第十話「ただいまと言えるようになっていた」
十話目です。山から森に戻る話です。
凪が集落を離れていたのは、七日間でした。七日間で、集落は少し変わっていました。いや、正確には、凪の見え方が変わっていたのかもしれない。
「帰る場所」というのは、最初からそこにあるわけじゃない。気づいたら、そうなっていることが多い。
では、どうぞ。
森に入ったとき、空気が変わった。
山の空気と、森の空気は違った。山は乾いていて、開いていて、風が直接当たる。森は湿っていて、閉じていて、風が葉に遮られる。
どちらが良いというわけじゃなかった。ただ、違った。
シロが少し足を速めた。
帰りたいのかもしれなかった。
「そんなに急がなくても」
シロが振り返って、また前を向いた。急ぐ気満々だった。
◇
集落が見えてきたとき、最初に気づいたのはルナだった。
「ナギ、おかえり!」
走ってきた。
勢いが良すぎて、少しよろけた。
「ただいま」
「七日間、長かった」
「そうか」
「クロとキョロが、毎日ナギがいた方向を向いてた」
「そうか」
「私は向いてなかったよ。心配してたけど」
「ありがとう」
ルナがシロを撫でた。シロが尻尾を振った。
クロとキョロが小屋の方から走ってきた。クロが私に体当たりするように寄りかかってきた。重かった。キョロが足元をうろうろした。
「待ってたのか」
クロが低く鳴いた。
「ただいま」
◇
ガルが出てきたのは、少し後だった。
いつものように、静かに歩いてきた。
「お帰りなさい、凪様」
「ただいまです、ガルさん」
ガルが私を見た。
何かを確認するような目だった。怪我がないか、とか、元気か、とか、そういうことを確認しているんだと思った。
「山は、どうでしたか」
「色々ありました。後で話します」
「はい。まず、食事をしてください。今日は少し豪華にしました」
「どうして」
「帰ってきたら、豪華にしようと思っていました。七日前から」
私は何も言えなかった。
「ありがとうございます」
「どうぞ」
◇
食事をしながら、山の話をした。
ゴルのこと、泉のこと、山の精霊のこと、レナたちのこと。
ガルは黙って聞いていた。
「山の精霊に会ったんですか」とガルが言った。
「会いました」
「それは、珍しいことです。山の精霊は、滅多に姿を現さない。森の精霊より、ずっと古い存在です」
「疲れた目をしていました」
「長い間、傷ついているのを見てきたんでしょう」
「森の精霊と、山の精霊は、つながっていますか」
「つながっています。精霊は、別々の存在ではなく、一つの大きな流れの中にいます。どこかが弱ると、全体に響く」
「岩人の泉の問題が解決すれば、山の精霊が少し元気になる。山の精霊が元気になれば、森の精霊にも伝わる、ということですか」
「そう思います」
「全部つながっているんですね」
「そうです」とガルは静かに言った。「それが、理ということです」
理、という言葉を、ガルが使うのは初めてだった。
私はその言葉を、少し噛みしめた。
◇
食事が終わって、ガルと二人で話した。
「ベルクに連絡を取りたいです。採掘の件で」
「連絡する方法はあります。森の東の端に、人間との連絡を取るための場所があります。以前、交易をしていた頃の名残です」
「使えますか」
「使えます。ただ、ベルクがそこを知っているかどうか」
「知らなくても、調査部門に連絡が届けば、ベルクに伝わるかもしれません」
「試してみましょう」
ガルが少し間を置いた。
「凪様、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「山に行って、何か変わりましたか」
変わったか、と思った。
「山を見て、森のことが少し分かった気がします」
「どういう意味ですか」
「森は、孤立していない。山と、川と、海と、全部つながっている。森だけ直しても、山が壊れていたら、最終的に森も壊れる。逆もある。だから、一か所だけを見ていても、全体は直せない」
ガルが静かに聞いていた。
「それは、分かっていたことでしたか」
「頭では分かっていました。でも、山に行って、感じた。感じると、少し違います」
「知っていることと、感じることは違う」
「そうです」
ガルが頷いた。
「森人は、昔からそれを知っていました。でも、忘れかけていた。追われて、逃げ続けているうちに、この集落のことだけを考えるようになっていた」
「それは、仕方がないことだと思います」
「仕方がないことでも、失ったものは失ったままです」
「取り戻せるかもしれないです」
「時間がかかる」
「かかります」
二人で、しばらく黙った。
夜の森が静かだった。
虫の音が遠くから聞こえた。
「ルナが、毎日森の周りを歩いていました」とガルが言った。
「ルナが」
「凪様がやっていたことを、真似していたようです。木に触ったり、土に触ったり。何を感じているのかは分かりませんが」
「それは、良いことだと思います」
「私もそう思います」ガルが少し目を細めた。「あの子は、ナギという言葉を、七日間で何回言ったか分からないくらい言っていました」
「すみません、心配させて」
「謝ることはありません。帰ってきてくれました」
それだけで十分だ、とガルは言いたいのだと思った。
◇
翌朝、ルナが来た。
「ナギ、昨日さ、木に触ってたんだけど」
「聞いたよ」
「なんか、乾いてる感じがした」
「どの木」
「あっちの、大きいの」
連れていってもらった。
集落の北の外れに、大きな木があった。幹が太くて、枝が広がっていた。葉は緑だったが、よく見ると少し色が薄かった。
触ってみた。
乾いていた。根の周りの土が、少し固かった。水が来にくい状態になっていた。
「よく気づいた」
「正解だった?」
「正解だよ」
ルナが嬉しそうな顔をした。
「どうするの」
「根の周りを少し柔らかくして、水が届きやすくします」
しゃがんで、根の周りの土に手を当てた。
固い土が、少しずつ柔らかくなった。水が染み込みやすい状態になった。
木が、すぐに変わるわけじゃなかった。でも、少しすれば、葉の色が濃くなるはずだった。
「これで、しばらくしたら葉が元気になります」
ルナが木を見上げた。
「ナギがいなくても、私にも分かるようになるかな」
「なると思う」
「どうやったら」
「触り続けること。毎日、同じ木に触ってみると、変化が分かるようになります。体温が分かる、みたいな感じで」
「体温」
「元気な木と、元気じゃない木は、触るとなんとなく違います。それを感じ取れるようになると、早く気づけます」
ルナが木に手を当てた。
目を閉じた。
真剣な顔だった。
「なんか、ちょっと分かる気がする」
「それで十分だよ」
ルナが目を開けた。
「ナギ、ずっとここにいる?」
少し考えた。
「しばらくはいます」
「しばらくって、どのくらい」
「この森が、自分で回れるようになるまで」
「自分で回れるって、どういう意味」
「水が流れて、土が元気で、木が育って、動物がいて、精霊が元気で。そういう状態になれば、私がいなくてもちゃんと続いていける」
「そうなったら、ナギはどこに行くの」
「別の場所か、理に還るか」
「理って」
「全部がつながっている、大きな流れのこと。そこに戻ること」
ルナが少し考えた。
「死ぬってこと?」
「そういう言い方もできます」
「やだ」
ルナが私の袖を掴んだ。
「できれば、そうならない方がいいとは思っています」
「じゃあ、ならないで」
「努力はします」
ルナが少し膨れた顔をした。
「努力はします、って、なんか頼りない」
「正直に言いました」
「もっとかっこいいこと言えないの」
「かっこいいことを言って、嘘になるより、正直に言った方がいいと思っています」
ルナがまた少し考えた。
「……まあ、いいか」
「ありがとう」
木が、風に揺れた。
葉が、さらさらと音を立てた。
◇
昼過ぎに、東の端に向かった。
ガルが一緒に来てくれた。
連絡のための場所は、森と草原の境目にあった。木でできた小さな柱が立っていた。かなり古くなっていたが、まだ立っていた。
「ここに、布を結ぶと、連絡の合図になります」とガルが言った。「調査部門の者が、定期的に確認するはずです」
「何色の布がいいですか」
「青は、話し合いをしたいという意味です」
私は持っていたパーカーの端を見た。グレーだった。青じゃなかった。
ガルが、懐から青い布切れを取り出した。
「どうぞ」
「持っていたんですか」
「念のため」
「ありがとうございます」
柱に、青い布を結んだ。
風に揺れた。
「いつ気づいてもらえますか」
「分かりません。明日かもしれないし、一週間後かもしれない」
「待ちます」
◇
集落に戻る途中、ガルが言った。
「凪様」
「なんですか」
「山に行く前、凪様は帰ってくると言いました」
「言いました」
「帰ってきました」
「帰ってきました」
ガルが少し間を置いた。
「次に、どこかに行くときも、帰ってきてください」
「帰ってきます」
「約束ですか」
少し考えた。
「できる限りの約束です」
「それで十分です」
夕方の森が、オレンジ色に染まっていた。
木の隙間から、光が差し込んでいた。
私はその光の中を歩きながら、思った。
気づいたら死んでいた。気づいたら異世界にいた。気づいたら魔王と呼ばれていた。
そして気づいたら、ただいまと言える場所ができていた。
たった一か月の話だった。
でも、何かが確かに変わっていた。
世界が変わったわけじゃなかった。森がすっかり回復したわけでもなかった。人間との問題が解決したわけでもなかった。
それでも、ただいまと言えた。
それだけで、今日は十分だった。
十話目、書きました。区切りの話です。
「ただいま」という言葉が、この話のテーマでした。最初は行き場のなかった凪が、気づいたら帰る場所ができていた。誰かに用意してもらったわけじゃなく、一日一日の積み重ねで、自然にそうなっていた。
ルナとの「やだ」のやりとりは、書いていて一番自然に出てきた場面です。子どもは正直です。理屈より感情が先に来る。それが、時々すごく本質を突く。
ガルの「帰ってきてくれました」という言葉。百年間、誰も帰ってこなかった人たちに、誰かが帰ってきた。それだけのことが、大きい。
十話まで来ました。森編と山編が終わって、次からは少し広い話になっていきます。ベルクが現れて、採掘の問題が動き始める。そして、この世界の全体像が少しずつ見えてくる予定です。
読んでくださっている方、ありがとうございます。また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




