34_39:僕が死ぬ日の青い空(7)
船影が頭上の世界を、するすると通り過ぎていく。
その後を、小さな舟の形が追って行った。
(泳ぎ方を知っていれば、舟に乗って、逃げ出せたかな……)
海は想像よりも深く、冷たい水でユージーンの身体を絡め取った。
海面に近い水中でユラユラと揺れる光は、とても美しかったが、そう思ったのは一瞬で、息のできない苦しさにユージーンはもがき始める。
水面に浮かび上がる途中、叫び声が微かに響いてきた。
『船を止めろ! 廻せ!』
消えゆく意識の最後に聞こえたのは、大きな水音だった。
青でできた世界に、ユージーンは漂っていた。
世界は濃い青と薄い青で二分され、その狭間に居るユージーンは、異物だ。
壊れたいと、ユージーンは願った。
自分だとわからなくなるほどに、粉々になって、この美しい世界の青に溶けてしまいたい。
誰かの泣き声が聞こえて、ユージーンは振り返る。
「クロエ……?」
誰の姿も見えなかったけれど、彼は今朝の光景を思い出した。
木製テーブルに置かれたジュースのコップと、皿の上に載ったバゲット。
咽せる妹。
妹の隣で、ニコニコしながら話している、マクシミリアン。
その向かいに座って、弟の話に突っ込みを入れているザイオン。
ジュースのお代わりを注いでくれるルファンジア。
帰りたい。
あの優しい空間に、もう一度戻る事ができたら。
次は、聞いているだけではなくて、何か話してみよう。
面白い話は、できないけれど。
最近少しわかってきた、銃身の掃除の仕方、とか……?
「帰って来い!」
耳元で、煩く叫ぶ声がする。
気持ち良く漂っていたいのに、引きずり下ろされる。
「ユージーン!」
ユージーンは吐いて、咳き込んだ。
苦しい。
「よし! 息が戻った! 戻ったぞ!」
歓声が上がる。
胸が痛い。
息が苦しい。
もう苦しいのは嫌なんだ。
痛いのも嫌いだ。
「死ぬなよ! 俺が悪かった。何度でも謝るから」
何人かが、泣いている。
「俺達、本気じゃなかった。あれは、ストレス発散みたいなもんで」
息ができない。
ずっと、溺れている。
水面の上に出ようと伸ばしたユージーンの手を、誰かが掴んだ。
「頑張れ」
と、その男は言う。
「生きるんだ」
(頑張りたくない。僕は……)
「なんで助けたんだ、馬鹿が」
毒づく声が聞こえる。
「苦しませず、そのまま逝かせてやるべきだったのに。こういう奴を、前にも見た事がある。魂が壊れてるんだよ。何をしたって、ちょっとしたきっかけで、結局は死んでしまう」
(そうか……もう壊れていたのか、僕は)
入れ替わり立ち替わり、誰かが枕元に来ては呪詛のように呟く。
そんなつもりはなかった。
知らなかった。
死ぬ事はねーだろうが。
俺達みんな、あいつに欺されてたんだ。
死んだら美味しいものを食えないぞ?
ごめん、本当にごめん。でも貴族は嫌いなの。
咳き込んで、自分の咳の音にユージーンが目を開けると、そこは部屋の中で、彼はベッドに寝かされていた。窓から夕暮れの空と、甲板の向こうに光る海が見えた。
裸体に掛けられた布から、黒い霧のようなものが立ち上っている。
医療センターで高熱を出している時にも、こうした幻覚を見た事がある。譫妄状態だな、と医師が言った。
つまり今、熱が高いっていう事。
「目が覚めたか? 水を飲めよ。ほら」
誰かがユージーンを抱き起こして、舟のような形をした器の吸い口を向ける。
水が乾いた唇に触れた途端、ユージーンは貪るように水を飲んだ。
飲み終わった後で、また咳き込む。
「心配するな。必ず俺が、無事に帰してやるから」
守られるはずのない約束に、ユージーンは素直に頷く。
息を吸っても吸っても、苦しい。肺がまともに機能していない。海水を吸い込んだせいなのか。荒い息と咳を繰り返しながら、再び意識が混濁していく。
「船を戻してくれ、伯父貴」
懇願する声は、ルキルスのようだった。
「こいつ、死にかけている。俺のせいだ。クヲンのせいでもある。医者に診せないと」
「死なせてやるんだ、ルキルス。あの身体を見ただろう? 死なせてやれ。お前は、俺の後を継ぐんだ。クヲンはもう駄目だ。部族みんなの信頼を失った」
どれだけ息を吸っても、満たされない。
真っ暗な中、死にかけの魚のように、ユージーンは空気を求めた。
咳を一つするたびに、体力が抜け落ちていくのがわかる。
誰かが、ユージーンを抱き上げて、移動していた。
目を開けてみたが、何も見えず、状況が良くわからない。気怠さに、ユージーンは再び目を閉じる。
「苦しいか? 少し我慢してくれ」
上下に、何度か揺さぶられた。
それから、分厚い敷布のようなものの上に、下ろされる。
揺れ方から、舟の上だとわかった。
「ごめんね、ルキ兄。俺、どうしてもあの服が欲しくて。高くて買えなくて、悔しい思いをしていたところに、コイツがロゴ入りのバッグを持って幸せそうに座っていたから、魔が差したんだ」
聞き覚えのある声が、言い訳をしている。
「もういい」
諦めたような声が応じる。
「これからは堅実に仕事をして、みんなの信頼を取り戻せ」
「わかった。食糧と水は積んだからね」
「ああ。舫いを解いてくれ」
ふいに、うめき声と共に、ユージーンのすぐ横に何かが倒れこんできた。
潮の匂いに、鉄錆に似た血の臭いが混ざる。
ユージーンは目を開けた。
ぼやけた視界に、何かがたくさん光っている。
「じゃあね、ルキ兄。もう帰って来なくていいよ。跡目がルキ兄だなんて、冗談じゃねーや。俺の方が、ずっと昔から親父について、船に乗ってきたんだからな! 途中から割り込んできて、何様だよ。あー、お貴族様だったかな? 笑えるわ! ちなみに食糧も水も積んでねーよ残念!」
声が遠ざかっていく。曳航用のチェーンが外され、船だけが行ってしまったのだろう。
「あの……やろ」
ズリズリと、船底を這いずる音がする。
「北の五つ星……を矢で狙う英雄マリウス。色目を使う魔女。に、覆い被さる巨人」
水を勢い良く噴出する音が、断続的に響いた。舟が方向を変え始める。
「巨人の心臓に繋がれた、鎖。鎖を持つ、狩人」
ユージーンは、目の前に広がる夜空の存在に気づいた。驚くほど多くの星が、空にぎっしりと詰まって見えた。さっきから聞こえてくるのは、星座の名前だろう。星座の位置から、進むべき方向を定めようとしているのだ。
やがて舟は、勢い良く水が吹き出す音と、小さな破裂音を伴いながら、一定の方向を目指して、走り始める。
天頂からホロリと零れ落ちるように、星が一条の軌跡を残して消えた。その儚い美しさに、息苦しさも忘れて、ユージーンは見入った。
「綺麗、だろう」
這いずる音が、戻ってきた。
力尽きたように、ユージーンと並んで横たわり、息も絶え絶えに続ける。
「今日は、特に、綺麗だ」
それっきり声が聞こえない。
死んだのかと思って、ユージーンがそっと手を伸ばすと、大きな手に掴まれた。
「大丈夫だ」
後方で噴出する水の音にかき消されそうなほど、小さな声が言った。
「この舟は共和国に向かっている。最新鋭の船舶だから。お前は助かる」
引こうとした手は、阻まれた。
「俺は、友達が欲しかっただけだ。俺の居場所は、父の国にも母の国にも、どこにもなかった。下位貴族の、異国の妾の子。王国では誰もがそう言って、蔑んできた。お前だけは違ったから、友達になれるかと、思って。ずっと見ていたんだ……。でも、助けてやったのに、お前は俺を見ようともしなかった。だから、腹を立てていたんだ。お前はきっと、それどころじゃなかったんだろうな。悪かったよ……」
友達なんて要らなかった。
ただ平穏が欲しかった。
次第に弱っていく呼吸を繰り返しながら、ユージーンは目を閉じる。
このまま死んで、ルキルスも死んで、手を握り合った状態で発見されるのは、嫌だな、と思う。
(まるで心中じゃないか……)
意識が闇に飲まれる最後の瞬間、ユージーンは口元にふと、笑みを浮かべた。
⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈




