【2】-02-ユージーン(2)
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きゅんきゅんと、悲しそうな犬の鳴き声がずっと聞こえていた。
他にも、人の気配、台車の車輪の軋み、うめき声などの雑多な音にユージーンは気づく。
目を開けると、そこは処置室内にある長椅子の上だった。
処置室の最奥壁際に置かれ、くたびれた枕があるので、普段はスタッフの休憩用らしい。
身体を起こすと、数台のベッドに怪我をした人や使役魔獣が横たっている様子が見て取れた。
何人もの医療スタッフが、点滴の早さを確かめたり、体温を測ったりと、忙しく立ち働いている。
犬の鳴き声のように聞こえていたのは、猿の身体に犬の顔をした使役魔獣が、スツールに腰掛けて切り傷の消毒をされている間、痛みに泣いていたらしい。
医療スタッフの一人がユージーンに声をかけてきた。
「大丈夫ですか? 気分はどうです?」
あの恐ろしい採血用の器具を運んで来た医療スタッフだと、ユージーンは思い出す。
「大丈夫です……」
血を抜かれている途中からの記憶が無くて、ユージーンは戸惑う。
「僕はどうしてここにいるのでしょうか?」
「採血がストレスになって気絶したようですね」
「ストレス……?」
「不安な気持ちが強すぎると、身体に異常が起こるんです。時々あることで、倒れた時に頭さえ打たなければ問題ありません」
男性スタッフは、医療関係者らしい慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
(つまり、採血が怖すぎて倒れた……?)
ユージーンは自分のひ弱さが恥ずかしくなる。
左腕には、採血痕がぽつりと赤い点になっていた。
「ご迷惑をおかけしました……」
そんな理由で倒れた挙げ句、忙しく立ち働く彼らの休憩場所まで奪ってしまっている。
なるべくここから早く立ち去らなければと、ユージーンは立ち上がった。
立ち眩みがして、倒れないように足を踏ん張る。
「もう少しここで休憩されてはいかがでしょう? トリッシュ医師を呼んできますので……」
ユージーンが軽くよろめいたことに気づいたのか、男性スタッフが心配そうに言った。
「えっと……僕、もう大丈夫なので自分で会いに行ってきます。ありがとう」
ユージーンは男性スタッフに会釈して、処置室を出た。
トリッシュ医師は廊下にいて、椅子に座っている軽傷患者に対応しているところだった。
その軽傷患者の、赤黒い傷口を縫われている姿が痛々しい。
「痛い痛いイタイ……」
逃げようとする患者を、医療スタッフが押さえ付けている。
ユージーンは一瞬怯んで足を止めたが、女性医師は彼に気づくと手早く作業を済ませ、傷口に消毒ゼリーを塗り込む作業を他のスタッフに任せて、近づいてきた。
血を採られたぐらいで倒れるとは、などと怒られそうで、ユージーンは思わず身構える。
「今のところ顔色は良さそうだな」
厳しい目でユージーンを検分してから、トリッシュ医師は言った。
「体調の変化にはくれぐれも気を付けるように」
その穏やかな口調にほっとしながら、ユージーンは素直に答えた。
「はい……」
「軽傷だと甘く見てはいけない。貴方の右手に牙を立てたのはサムシングフェイルドと呼ばれる、この世界の外からやってきた怪物だ。牙に付着した雑菌が傷口から貴方の体内に入り込んで、何らかの影響を及ぼすかもしれない。この世界では知られていない未知の菌だという可能性もある。できればここに引き留めて、経過観察をしたいところだが」
正直なところ、医師が何を懸念しているのか、王国の古い医療知識しか持たない彼には正確には理解できていなかった。
腹膜炎に罹った時に、クロエは『菌』が病気の原因だと言った。
(菌は、目に見えない小さな虫で、悪霊みたいに災いをもたらす存在だって。……それと雑菌とはどう違うのかな? 『未知の菌』だったらどう危険なの? 呪いを受ける?)
ユージーンは、今日見た人型モンスターのことを思い出した。
(まさか、あの怪物みたいになるんじゃ……)
恐ろしくなったユージーンは考えることを止めて、今一番期待されているであろう言葉を口にした。
「ここから近いところに住んでいるので、何かあったらすぐにここに来ます」
「貴方の血液サンプルを詳しい検査に回している」
話の合間にもトリッシュ医師には、一瞬も暇は無さそうだった。彼女はスタッフから差し出された書類に手早く記入しながら続ける。
「何らかの汚染あったとしても少量だろう。普通なら問題はないはずなんだが」
忙しそうな医師に対して、未知の菌とは何か、汚染とは何かと質問できるユージーンではなく、彼は素直に頷くだけだった。
女性スタッフが話に割り込んでくる。
「先生、マーリーさんにお出しする予定の薬、在庫が無いそうです」
トリッシュ医師は溜め息を吐いて彼女の手元の書類を受け取り、指示を書き換えて戻した。
「健康で丈夫な人なら問題ない、という話だ、ユージーンさん。貴方は昨年腹膜炎を患ったのだから、リスクが高い。おそらく貴方の免疫系や内臓にはまだダメージが残っている。だから、薬を飲んで菌を叩いた方が良い。未知の菌に効果があるかどうかはわからないが、これを受付でそのまま出してくれ。もうできているはずだ」
彼女はポケットから紙片を出して、ユージーンに渡した。
薬用の書類だ。
定期検診でもらうものとは違って、赤い線が引いてあった。
特別な薬、ということだろうか。
医療センターには何度も来ているから、どこで薬を受け取ったら良いかぐらいは知っていたが、いつもクロエが一緒で、一人で手続きをしたことはなかった。
不安そうな目をするユージーンに、医者が説明を続ける。
「まだ完全に回復していないところへ悪いものが入って攻撃したら、恐ろしい病気になる。熱が出たり、逆に身体が冷たくなったり、悪寒がしたらその予兆だからすぐに病院に来ること。薬は予防だから、絶対に飲むように。この状況でなければ、本当なら家に帰したりはしないんだがな」
「熱が出たり、冷たくなったり、悪寒がしたら、必ずここに来ます」
二人が立ち話をしている横を、車椅子に座った狩猟民が運ばれていく。
検査室のある廊下では、添え木された腕や足を抱えた何人かが不安そうに椅子に座って、検査の順番を待っていた。
トリッシュ医師の言う通り、この状況下の治療院では、軽傷のユージーンを留めることはできないだろう。
「トリッシュ先生!」
手術室と書いてある部屋から、スタッフの一人が顔を覗かせて呼びかける。
「次の方の縫合をお願いします!」
ユージーンは、手術室から出てきた侯爵家令息のハノクに気づいた。
傍らには、可動式のベッドに載せられた彼の侍従がいる。二人はユージーンには気づかず、奥の部屋へと移動していった。
手術室に向かって歩き出しながら女性医師は、ユージーンに確認する。
「今言ったこと、わかったかな?」
ユージーンは頷いたが、とうとう最後まで、トリッシュ医師が何をそんなに気にしているのかはわからなかった。
薬を受け取りに正面玄関にあるロビーに行くと、そこでも人が溢れかえっていた。
治療院の一階ロビーには十程度の座席があったが、それを遙かに超える人数の人たちが床に座り込んでいて、ユージーンは怪我人の彼らを慎重に避けながら受付のある場所にたどり着いた。
彼が受付に薬の書類を出すと、受付担当者の男性は気怠そうな視線を上げた。
「ちゃんと並ばないと駄目だろ……」
そして、時々定期検診に来るユージーンだとわかると、やや表情を和らげた。
「ああ、君か。見ての通り、今とんでもない混雑なんだよ。あそこに座ってる人たち、みんな順番待ちでさ……。最後尾に並んでくれるかな? というか、今並んでも半日はかかるので、明日の朝出直して来てくれたら有り難い。今日は精算部門が機能していないので、支払いも明日ね」
ユージーンがはっとして振り返ると、座っている人たちが顔を上げて睨んでいた。
「ご……ごめんね」
絶対、というトリッシュ医師の言葉を伝えなくてはと、ユージーンは食い下がろうとした。
「あの……でも、ぼく、トリッシュ先生が……」
「うん、悪いけれどね。君だけ特別扱いするわけにはいかなくてさ」
黒く太い眉を寄せながら、担当者はユージーンの言葉を遮った。
髭面に大きめな目鼻立ちの彼の表情には、軽蔑するような色が浮かんでいた。
「君さぁ、王国では貴族だか何かだったんだって? でもここでは皆平等だからね、ゴリ押しはきかないよ。明日の朝また来てね」
それから彼は、ユージーンの後ろにいた男に声をかけた。
「次の方どうぞ」
「僕、そんなつもりは……」
後ろの男が、怪我をしたらしい手をさすりながら進み出て、大柄な身体でユージーンを軽く突き飛ばした。
「順番抜かししてるんじゃねぇよ」
「すみません……」
ユージーンは消え入りそうな声で謝った。
それから、後ろに下がって、どうしようかと迷いながら暫くそこに立っていた。
もう一度担当者に話しかけることを考えていたが、並んでいる列から、忌ま忌ましそうに舌打ちする音が聞こえた。
それが誰に対するものかははっきりしなかった。
だが、そこに居る全員からの悪意が自分に向けられているように感じて、ユージーンは急いでそこを離れた。
(明日の朝でも間に合うよね? それに歩いて10分ぐらいだし、何かあったらすぐに来れば……。トリッシュ先生に知られたら怒られる……? でも順番は大事だから……)
自分に言い訳しながら、情けない気分になる。
(大丈夫……今はこんなに元気なんだし。先生は、普通の人なら問題ないって言ってたじゃないか。僕が入院していたのは何ヶ月も前だ。明日の朝は、クロエに頼んで一緒に来てもらおうかな)
ユージーンは不安な気持ちを押し隠し、未だ喧噪の続く医療センターを後にした。
***
深夜になって調剤受付が一段落した後、短い休憩を取っていた調剤事務担当者は、受付デスクの片隅に置きっぱなしになった薬の引換券に気づいた。
調剤の処方箋じゃなくて、引換券。
つまり、すでに作ってある薬と引き換えるだけのものだ。
しかも、赤い線が引いてある……緊急性の高い場合に、優先的に処理をしろという意味で付けられる印だ。
血の気が引く思いがした。
(誰のだ?)
手に取り、ユージーンと書いてあるのを見て、はっとした。
黒髪の、気弱そうな青年の顔を思い出す。
「処方箋じゃなくて、引換券だって言ってくれたら良かったのに」
そう言わなかった向こうが悪い……と、思い込もうとしたができなかった。
確認を怠った自分のミスだ
しかも、特権を振りかざそうとした、と言わんばかりの態度を取ってしまった。
(今日は仕事が多くて、苛々していたから……あれは八つ当たりに近かった)
彼は焦りを感じ始める。赤い線があるからには、命に関わる可能性が高い。なのに、明日出直せなんて言ってしまった。
担当のトリッシュ医師がこのことを知ったらおそらく……確実に、激怒するだろう。
彼はその引換券を暫く見つめた後、そっとズボンのポケットにしまった。
朝になって、彼が無事に薬を取りに来てくれれば、ミスは無かったことになる。
(いつもはこんなミスはしないのに……ああ、どうか、朝まで生きていて、薬を取りに来てくれますように……)
今の彼には、そう願うことしかできなかった。
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