演技?
石畳を焼く陽光を背に歩く。
足を踏み入れたのは、湿った日陰の残る路地。焼きたての小麦が混じる角を曲がった先に、煤けた木扉の店があった。
「いらっしゃい。……あ、お兄さん。今日も来たんだ」
店内に満ちる熱気を割り、パン屋の娘が頬を緩める。だが、勘違いはしない。彼女が浮かべているのは、呆れを含んだ苦笑いに過ぎないのだから。
その視線は俺の顔を通り過ぎ、カウンター端の竹カゴへ落ちた。そこには「ご自由にお持ちください」の札と共に、茶褐色の断片が積み上がっている。
「ああ。この店の耳はうまいからな」
持参した紙袋へ、パンの耳を詰め込んで回収する。
指先に伝わる乾燥した感触。仮想データで腹が満たされるはずはないが、無料であれば話は別だ。少なくとも、俺の心は満たされる。それに、実利的な「オマケ」もある。
「また、煙突掃除が必要だったら、ギルドに依頼書を出してくれ。俺が受けるかは分からないが、意外と人気の高い依頼だからさ」
「うん、助かる。また機会があったらよろしくね」
娘が唇を三日月形に割る、時価0円のスマイル。
俺もまた、口角を引き上げて無機質な投資に応えた。これで、パンの耳を優先的に確保できるだろう。コストゼロの布石だ。
「……それと、仕事が終わったら、いつものを貰っていくぞ」
煙突の煤にまみれた作業の後、帰り際に窯の底から「炭」の塊を掻き出した。
店主にとっては産廃だが、俺にとっては一級の工作素材だ。黒い副産物を手に、俺は再び工作ブースへと足を向けた。
◆
大蜘蛛の粘着糸。
魔力水晶の残骸。
それらを旋盤の上で噛み合わせ、パン屋の炭で表面を滑らかに研磨する。最後に不純物を洗い流せば、それは完成した。
前回の試作とは違う、無機質な純白の仮面だ。
「機能は、前のと変わらないのか」
『いえ、怪盗としての様式美は、こちらの方が上です』
エイドスめ、性能面には一切触れないのか。
『それと、マスター・レン。怪盗というロールを遂行するには、演技が必要であると具申します』
「演技?」
『はい。情報の非対称性を利用することで、正体の露見を避けられると判断します』
嫌な予感がする。
コイツは効率を重視するあまり、人間的な情緒を「無駄」として切り捨てる傾向がある。
『過去のデータから、怪盗に相応しいキザなセリフ集を作成しました。発声練習を開始してください』
「……は?」
『まずは初級編です。……「夜の帳が降りる頃、君の罪を盗みに参上しよう」。さあ、腹式呼吸で。――どうぞ』
文字列に「甘さ」を感じるほどの糖度。
エイドスにとっては論理的な最適解なのだろうが、俺にとっては最悪の回答だ。これがAIと人間の越えられない壁か。
「エイドス。……お前、それは、俺の羞恥心への損害が大き過ぎるのだが」
肺に溜まった空気が、激しい拒絶反応を起こして漏れ出す。吐き出す息が、情けなく震えているのが分かった。
『諦めて下さい。怪盗は正体がバレた瞬間、市場価値は暴落します。すなわち、これは「キザ」という名のブランド防衛手段なのです』
工作室に漂う静寂が、質量を帯びたかのように重い。
「ば、場所を変えるぞ」
『人気のないフィールドは、すでにリストアップしてあります』
手回しがよすぎるぞ、相棒。
この羞恥心の対価が「怪盗業の成功」となることを、今は信じるしかなかった。
◆
喉が焼ける。
心臓が、一円でも損をした時以上の速さで、警告している。
生存維持コストの増大を告げて――。
「夜の、帳が……ッ」
口にするだけで、自分の内側にある「まともな倫理観」が剥がれ落ちていくような感覚。
だが、耐えろ。
ここで正体がバレれば、これまでの投資はすべて水泡に帰す。全資産を失う絶望に比べれば、この程度の羞恥――噛み殺して、飲み込んで、血の味に変えてしまえばいい。
「……夜の帳が降りる頃、君の罪を盗みに……参上、しよう」
人気のない森の影で、俺は死にたくなった。何が参上だ。俺が参上したいのはパン屋のタイムセールだけだ。
「マスター・レン。今の台詞、語尾の溜めが0.3秒足りません。ブランド価値が毀損されます」
「うるさい! この台詞を吐くたびに俺の精神的QOLがガリガリ削れてるのが分からないのか! これ、対人恐怖症の奴が聞いたらショック死するレベルの劇薬だぞ!」
『敵対組織の思考リソースを「困惑」に割かせることで、我々の損害発生率は12%低下させられる可能性があります』
「俺の精神が生贄に捧げられるから、むしろ損失だからな!」
「……夜の帳が降りる頃、君の、罪を……っ、ああクソ! 盗みに、参上、しよう……!!」
羞恥心が限界を超え、脳内の防波堤が決壊した。
もはや一円の得にもならないヤケクソの絶叫が、森に響く。
だが――。
「生きるために……この屈辱を、俺は、選ぶ……!」
途中で変な点ションになっていた気がする。
しかし、俺は何も覚えていない。
気付いたとき、、エイドス監修の「キザな怪盗セリフ集」の訓練を始めて三時間が経っていた。




