっていた。葉の色が、わずかに濃くなっている木がいくつかあった。土の感触が、少し柔らかかった。
ガルとルナが、続けてくれていたのかもしれなかった。
「ありがとう」と、森に向かって言った。
誰もいなかったが、言った。
◇
集落が見えてきたとき、最初に気づいたのは、またルナだった。
今回は、もっと早かった。
集落の外れから、走ってくる声が聞こえた。
「ナギ、おかえり」
走ってきた。前回より速かった。
「ただいま」
「二週間、長かった」
「そうか」
「クロとキョロが、また向いてたよ、ナギのいた方向に」
「そうか」
「私も、ちょっと向いてた」
「ちょっと?」
「うん、ちょっとだけ」
「ありがとう」
クロとキョロが走ってきた。今回はクロが先だった。私に体当たりしてきた。
「いつも重い」
クロが低く鳴いた。うれしい、という音だった。
キョロが足元をうろうろした。
シロがクロと鼻をくっつけた。
挨拶らしかった。
◇
ガルが出てきたのは、少し後だった。
いつものように、静かに歩いてきた。
私を見て、少し目を細めた。
「お帰りなさい、凪様」
「ただいまです」
「お体は」
「大丈夫です」
「顔色がいい。都は合いましたか」
「合うというより、慣れました。ずれているところが、たくさん見えて、少し忙しかったです」
「そうでしたか」と、ガルが静かに言った。「食事にしましょう。話は後で」
「その前に、一つ渡したいものがあります」
◇
集落の広場に、全員を呼んでもらった。
二十三人が集まった。
私は、ベルクから受け取った書類を取り出した。
「保護区の、正式な承認書です」
ガルが、その書類を受け取った。
読んでいた。
しばらく、何も言わなかった。
他の人たちが、ガルを見ていた。
子どもたちも、大人たちも、みんな静かだった。
ガルが、書類から目を上げた。
「これは、本物ですか」
「本物です。今日から、この集落と周辺区域は、正式に保護区です。人間の調査部門が、承認しました」
ガルがまた書類を見た。
「集落の名前が、書いてあります」
「書いてあります」
「ここにいていい、ということですか」
「そういうことです」
ガルが、書類を胸に当てた。
それから、下を向いた。
肩が、少し動いた。
泣いていた。
声は出なかった。ただ、肩が震えていた。
集落の他の人たちが、それを見ていた。
老人が一人、目を手で覆った。
子どもが、隣の大人の袖を引いた。大人が、何も言わずに、子どもの頭に手を置いた。
私は何も言えなかった。
何か言うべきかもしれなかった。でも、何も言わなかった。
この瞬間に、言葉を入れるのは、違う気がした。
しばらく、広場が静かだった。
風が吹いた。木の葉が揺れた。
ガルが、顔を上げた。
目が、赤かった。
「百年間」とガルは言った。声が、少し震えていた。「百年間、私たちは、どこかに追われ続けてきました。ここにいてはいけない、と言われ続けてきました。だから、ここに来ました。これ以上、逃げる場所はありませんでした」
誰も何も言わなかった。
「それが、今日から、変わりました」
ガルが、書類を見た。
「凪様、ありがとうございます」
「私は、話し合っただけです」
「それで、十分です」
ガルが、深く頭を下げた。
集落の全員が、それに倣った。
私は、少し困った。
「顔を上げてください」
ガルが顔を上げた。
目がまだ赤かった。でも、表情が、少し柔らかくなっていた。
百年分の何かが、少し解けたのかもしれなかった。
◇
その夜の食事は、今までで一番豪華だった。
どこから用意したのか分からないくらい、色々なものが並んだ。
「こんなに出してもらっていいですか」と私は言った。
「今日は特別です」とガルは言った。「百年に一度の夜です」
「そうですね」
ルナが隣に座って、私の皿に何かを置いた。
「それ、ルナが採ったの」
「何ですか」
「森の実。甘いやつ」
食べてみた。
甘かった。
「美味しい」
ルナが得意そうな顔をした。
「ナギがいない間、毎日森を歩いたんだよ。木に触って、土に触って、ナギがやってたみたいに」
「何か気づいたことあった?」
「あの大きな木、葉の色が戻ってきた。ナギが根に何かしてたやつ」
「良かった」
「あと、北の池の近くに、前は咲いてなかった花が咲いてた」
「精霊が元気になってるからかもしれない」
「精霊、また見てみたい」
「明日、一緒に行きますか」
「行く」
ルナが、また自分の皿に向かった。
よく食べる子だった。
◇
食事が終わって、ガルと二人で話した。
夜の集落は静かだった。
火が焚かれていて、その光の中でガルが話した。
「凪様に、聞きたいことがあります」
「なんですか」
「都では、何を感じましたか」
「ずれているところが、たくさんありました。でも、直そうとしている人も、いました」
「ベルクという方ですか」
「ベルクさんと、エイラさん、それから、ダロさんも、最後は動いてくれました。名前も知らない調査員の人たちも」
「人間も、悪いだけではない、ということですか」
「悪いだけの人は、いないと思います。全部が悪い人も、全部が良い人も、あまりいない」
ガルが静かに聞いていた。
「森人は、百年間、人間を信じていませんでした」
「そうですね」
「今も、完全には信じていません。でも、今日、変わりました」
「何が変わりましたか」
「人間の中にも、動く人間がいると、分かりました。それだけで、少し違います」
「そうですね」
「凪様が、その人間たちを動かした」
「私は、ずれているところを指摘しただけです。動いたのは、ベルクさんたちです」
ガルが、また少し目を細めた。
「凪様は、いつもそう言いますね」
「本当のことなので」
「それが、凪様のやり方なんだと思います」と、ガルは静かに言った。「自分が何かをした、と言わない。でも、何かが起きている」
「気づいただけです」
「その気づきが、動かしているんです」
私は何も言えなかった。
ガルが、少し笑った。
今まで見た中で、一番柔らかい笑いだった。
「明日、ルナと池に行くそうですね」
「一緒に行きたいそうです」
「あの子は、凪様がいない間、本当によく動いていました。木に触って、土に触って、水の流れを見て。私には何をしているか分からなかったですが、真剣な顔をしていました」
「それだけで、十分です」
「凪様がいなくても、ルナは続けると思います」
「そうだといいです」
ガルが、空を見た。
星が多かった。
都の夜より、ずっと多かった。
「凪様、一つ、聞いてもいいですか」
「なんですか」
「いつか、この森を去るとき、寂しくないですか」
少し考えた。
「寂しい、と感じるかどうかは、そのときになってみないと分からないです。でも、去った後も、ここが続いていれば、それで十分な気がします」
「ここが続いていれば」
「水が流れて、土が生きて、木が育って、精霊が元気で、ルナが毎日木に触って。そういう状態が続いていれば、私がいなくても、ここはここのままでいられる」
ガルが、また星を見た。
「それを、凪様は目指しているんですね」
「そうだと思います」
「私が目指しているものと、同じかもしれません」と、ガルは静かに言った。「集落が、誰かに頼らなくても、続いていける状態にすること。百年間、それができなかった。でも、今日から、少し可能性が生まれました」
「可能性が生まれれば、あとは動ける」
「そうです」
風が吹いた。
葉が揺れた。
シロが、私の足元で丸くなっていた。クロが反対側で丸くなっていた。キョロが、二頭の間に挟まっていた。
「明日、池に行ったら、精霊に会えると思いますか」とガルが聞いた。
「いてくれれば、会えると思います」
「ルナが、喜ぶと思います」
「私も、久しぶりなので、会いたいです」
ガルが、また笑った。
今度も、柔らかい笑いだった。
「凪様も、精霊に会いたいんですね」
「会いたいです。元気にしているか、確認したい」
「まるで、友達のようですね」
「友達なのかもしれないです」
「精霊と友達の転生者というのは、珍しいですね」
「魔王と呼ばれているので、大体のことは珍しいです」
ガルが、声を立てて笑った。
初めて聞いた、声のある笑いだった。
静かな夜に、その音が広がった。
◇
眠る前に、荷物の中を確認した。
二枚の書類のうち、保護区の方は、ガルに渡した。
もう一枚、採掘停止の書類は、ゴルに届ける。
一つの果物は、食事のときに、みんなで少しずつ食べた。トウが一番きれいだと選んだやつを、みんなで食べた。
一枚の絵は、まだ手元にあった。
トウが、眼鏡をかけて描いた絵。
シロと、果物と、私。
下手だったけど、細かいところまで描いてあった。
「トウ、ちゃんと星が見えているといいな」
誰もいない部屋で、言った。
都の夜空は、石の建物と明かりで、星が見えにくかった。
でも、今夜の森は、星が多かった。
トウが言っていた。眼鏡をかけてから、星がはっきり見えるようになった、と。
見えていなかったものが、見えるようになる。
それは、どんなことでも、良いことだと思った。
水が見えなかったものが、見えるようになった。
ずれが見えるようになった。
そして少しずつ、直せるようになった。
私も、転生してから、見えるようになったことがある。
この世界が、全部つながっていること。
どこかを直せば、別のどこかに伝わること。
一人でやれることは小さいが、それが積み重なること。
そういうことが、ここに来て、見えるようになった。
トウが、星を見て、きれいだと思ったように。
私も、この世界を見て、きれいだと思う場面が、増えてきた。
枯れた土に花が咲いたとき。
池の水が透き通ったとき。
ガルが、保護区の書類を胸に当てたとき。
ルナが、木に触って目を閉じているとき。
全部、きれいだった。
シロが私の横で寝ていた。
「明日、池に行こう」
シロが少し耳を動かした。
寝ていても、聞こえているらしかった。
目を閉じた。
森の音が、静かに続いていた。
十七話目、書きました。
ガルが泣いた場面は、この物語の中で、一番時間をかけて書いた場面です。百年間、追われ続けてきた人が、「ここにいていい」と言われる瞬間。それを言葉で説明するより、ただそこにいて、何も言わない方が正しい気がしました。凪が何も言わなかったのは、正解だったと思っています。
ガルの「声のある笑い」を最後に持ってきました。この話の中で、ガルは最初から静かな人物でした。百年間の重さが、少し軽くなった夜に、初めて声を出して笑う。それだけの変化が、この二十三人の集落にとっては大きかった。
トウの絵の話を持ち込んだのは、都と森をつなぐ小道具として使いたかったからです。都を離れても、トウがいて、星が見えている。それだけで、つながっている感じがする。
次話は、ルナと北の池に行く話です。精霊との再会と、ルナが何かに気づく場面になる予定です。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




