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二進法原初魔法  作者: lukecat
幕間
57/207

34_39:僕が死ぬ日の青い空(7)

 船影が頭上の世界を、するすると通り過ぎていく。

 その後を、小さな舟の形が追って行った。


(泳ぎ方を知っていれば、舟に乗って、逃げ出せたかな……)


 海は想像よりも深く、冷たい水でユージーンの身体を絡め取った。

 海面に近い水中でユラユラと揺れる光は、とても美しかったが、そう思ったのは一瞬で、息のできない苦しさにユージーンはもがき始める。


 水面に浮かび上がる途中、叫び声が微かに響いてきた。

『船を止めろ! 廻せ!』

 消えゆく意識の最後に聞こえたのは、大きな水音だった。






 青でできた世界に、ユージーンは漂っていた。

 世界は濃い青と薄い青で二分され、その狭間に居るユージーンは、異物だ。

 壊れたいと、ユージーンは願った。

 自分だとわからなくなるほどに、粉々になって、この美しい世界の青に溶けてしまいたい。


 誰かの泣き声が聞こえて、ユージーンは振り返る。


「クロエ……?」

 誰の姿も見えなかったけれど、彼は今朝の光景を思い出した。


 木製テーブルに置かれたジュースのコップと、皿の上に載ったバゲット。

 咽せる妹。

 妹の隣で、ニコニコしながら話している、マクシミリアン。

 その向かいに座って、弟の話に突っ込みを入れているザイオン。

 ジュースのお代わりを注いでくれるルファンジア。


 帰りたい。

 あの優しい空間に、もう一度戻る事ができたら。

 次は、聞いているだけではなくて、何か話してみよう。

 面白い話は、できないけれど。

 最近少しわかってきた、銃身の掃除の仕方、とか……?






「帰って来い!」

 耳元で、煩く叫ぶ声がする。

 気持ち良く漂っていたいのに、引きずり下ろされる。

「ユージーン!」


 ユージーンは吐いて、咳き込んだ。

 苦しい。

「よし! 息が戻った! 戻ったぞ!」

 歓声が上がる。


 胸が痛い。

 息が苦しい。

 もう苦しいのは嫌なんだ。

 痛いのも嫌いだ。


「死ぬなよ! 俺が悪かった。何度でも謝るから」

 何人かが、泣いている。

「俺達、本気じゃなかった。あれは、ストレス発散みたいなもんで」


 息ができない。

 ずっと、溺れている。


 水面の上に出ようと伸ばしたユージーンの手を、誰かが掴んだ。

「頑張れ」

 と、その男は言う。

「生きるんだ」


(頑張りたくない。僕は……)


「なんで助けたんだ、馬鹿が」

 毒づく声が聞こえる。

「苦しませず、そのまま逝かせてやるべきだったのに。こういう奴を、前にも見た事がある。魂が壊れてるんだよ。何をしたって、ちょっとしたきっかけで、結局は死んでしまう」


(そうか……もう壊れていたのか、僕は)


 入れ替わり立ち替わり、誰かが枕元に来ては呪詛のように呟く。


 そんなつもりはなかった。

 知らなかった。

 死ぬ事はねーだろうが。

 俺達みんな、あいつに欺されてたんだ。

 死んだら美味しいものを食えないぞ?

 ごめん、本当にごめん。でも貴族は嫌いなの。




 咳き込んで、自分の咳の音にユージーンが目を開けると、そこは部屋の中で、彼はベッドに寝かされていた。窓から夕暮れの空と、甲板の向こうに光る海が見えた。

 裸体に掛けられた布から、黒い霧のようなものが立ち上っている。

 医療センターで高熱を出している時にも、こうした幻覚を見た事がある。譫妄状態だな、と医師が言った。

 つまり今、熱が高いっていう事。


「目が覚めたか? 水を飲めよ。ほら」

 誰かがユージーンを抱き起こして、舟のような形をした器の吸い口を向ける。

 水が乾いた唇に触れた途端、ユージーンは貪るように水を飲んだ。

 飲み終わった後で、また咳き込む。


「心配するな。必ず俺が、無事に帰してやるから」

 守られるはずのない約束に、ユージーンは素直に頷く。

 息を吸っても吸っても、苦しい。肺がまともに機能していない。海水を吸い込んだせいなのか。荒い息と咳を繰り返しながら、再び意識が混濁していく。


「船を戻してくれ、伯父貴」

 懇願する声は、ルキルスのようだった。

「こいつ、死にかけている。俺のせいだ。クヲンのせいでもある。医者に診せないと」


「死なせてやるんだ、ルキルス。あの身体を見ただろう? 死なせてやれ。お前は、俺の後を継ぐんだ。クヲンはもう駄目だ。部族みんなの信頼を失った」






 どれだけ息を吸っても、満たされない。

 真っ暗な中、死にかけの魚のように、ユージーンは空気を求めた。

 咳を一つするたびに、体力が抜け落ちていくのがわかる。

 誰かが、ユージーンを抱き上げて、移動していた。

 目を開けてみたが、何も見えず、状況が良くわからない。気怠さに、ユージーンは再び目を閉じる。


「苦しいか? 少し我慢してくれ」

 上下に、何度か揺さぶられた。

 それから、分厚い敷布のようなものの上に、下ろされる。

 揺れ方から、舟の上だとわかった。


「ごめんね、ルキ兄。俺、どうしてもあの服が欲しくて。高くて買えなくて、悔しい思いをしていたところに、コイツがロゴ入りのバッグを持って幸せそうに座っていたから、魔が差したんだ」

 聞き覚えのある声が、言い訳をしている。

「もういい」

 諦めたような声が応じる。

「これからは堅実に仕事をして、みんなの信頼を取り戻せ」

「わかった。食糧と水は積んだからね」

「ああ。舫いを解いてくれ」


 ふいに、うめき声と共に、ユージーンのすぐ横に何かが倒れこんできた。

 潮の匂いに、鉄錆に似た血の臭いが混ざる。

 ユージーンは目を開けた。

 ぼやけた視界に、何かがたくさん光っている。


「じゃあね、ルキ兄。もう帰って来なくていいよ。跡目がルキ兄だなんて、冗談じゃねーや。俺の方が、ずっと昔から親父について、船に乗ってきたんだからな! 途中から割り込んできて、何様だよ。あー、お貴族様だったかな? 笑えるわ! ちなみに食糧も水も積んでねーよ残念!」

 声が遠ざかっていく。曳航用のチェーンが外され、船だけが行ってしまったのだろう。


「あの……やろ」

 ズリズリと、船底を這いずる音がする。

「北の五つ星……を矢で狙う英雄マリウス。色目を使う魔女。に、覆い被さる巨人」

 水を勢い良く噴出する音が、断続的に響いた。舟が方向を変え始める。

「巨人の心臓に繋がれた、鎖。鎖を持つ、狩人」


 ユージーンは、目の前に広がる夜空の存在に気づいた。驚くほど多くの星が、空にぎっしりと詰まって見えた。さっきから聞こえてくるのは、星座の名前だろう。星座の位置から、進むべき方向を定めようとしているのだ。

 やがて舟は、勢い良く水が吹き出す音と、小さな破裂音を伴いながら、一定の方向を目指して、走り始める。


 天頂からホロリと零れ落ちるように、星が一条の軌跡を残して消えた。その儚い美しさに、息苦しさも忘れて、ユージーンは見入った。

「綺麗、だろう」

 這いずる音が、戻ってきた。

 力尽きたように、ユージーンと並んで横たわり、息も絶え絶えに続ける。

「今日は、特に、綺麗だ」


 それっきり声が聞こえない。

 死んだのかと思って、ユージーンがそっと手を伸ばすと、大きな手に掴まれた。

「大丈夫だ」

 後方で噴出する水の音にかき消されそうなほど、小さな声が言った。

「この舟は共和国に向かっている。最新鋭の船舶だから。お前は助かる」


 引こうとした手は、阻まれた。

「俺は、友達が欲しかっただけだ。俺の居場所は、父の国にも母の国にも、どこにもなかった。下位貴族の、異国の妾の子。王国では誰もがそう言って、蔑んできた。お前だけは違ったから、友達になれるかと、思って。ずっと見ていたんだ……。でも、助けてやったのに、お前は俺を見ようともしなかった。だから、腹を立てていたんだ。お前はきっと、それどころじゃなかったんだろうな。悪かったよ……」


 友達なんて要らなかった。

 ただ平穏が欲しかった。

 次第に弱っていく呼吸を繰り返しながら、ユージーンは目を閉じる。


 このまま死んで、ルキルスも死んで、手を握り合った状態で発見されるのは、嫌だな、と思う。

(まるで心中じゃないか……)

 意識が闇に飲まれる最後の瞬間、ユージーンは口元にふと、笑みを浮かべた。











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