35:最終話
「マックス──!!!!!」
滴った血が、周囲に広がっていく。
真っ赤になった彼の頭部は、どこに傷があるのかさえわからない。
止血しなければと、手でまさぐる。
ざっくりと切れた傷は大きくて、片手では覆い切れなかった。
「死んじゃう……いやぁ──誰か……」
全身から、力が抜けていく感じがして、大声が出ない。
「助けて……いやだ……いや──」
泣きながら飛び起きた。
心臓の辺りを両手で押さえ、震えが収まるのを待つ。
また、あの時の夢。
私は、魔王城の自室のベッドで、幾分過呼吸気味になっていた。
どうして、こうなってしまったのか。
後悔してもしきれない。
あの時、もう少し冷静さを保っていたら。
ベッドから降りると、窓を開けて深呼吸する。
季節が移り、少し肌寒い。
日本ほどではないが、この大陸にも四季はある。
今の時期は、初冬ぐらいか。
通年気温が高いのこの拠点では、冬に雪が降ることはないという。
魔王城の南には、天使の館があった。
拉致犯達が捕まって以来無人のままで、静まりかえった荘厳な館に、下弦の月の光がうっすらと落ちている。
庭に放置された彫刻が、物言いたげに見えた。
『あんなにたくさん像があったら、夜に動きそうで怖いよね』
マクシミリアンの言葉を思い出した。
(確かにね)
草むらに潜んでいるらしい虫の、ジー、ジーと低く響く鳴き声が、もの悲しい気分を煽る。
地平には若干薄い雲がかかり、天頂から西の空にかけて、銀河が綺麗に浮き出ていた。その銀河を背景に、星々が賑やかに輝いている様子を、見上げる。
今見えている光は、何億年も前に発せられたものがほとんどだ。寿命を迎えて死んだ星が、光だけ遺しているものもあるに違いない。
小爆発のような音が、聞こえた。
裏庭で、マシュがくしゃみをしたようだ。
開いた窓から入って来ようとした小虫が、ザイオンの仕掛けた障壁に当たって退散していった。空気や音は通すが、外からの生命体は拒絶する。フィルタリングの定義はその都度変更することもできるようだ。一度、記述しているところを見せてもらったが、エルフ古代語ということで全く理解できなかった。
磁場のように、魔力場というものが存在するとしたら、エルフの古代語自体が、魔力場を呼び出す鍵になっているのではないかと思う。
どこからか、微かに嗚咽が聞こえてきた。
真下の部屋だと気づいて、私は窓を閉じ、急いで部屋を出た。
二階に下りて、かつてマクシミリアンが使っていた部屋に向かう。
ちょうど、部屋から出てきたばかりの小柄なエルフと会った。
寝間着姿だったので、私と同じように声を聞いて、起き出してきたのだろう。
彼女と、小声でやり取りした。
「うなされて起きたようだけれど、今、眠剤を飲みましたので」
「ありがとう。ごめんね、世話をかけて」
「いえ。主の家族は、私の家族ですから」
彼女はにっこりして、自分の部屋に戻っていく。
ザイオンを主と呼び、傍系のルファンジアと名乗る彼女は、押しかけるようにしてここに棲み着いた。ザイオンは迷惑そうにしていたが、家賃を支払う上に、無償で雑用を引き受けると押し切られ、仕方なく許可したようだ。
バナナの件は、何度か値段を尋ねたが、伝手で無料だった、と言うばかりで払わせてはくれない。
部屋に入ると、兄がベッドの上でうとうとしていた。
「クロエ」
と、微笑む表情は、すでに夢の中のようだ。
「僕は大丈夫……大丈夫だから」
ベッドに腰掛けて、完全に眠るまで手を繋いでいた。
あの日から、内臓の損傷でしばらく医療センター預かりになっていた兄の身体には、焼きごての痕の他に、骨折痕や、拷問のような痕もあった。
今は身体は良くなったが、もうしばらくは、療養が必要だ。
「おやすみ、お兄様」
囁いて、部屋を出る。
あの日、血だらけのマクシミリアンを抱き締めて、私は何も考えられずに、震えてばかりだった。
第二王子や騎士団団長の嫡男、その他の不随物が何か喚きながら、ガーディアン達に引き摺られていくのを見ても、何も感じなかった。
「痛い……クロエ……」
弱々しく呟いて、マクシミリアンが目を開けた。
幸い、目に損傷は見られない。
「血が、止まらないの」
震える手で、彼の頭の傷を押さえたまま、私は言った。
「どうしよう……止まらないの……」
「ごめんね、クロエ」
マクシミリアンが何を謝っているのか、わからない。
「訊いていいかな……僕のこと、好きかどうか」
「うん、……好きよ。大好きだから……死なないで」
私は堪えきれずに、彼の上に涙を零した。
「良かった」
そう言って、マクシミリアンは目をそっと閉じた。
「死んじゃう……いやぁ──誰か……」
全身から、力が抜けていく感じがして、大声が出ない。
「助けて……いやだ……いや──」
取り乱す寸前、頭上から声が振ってきた。
「いつまでやってるんだ」
ザイオンがかがみ込んで、マクシミリアンの左腕を持ち上げると、ブレスレットを操作した。
あっという間に、怪我が塞がっていく。
流れた血は、そのままだったが。
「あ」
忘れてた。リセット用のブレスレット。
動揺の余り、すっかり忘れてた。
私の涙を返せ。
もっと冷静になれていたら、思い出せたのに。
「この野生児、動体視力が規格外で、人間ごときの太刀筋は完璧に見切るからな。この怪我はわざとだ。致命傷を避けて、血がたくさん出る程度を狙って当たりに行ったんだろう」
ザイオンが、治ったばかりのマクシミリアンの頭を、ペシッと叩いた。
「違う。本当に、やられたの」
マクシミリアンがパカッと目を開けて言った。
「本当に、うっかり」
「さっきクロエが男を抱き締めているのを、羨ましそうに見てたな」
「……」
その辺りから見てたのか、ザイオン。
「では、さっきの会話もリセットで」
「えっ」
「クロエ!」
医療センターのある方角から、白狼ちゃんが走ってくる。
「お兄さん、手術だって! 書類を書かないといけないみたいだから、来て!」
私は、膝の上からマクシミリアンを放り出し、走り出していた。
その後、医療センターで、兄の身体の状態を聞いて、絶句する。
ヨアン保安官が来て、元婚約者が兄に対する傷害で拘置され、他にも取り調べ中、私の拉致計画や、元第一王子の暗殺計画についても、モスタ王国内からの指示があった事が発覚して、国際問題に発展しそうだという話をしていたが、ほとんど上の空でいた。
「死刑にしてください」
よく覚えていないけれど、私はそう言ったらしい。
「死刑にはならないと思うよ?」
ヨアン保安官が苦笑していた事は覚えている。
「でも、エルフ族の重鎮達が、モスタ王国に激怒しているみたいでね。今後は戦争になる可能性もある」
「殲滅してください」
兄の処置が終わるのを待つ間、そればかり無表情で機械的に繰り返していたから、怖かった、と後に白狼ちゃんから聞いた。
ちなみに白狼ちゃんとは、会ったら近況を語るぐらいの友達にはなれた。
クエストについては、彼女の実力が微妙なので、多分一緒には行かない。私が行かなくても、同行を希望する男の子はたくさんいるようだ。
自室のベッドに戻ってみると、マクシミリアンが幸せそうに眠っている。
そっと、髪を掻き分けても、あの時受けた傷は全く残っていない。それでも、悪夢を見た後はなんとなく不安で、確認してしまう。
あの時、もっと冷静になって、さっさとリセットしていたら、あんな風に取り乱したりせず、好きかどうかなんて訊かれても、はぐらかすことだってできた。
何度も夢にみたり、本当に死ななかったのかと不安になる事もなく、兄の介護を理由に、魔王城を出たかも知れない。
いつか、マクシミリアンを主人公とした『物語』のヒロインが現れた時のために、極力彼とは距離を取るつもりでいたのに。
でも、こうなったらもう、取り返しがつかない。
今更距離を取るなんて、できない。
短い留守の間に占領された陣地を取り返すべく、マクシミリアンをぐいぐいと元の場所に寄せてから、私は再びベッドに入った。
「ん」
ぐるん、と寝返りを打ったマクシミリアンが、私を抱き締めてくる。
「もう一回」
と、眠そうな目を開けて言う。
「また明日ね」
そのまま、頭を撫でてやっていると、また寝てくれた。
もしも本当に、ヒロインが現れて、マクシミリアンに近づいてきたら。
私はきっと、彼にばれないようにあの手この手でヒロインを遠ざけて、とても腹黒い、本物の悪役令嬢になるのだろう、という予感がしていた。
ザイオン視点『城に棲まう兄弟』:
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