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二進法原初魔法  作者: lukecat
幕間
56/207

34_38:僕が死ぬ日の青い空(6)

 恐ろしく気分の悪い状態で、ユージーンは目が覚めた。

 口をふさいでいた布は外されていた。

「いつまで寝てやがる」

 そう言って揺さぶり、ユージーンを更に追い詰めたのは、よく日焼けした逞しい体付きの男、ルキルス・ライオだ。

 彼の後ろには、真っ青な空が広がっていた。

 俯いてばかりだったユージーンが、これまで目にした事もないような、高くて青い空だ。

 見ていると吸い込まれそうなほど、深い色をしていた。


 ルキルスは、ユージーンの身体を引っ張り上げ、無理矢理立たせようとする。

 ユージーンの手は後ろに組み合わされたまま縄で縛られ、足は肩幅以上には広げられない程度に縄で繋がれていて、バランスを取るのが難しい。ぐらりと揺れた彼の身体を、ルキルスが抱き留める。


 目前に広がっている海に気づいて、ユージーンは一瞬見入った。こんなに近くで海を見るのは初めてだった。その広大さを前に、ユージーンは、小さな己の存在を忘れてしまいそうだ。青い空と青い海の接線がどこまでも続いていて、陸地は見当たらない。


 吹き付けてくる風は潮の香りを含み、やや涼しかったが、照りつける日光が温かいので寒さは感じなかった。

 足下には、真っ白に塗装された小型の舟が波に揺れている。小型と言っても数人は乗れそうな大きさだ。

 その舟のすぐ横に、大きな船が接舷されていた。

 上から縄梯子が垂らされており、嘘吐き男は、すでに大きな船に乗り込んだのか、舟の上には姿が見えない。


「ルキルス……」

 潤んだ目で、ユージーンは頭一つ高い彼を見上げた。


「お前」

 ルキルスの目も潤んだ。

「俺の名前、知ってくれていたんだな……」


「ゴメン」

 ユージーンは、先に謝った。

「吐く……」


 その直後、ルキルスは大急ぎで彼を抱き上げて移動させたが、ほんの一瞬の差で、船舶の塗装その他諸々の被害を完全に免れる事はできなかった。






 思う存分海に吐いた後で、ユージーンの気分は劇的に改善した。ルキルスは、腰に下げた水筒からユージーンに水を飲ませた。

「あれを見ろ」

 と、ルキルスは大きな船の手すり部分から突き出している板を指さした。


「板歩きの刑と言って、俺達海の民の間では、罪人にあの上を歩かせて処刑する習慣がある。まあ、言う事を聞かないガキを脅すぐらいで、本当に使われる事は滅多にないんだが、お前みたいな奴があそこを歩かされたら、びびって間違いなく落ちる。海に落ちたら簡単には上がれないし、サメがいるから、ほぼ確実に死ぬ。そんな目に遭わないように、船の上では絶対に、言われた事には逆らうなよ」


 それは脅しというよりは、忠告に聞こえた。

 縛られたユージーンを抱えて、ルキルスは片手でひょいひょいと縄梯子を上る。運ばれながらユージーンは、チェーンで曳航されている、白い塗装に汚物をこびりつかせた舟を見ていた。

 逃げるとしたら、あの舟を盗むしか無い。でもおそらく自分一人では、チェーンを切り離す事もできないだろう。


 投げ落とされ、甲板の上に転がって、ユージーンは立つ事もできず、近づいてくる髭面の男を見上げた。

 四十から五十代ぐらいに見える、赤髪赤髭のその男は、青いノースリーブを着ており、突き出た両腕には渦巻きのような入れ墨が幾つも描かれている。


「うちの息子が、世話になったそうじゃないか」

 その男はユージーンの胸ぐらを掴み上げると、次の瞬間大きな手でユージーンの顔を弾いた。

 痛みと共に、世界が翻る。


 揶揄するような笑い声が聞こえた。

 あの嘘吐き男と、他にも大勢居るらしい。

 誰かが踏み付けられる様子を喜ぶ、悪意しかない空間に、ユージーンは今身を置いている。


 ルグウィン家に居る頃は、それがユージーンの日常だった。

 束の間の、クロエや、マクシミリアンやザイオンと共に過ごした時間が、いかに幸せだったか。一瞬一瞬が、信じられないぐらいに、尊かった。


(クロエ……)

 ふいに、妹の事が気に掛かった。

(大丈夫。クロエにはマクシミリアンと、ザイオンが居る。僕が消えても、大丈夫。彼らが妹を、守ってくれる)


「伯父貴!」

 ユージーンの身体を抱き起こしながらルキルスが、声を上げた。

「クヲンの処分が撤回されないと困るだろう? もう少し穏便に行こうぜ」


「穏便だろうが。グーじゃなくて平手で、ちょっと撫でただけだ」

 男は分厚い手を、ヒラヒラさせた。

「後でもっといっぱい撫でてやるよ」

 その手が、性的な動きを模倣し始める。


「そんな事をしたら、事態が悪化するばかりじゃねぇか! こいつに被害を撤回させねぇと、クヲンの仕事に差し障る。今力尽くで従わせたって、後で約束を破られるのがオチだ」

 ルキルスが、ユージーンを庇うかのように立ち回るのは、あの嘘吐きのためらしい。ここに居るのはルキルスも含めて、敵ばかりだった。切れた口の端から流れる血を拭う事もできずに、ユージーンは周囲を見る。


 大きな船の甲板に集まっているのは、ルキルスや嘘吐き男と同じ、青いノースリーブの上着を着た一団だ。数十人は居るだろうか。日焼けした肌に、赤銅色または赤髪の人々で、憎しみを込めた目をユージーンに向けている。


「白いなぁ。そいつ、病気じゃないの?」

「ひょろひょろだな」

「ちょっとつついたら死にそう」


 頭上では、風を受けた帆が膨らんでいた。

 帆柱の見張り台にも人がいて、野次に加わっている。

「なんか、ふらふらしてないか?」


「お貴族様って、みんなこんな感じだよ。それに高慢ちきでさ。見てよコレ」

 一人が、服の背部分を上にまくって見せる。

「俺、在庫の数が合わないからって鞭打ちされたんだよね。俺が盗んだって言われて」

 服の下に、鞭打ちの痕がくっきりと一筋、残っていた。

「結局計算間違いだったのよ。俺、打たれ損だよね。皮膚が裂けて、めっちゃ熱が出たんだよ。死ぬかと思った。間違えた奴も、鞭を打った奴も、謝らないし」

「うわぁ。有り得ねぇ」

「謝れよ、貴族。あの時は、わたくしのお仲間が、大変申し訳ありませんでした! ってな。大きな声で、ほらほら」


「こいつ、嘘の泥棒話で、俺を国外退去にしたんだ。服なんていっぱい持ってるくせによう。俺の服を盗みやがった」

 見覚えのある、嘘吐きの男が憎しみを煽り始める。

「損は取り返さないとな」

 楽しそうに彼らは、口々に好き勝手な事を言い始めた。

「輪姦そうぜ」

「大事なものをちょん切ってしまえ」

「バラバラにして、送り返せば、共和国の奴らも震え上がって処分を取り消すんじゃない?」


「板歩きの刑は?」

「こいつ、泣き出すんじゃないかな」

「いいねぇ」

「お貴族様が泣くところ、見てみたい」

「その前に、まずは服を返してもらおうか!」

「そうだな。まずはハダカにして、あそこの具合を確かめないと」

 野次に加わる声が多くなって、全てを拾えなくなっていく。

「脱げよ、ほら」

「ルキルス、縄を切ってやれ」


 今は何を言っても無駄だと、ユージーンにはわかっていた

 彼は『板歩きの刑』の板に目をやる。

 それほど遠くない。

 そこだけ手すりが外されて、うっかりすると落ちそうだからか、遠巻きにされている。


 ユージーンのその視線が、更に揶揄を誘発した。

「怖い? 怖いよねぇ」

 と、また笑い声。

「落ちたら死んじゃうんだよ?」

「泣くかな? あ、泣きそう?」


「いいか、逆らうなよ」

 ルキルスが縄を切りながら、耳打ちする。

「頃合いを見て、俺が助けるから」


 助ける?

 君が僕を、ここに連れてきたんじゃないか。

(僕は、誰かの言いなりにはならない。僕は、僕の意思で行動する)


「脱、げ! 脱、げ!」

 全員で手を叩きながらの、コールが始まる。

 一種のお祭りのような雰囲気が、辺りを支配していた。

 彼らにとっては、人を踏み躙る事が娯楽なんだ……ルグウィン公爵と同じで。


 ユージーンは、シャツと、下に着ているタンクトップを脱ぎ捨てた。

(大丈夫。僕は、大丈夫……良かった。今日が、凄く、いい空で)

「やった!」

 ユージーンの脱ぎ捨てた服を、嘘吐きの男が拾って着替え始める。


(僕は、大丈夫。……本当に、雲が一つもない。真っ青だ)

 靴を靴下ごと脱いで、ズボンも脱いで、少し離れたところへ放り投げる。

「うわ。お前性格悪い! あ、パンツは要らない! キモいから」

 そう言いながら、拾いに行く嘘吐き男は、嘲笑が止み、皆が静まり返った事に気づいていない。


(大丈夫……僕は。見られても平気)

 そう繰り返すのに、人目に晒されて、震え始める身体を止める事ができない。


 縦横に走る白い鞭の痕を、幾つものケロイド痕を、家畜にするような焼き印を、子どもが面白がって落書きでもしたようにでたらめに刻まれた無数の虐待の痕跡を晒して、ユージーンは晴れ上がった秋空の下、甲板の上に立っていた。


 言うべき言葉を無くした人々の視線が、彼に向けられる。

「お前、それ」

 ルキルスが、動揺した様子を見せた。

「誰に、やられたんだ……?」


(僕は、大丈夫……大丈夫)

 ユージーンは、心の中で何度も繰り返す。


「お前達と同じような奴だ」

 冷静に返す事ができた。

「弱い者を虐げ、奪い、獣のように犯し続けて、僕が痛がって泣くと、高笑いするような奴だ」


「違う、……俺達は」

「違わない」

 同じだ。貴族であろうと、貴族でなかろうと。


 ユージーンは少しずつ、よろめくような足取りで、皆の視線から逃げるように、移動する。

「僕を弱いと侮って、無理矢理につれてきて、殴って、嘲笑って、妹が僕のために選んでくれた服を奪って、喜んでいるじゃないか。ザイオンにもらったブレスレットも奪った。この後、僕を輪姦す? バラバラにして、送り返す? 何をされても僕は、これ以上汚れようもないけれど、それでも僕は、二度とお前達のような連中の言いなりにはならない。そう決めたんだ」

 言えた。

 言いたい事を、ちゃんと、最後まで言えた。


(僕は、逃げなかった)

 自信が持てたせいか、身体の震えが収まってきた。

 でもまだ、やる事が残っている。


「服は、クヲンものをお前が奪ったと、聞いたんだが……」

 ルキルスは振り返って、言葉を途切れさせた。

 そこには、サイズ違いのズボンを穿こうと苦闘している嘘吐き男の姿があった。

 ロングシャツならともかく、常人よりも細いユージーンのタイトズボンが、普通サイズの男に合う訳がない。


「クヲン、お前、まさか……嘘を吐いたのか?」

「いや……ちょっと、……拘置中に太ったかな?」

 クヲンがへらりと笑った。


「どう見ても、それ、お前のじゃないだろう!」

 ルキルスが怒りのあまり、震えていた。

「お前が奪ったのか! よくも俺に嘘を吐いたな! お前のせいで、俺は!」

「ごめん、ルキ兄……悪かったよ」


 彼らが注目を集めている隙にユージーンは、目的の場所へ辿り着いた。喧嘩が収まれば、事態がどう動くかわからない。剥き出しの敵意が再びユージーンに向けられる前に、彼らの手の届かないところへ行く必要があった。


 ユージーンは『板歩きの刑』用に設置された、板の上に立つ。

 甲板の方を向いたまま、敵の集団から遠ざかる。

 後ろへ、少しずつ、進んだ。


「ユージーン!」

 ルキルスが振り返って、叫んだ。

「待つんだ! 待ってくれ!」


 後ろへ倒れるように、板を蹴ったのは、深い空の色をできるだけ長く見ていたいと思ったからだ。

 見渡す限りの青を抱くように、ユージーンは両手を伸ばす。


(今日で良かった……こんなに青い、空の日で……)


 やがて別の青がユージーンを受け入れ、深く引きずり込んだ。











⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈

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