【2】-01-ユージーン(1)
この作品には、一部暴力的な描写が含まれています
免疫のある方のみ、お進みください
『スローライフの終わり』直後からの開始です。
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新しい年を迎えた、冬月1日の昼過ぎ。カウザン医療センターの外来治療院院内は騒然としていた。
痛みに呻く者、友人の名前を呼びながら彷徨う者、器具を運びながら急ぎ足で通り過ぎる者が行き交う廊下で、ユージーンは一人、木の切り株を模した椅子に腰を下ろしていた。
足下には、乾きかけた血の痕がある。
少し離れた壁際には、カーテンやクッションを寄せ集めて作った臨時のベッドがあり、足を痛めた狸型使役魔獣がじっとその上に横たわっていた。
カマドウマの形をした異形の怪物が食堂を襲撃し、居合わせた大勢の狩猟民たちが恐慌状態になって一気に出口へ押し寄せたため、将棋倒しが起きた。
怪物はマクシミリアンが倒し、その後駆けつけた保安官たちが、割れた食器で切り傷を負った人、骨折した人、そして下敷きになって窒息状態になった人に応急処置を施し、近くの医療センターに運んだ。
医師もスタッフも大急ぎで受け入れ態勢を整えたが、一度に何十人もの負傷者を受け入れるには人員も少なく、センターの規模も小さすぎた。
廊下やロビーにまで溢れた人々の間を医師とスタッフたちが行き来する。
その傍らで保安官たちが、患者から今回の襲撃について事情聴取して回っていた。
サムシングフェイルド、『人型モンスター』、という耳慣れない言葉がしきりに聞こえてくる。
食堂でヨアン保安官があの怪物をそう呼んでいたことからも、人の顔と身体を継ぎ合わせて作られたカマドウマのような怪物のことだとわかった。
「振り返ったら、アレがいたんだ」
「皆が逃げ出したから、取りあえず逃げた」
「俺のばあちゃんのばあちゃんが昔アレに似た奴と戦って死んだんだって。サムシングフェイルドだ。失敗作っていう意味だよ」
「人が化け物になったやつだよね? 俺は、なりそこないっていう意味だって爺さんに教えてもらった」
「人間の顔をした化け物はヤバいから見たら逃げろって親父から聞いてたんで、とにかく逃げようとしたんだ。でも扉の前の奴らが動かなくて、後ろから押された」
「太った人が『助けて』って言いながら食堂に入ってきたんだ」
ハノクの後を追って来たと説明する目撃者たちもいる。
「誰かが銃を撃ったんだけれど、全然駄目だった」
人間に似た顔と、白く濁った目をユージーンは思い出す。不気味だったが、不思議と怖いとは感じなかった。
(確かに人の顔はしていたけれど、人としての知性はなく、虫みたいだった。僕が怖いのは、人間だから……)
出血が多かったわりに、小指の先ほどしか切れていなかったルキルスは診察の必要なしと判断され、早々に治療院から追い払われていた。その後彼は、医療スタッフを通じてユージーン宛の手紙を届けた。
『軍の非常召集があったので行かなくてはならない! しっかり治療を受けて、気をつけて帰れよ。ルキルスより』
おそらくあの怪物絡みで軍が動いたのだろう。少し寂しいが、仕方が無い。
ユージーンは、何らかの書類の端を破って書いたと思われるその手紙をしみじみと眺めた。急いで書いたのか、文字は歪み、滲んでいた。ほとんど殴り書きに近い。その手紙をユージーンは、丁寧に畳んでズボンのポケットにしまう。
これは彼の人生において初めての、『友人からもらった手紙』だ。
初めて友人ができて、初めて一緒に買い物をして、初めて手紙をもらった。
嬉しいことがこうして増えていくのなら、生きていくのも悪くないな、とユージーンは思った。
この治療院に到着して傷の洗浄を受けた後、重症患者が多かったためにユージーンの診察は後回しにされた。
窒息してから息を吹き返した者は室内のベッドに、骨折した者は廊下に横たえられ、軽傷者は廊下に並んだ椅子に座って診察を待っている。
治療院の内装は木材が多用され、ログハウスのような温もりがあった。
廊下に置かれた椅子が木の切り株なのは、内装に合わせたデザインらしい。
その一つに座って、ユージーンは診察を待っていたが、午後遅い時間になっても順番は回ってこなかった。他の事情聴取を終えた保安官たちがやってきて、ユージーンに怪我をした経緯を訊いたのは、そろそろ夕方になろうかという頃だ。
怪物が入ってきて皆が逃げ出し、自分は銃を撃った、魔法弾が弾かれたために口の中に手を突っ込んでその時……という説明をしていたところ、廊下にいる患者の一人を診ていた医師が振り返った。
医療センターの治療院にしばらく入院していたユージーンにとっては、顔見知りのトリッシュ医師だ。
目の奥には、獰猛さを感じさせる茶色の瞳が光っている。癖の強い金髪は後ろにきつく引っ詰められていた。
彼女は見るたびに何かに憤っていて、患者を取り巻く不条理さがその主な対象だったが、今日もそのきつい口調は健在だった。
「トリアージをした奴は誰だ?!」
ユージーンの前に膝を突いて、怪我の具合を確かめながら彼女は怒鳴った。
自分が怒られているわけではないと知っていても、ユージーンは反射的に身を竦めてしまう。
こんな風に怯えたことに、誰も気づきませんように、と彼は願う。こっそり周囲に視線を走らせると、皆トリッシュ医師に注目していて、ユージーンを見ている者はいなかった。
怪物の口に手を突っ込んで銃を撃ったユージーンの右手には、縫うほど酷い状態ではないものの、牙によって裂けた傷が幾つかあった。怪物の口に手を突っ込んだ時と、引き抜いた時に付いた傷だろう。
綺麗に洗浄してもらったが、待っている間に再び血が滲んでいた。
王国にいる時なら『舐めておけば治る』と、放置で済まされる程度の軽傷だ。
トリッシュ医師の声に、女性スタッフの一人が慌ててやってくる。
「貴女は、怪我を目視しただけでその原因が明確にわかるのか? どこでどう受傷したのかまで確認しないと駄目だろう。特にこの患者は数ヶ月前、腹膜炎を患っている。既往症によっては、元気そうに見えても急激に状態が悪くなる場合もあるから、気を付けるように」
女性医師は、既往症の確認は必須だという小言を並べながら、ユージーンの傷に茶色いゼリー状の薬を塗り始めた。
これが非常に染みるため、ユージーンは思わず右手を引っ込めようとしたが、医師の手はがっちりと彼の手首を掴んで放さなかった。
小言の合間にも、女性医師は別のスタッフを呼び寄せ、採血の準備を言いつけた。
「すみませんでした、トリッシュ先生。今日は負傷者が多くて対処しきれませんでした。落ちた食器の破片で怪我をした人も多く、そのうちの一人だと勝手に思ってしまいました……」
言い訳をしながら女性スタッフが涙目になる。
ユージーンは、それ以上彼らの会話に注意を払ってはいられなかった。
男性スタッフが緊急治療用の処置室から出てくるのが見えたからだ。
彼が手に持っているトレイには、採血用だと思われる器具や容器が載っていた。
(違う、あれは僕用じゃない。きっと他の患者用だ。僕はちょっと怪我をしただけだし……血を抜く必要なんてないはずだ)
男性スタッフがユージーンの傍で立ち止まると、女性医師は説教を終わらせた。
「怪我人が多い時だからこそトリアージが重要なんだ。次からは情報の聞き取り方に工夫しなさい。行っていいよ」
女性スタッフは一礼して逃げるように立ち去る。
トリッシュ医師がトレイから容器を手に取り、針を取り付ける間、ユージーンは気が遠くなりそうな気分でその様子を眺めていた。
王国にいた頃は、医療技術が遅れていたため、身体に針を刺すという行為は一切なかった。
医療センターの治療院に入院している間に何度か採血を経験したが、彼は注射針というものに全く慣れることができないでいた。
逃げ出したい衝動を堪えている間に、男性スタッフはトレイを別のスタッフに渡すと、ユージーンの袖をまくって左腕を露出させた。
古い火傷の痕が幾つも晒される。
熱い火掻き棒を押しつけてきた男の、愉悦に満ちた瞳が、一瞬脳裏に蘇った。
やめて、父様──と悲鳴を上げ続けるほどの痛みが、記憶を埋め尽くしていく。
何度も深呼吸して、ユージーンはその記憶を追い払った。
医療スタッフはひんやりとした液体をユージーンの左腕に塗ってから、弾力のある紐で縛った。
視線を逸らして気を落ち着かせようとしているところへ、医師が前置きなしに太い針を血管に突き立てた。ユージーンは短い悲鳴を飲み込む。
(大丈夫、これぐらい……僕は、痛みには慣れてるから大丈夫)
ユージーンは自分に言い聞かせたが、全身に冷や汗が吹き出る感覚に襲われる。
弾力のある紐が外されると、吸い上げられる血は勢いを増した。
針の刺さった部分から血の流れ出る感覚が伝わってきた。
急に、全身を悪寒が襲った。
(大丈夫……じゃない)
傍らで採血が終わるのを待っていた男性スタッフが、傾いたユージーンの身体を支えた。
女性医師が冷静に採血を終えると、一人分のスペースを確保するよう他のスタッフに指示を出したが、意識を手放したユージーンにその声はもう聞こえなかった。
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