第十六話「都を去る日、トウが走ってきた」
十六話目です。
都での二週間が終わります。去り際というのは、来たときより、色々なものが見えます。来たときには気づかなかったことが、去るときに分かることがある。
凪が都で残したものと、都が凪に残したものの話です。
では、どうぞ。
都に来て十四日目の朝、荷物をまとめた。
荷物といっても、大したものはなかった。着替えと、ベルクが持たせてくれた地図と、道中で買った木の実が少し。
シロが私の横で、すでに出発する気でいた。
尻尾を振って、扉の方を見ていた。
「急がなくていいぞ」
シロが私を見た。早く行こう、という顔だった。
都の建物の中より、外の方が好きらしかった。気持ちは分かった。
◇
宿の外に出ると、ベルクが待っていた。
「最終日だな」と言った。
「お世話になりました」
「礼を言うのはこちらの方だ。この二週間、色々と動いてもらった」
「ベルクさんと動いただけです」
「お前が動かなければ、私も動けなかった」
ベルクが、小さな書類を取り出した。
「保護区の正式な承認書だ。森の集落と、その周辺区域が、正式に保護区に指定された。居住区としても、保護される」
受け取って、確認した。
確かに、集落の名前が書いてあった。
「ガルさんたちに、届けます」
「もう一枚ある」
もう一枚の書類を渡された。
「採掘の暫定停止命令だ。調査結果を受けて、鉱山局が、問題の区域の採掘を一時停止することを決定した」
「本当に止まったんですか」
「ダロが、局内でうまく動いてくれたらしい。完全な停止ではなく、調査期間中の一時停止だ。ただ、調査が進めば、正式に変更される可能性が高い」
「ゴルさんに届けます」
「頼む」
二枚の書類を、大事に持った。
ここまで来たのは、本当にこの二週間だけの話だったのかと、少し不思議な感じがした。
◇
宿を出て、都の中を少し歩いた。
出発の前に、もう一度、都の様子を見たかった。
市場を通った。
朝の市場は賑やかだった。商人たちが、声を上げながら品物を並べていた。
野菜の色が、来たばかりのころより、少し良くなっている気がした。
気のせいかもしれなかった。
でも、エイラが農地の改善に動いている、とベルクが言っていた。土に有機物を混ぜること、作物をローテーションすること、水路の整備を優先すること。それらの指示が、一部の農地に届き始めていたらしかった。
一週間やそこらで変わるわけがない。
でも、方向は変わっていた。
それで十分だった。
果物の店の前を通ったとき、声がかかった。
「ナギ」
トウだった。
眼鏡をかけて、果物を並べていた。
「おはよう、トウ」
「今日、帰るって聞いた」
「帰ります」
トウが私を見た。
「ちょっと待って」
店の裏に走って行った。
しばらくして、戻ってきた。
手に、果物が一つあった。
赤い、丸い果物だった。色が鮮やかで、形がきれいだった。
「これ、今日一番きれいなやつ。持っていって」
「ありがとう。でも、お礼はいいって言いました」
「お礼じゃなくて、餞別。お礼とは違う」
トウが真剣な顔をしていた。
受け取った。
「ありがとう、トウ」
「眼鏡、作ってくれた職人さんにも、お礼言ってきた」
「そうか」
「ナギがいなかったら、ずっと落としてたと思う」
「気づいただけです」
「その気づき、大事だよ」と、トウは言った。十歳の子が言う言葉じゃないような気がしたが、本心だと思った。
シロがトウに顔を近づけた。トウが少し笑って、シロの頭を撫でた。
「またいつか、来る?」
「来るかもしれません。この世界にいる間は」
「じゃあ、来たら教えて。もっときれいな果物、取っておく」
「楽しみにしています」
トウが手を振った。
店に戻っていった。
果物を、荷物に入れた。
◇
都の出口に向かいながら、ベルクが言った。
「お前が都にいた二週間で、いくつの問題に気づいたか、数えたか」
「数えていないです」
「私が数えた。十七件だ」
「そんなに言いましたか」
「言った。全部に対応できたわけではないが、記録として残した。今後の都市整備の参考にする」
「参考になればいいですが」
「なる。ベルク調査部門の記録というのは、こういうときのためにある」
ベルクが、手帳を見せた。
細かい字で、何かが書いてあった。
「全部書いてくれていたんですか」
「書いておかないと、消える。言葉は消えるが、記録は残る」
「ありがとうございます」
「礼はいい。お前が次に来たとき、都がどう変わったか、見てほしい。変わっていれば、この記録の意味があったことになる」
「見に来ます」
「約束するのか」
「します」
ベルクが少し笑った。
「前より、言い方がはっきりしてきた」
「ルナに練習させてもらいました」
ベルクが、少し声を立てて笑った。都に来てから、初めて聞いた笑い声だった。
◇
都の城門を出ると、空気が変わった。
石の熱さが、少し薄れた。
草の匂いが、少しした。
「ここから先は、お前一人で行けるか」とベルクは言った。
「行けます」
「道に迷ったら」
「シロが分かります」
シロが胸を張った。得意そうな顔だった。
「頼もしいな」とベルクが言った。
「森には、ガルさんから手紙を書いてもらえますか。保護区の件が正式に決まったことを」
「書く。それから、採掘停止の件は、ゴルに直接届けてくれ」
「分かりました」
ベルクが、もう一つ、小さな包みを渡してくれた。
「道中の食料だ。三日分ある」
「ありがとうございます」
「また来い」
「来ます」
「都が、もう少しましな場所になっていると思う。そのとき、また気になるところを教えてくれ」
「言います」
ベルクが頷いた。
それ以上の言葉はなかった。
ベルクという人は、余分な言葉を言わない人だった。でも、言わない分、言った言葉に重みがあった。
◇
都を離れて、一時間ほど歩いたとき、後ろから声がかかった。
「待って」
振り返った。
走ってくる人影があった。
トウだった。
「なんで来たの」
「忘れ物」とトウは言った。
「私、何か忘れましたか」
「これ」
トウが、紙切れを渡してきた。
見てみると、下手な絵が描いてあった。
果物と、シロらしい動物と、私らしい人間が描いてあった。
「俺が描いた」とトウは言った。
「眼鏡、かけてから描いたの?」
「うん。前は、細かいところが描けなかった。今は描ける」
絵は上手とはいえなかったが、細かいところまで描いてあった。シロの毛並みも、果物の模様も、ちゃんとあった。
「ありがとう」
「さっき言い忘れてた。ナギが言った、見えるようになったものを教えて、って」
「そうだった」
「果物の模様と、シロの毛並みと、看板の文字と、星」
「星も見えるようになったの」
「夜空の星、前はぼんやりしてた。今ははっきり見える」
「それは良かった」
「星、きれいだよ」とトウは言った。「前から星はきれいって聞いてたけど、ちゃんと見えてなかったと思う。眼鏡かけてから、初めてきれいって分かった」
「教えてくれてありがとう」
「また来たら、もっと教える」
「楽しみにしています」
トウが手を振って、走って戻っていった。
シロが、その後ろ姿を見ていた。
私も見ていた。
小さな背中が、都の城門の中に消えた。
◇
また歩き始めた。
紙切れを、大事に荷物に入れた。
二枚の書類と、一つの果物と、一枚の絵。
荷物として持てるものは、それだけだった。
でも、十分だった気がした。
シロが前を歩いた。
速くもなく、遅くもなく、まっすぐ歩いた。
道は、森に続いていた。
その先に、ガルとルナとクロとキョロがいた。
その先に、ゴルとレナと山の精霊がいた。
その先に、北の池の青い精霊がいた。
全部がつながっていた。
水が、土が、木が、動物が、精霊が、人が。
全部、一つの大きな流れの中にあった。
私は、その流れの中の、小さな一点だった。
花を咲かせるだけの、小さな一点。
でも、その一点が動けば、少し流れが変わる。
少し変われば、また少し変わる。
それが、積み重なる。
ゆっくり、遠回りで、時間がかかる。
でも、止まっているより、ずっといい。
「行こう、シロ」
シロが振り返った。
もう行ってるよ、という顔だった。
そうだった。
シロは、最初から歩いていた。
私が追いついただけだった。
十六話目、書きました。都編の終わりです。
トウが走ってきた場面は、この話の中で一番書きたかったシーンでした。「眼鏡をかけてから、初めてきれいって分かった」という言葉。見えていなかったものが見えるようになる、というのは、この物語全体に流れているテーマでもあります。凪が世界に対してやっていることと、トウが星に対して感じたことは、構造として同じです。
ベルクが「十七件」と数えていた、というのは、ベルクなりの誠実さの表れです。言葉では少ないことしか言わない人が、ちゃんと数えていた。
「シロは最初から歩いていた。私が追いついただけだった」という最後の一文は、少し凪の自己評価を表しています。自分が引っ張っているつもりはなくて、ただついていっているという感覚。
次話から、森に戻ります。ガルとルナに再会して、保護区の書類を届ける話になります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




