(3)心が折れました
✦このお話には、暴力的な描写、死の描写などが含まれています。免疫のある方のみ、お進みください。
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「キャアアアァァ」
甲高い声と共に、小さな靴が宙を飛んだ。
これで10回目だ、いい加減にして欲しい、という言葉を飲み込んで、セレディオスは転がった靴を追いかけた。
幼い女の子は、母親譲りの美麗な顔に満足げな表情を載せて、小さな足を差し出す。
「これで終わりだよ、シャル」
履かせてやったそばから、シャルシャ姫は興奮した声を上げ、足をバタつかせた。
「ああ、もう……参ったな」
再び脱げて高く飛んだ靴を、セレディオスが拾いに行く。
シャルシャ姫を抱いたルファンジアがやんわりと言い聞かせる。
「セレディオス様が疲れてしまいますよ、シャルシャ様。もう終わりにしましょうね」
それでもしばらくの間は、靴が宙を飛び、セレディオスがそれを追いかけなくてはならなかった。
***
あれほど無駄で、退屈で、怠惰な時間は、セレディオスの人生では他に存在しなかった。
それなのに時々思い出してしまう。
この世にはもう存在しない、小さな女の子。
(彼女の王配となり、今頃はエルフ族の全てを私が掌握しているはずだった)
直系唯一の血筋であるシャルシャ姫を失った時、エルフ族は混乱した。
何千年も続いてきた直系が途絶えるなど、あってはならないことだとする保守派と、多種族国家としての体制が整いつつある今、エルフ族の王家は過去のものであり、必ずしも直系の血筋を存続させる必要はないとする急進派が争った。
数は少ないながら、形式的に血筋の一番近いセレディオスが直系を継げばいいのではないかと言い出す一派もいた。
だが、直系継承はアレシャト神の思し召しによるものであり、不在だからと安易に親戚筋が継承できるものではない。
直系の血筋を継ぐ者は、特異な魔法権限を有し魔力も1000を超えていなくてはならなかった。
髪の色も耳の形も関係ない。
セレディオスは、いつかアレシャト神に承認され、自分の魔力が倍に増えて、直系を継承する日がくるのではないかと期待していた。
だが、そうはならなかった。
代わりに、最近になって王国からやってきたのがザイオンだ。
彼は従姉妹の美貌をそのまま受け継いでいた。
シャルシャ姫の遺児であることは疑いようもなかった。
相手が男では、セレディオスが王配になる未来はない。
(女性ならどんな手を使ってでも、手に入れたものを)
仕方がなくセレディオスは、自分の家門に連なる女性エルフたちを後宮の要員として集めた。
探ってみれば、ルファンジアも同じ動きをしていた。
このままでは直系の次代王がルファンジアを擁する北の傍系エルフたちの手に渡ってしまう。
先手を取ってセレディオスは、王国がシャルシャ姫を奴隷とし、最後には責め殺したという話を広めた。
その上で、王国人たちと親しくしているルファンジアの解任を長老議会に呼びかけると、あっさりと通った。
そこまではセレディオスの思惑通りに物事が運んだ。
何が直系の血筋であるザイオン王子の気に障ったのか。
セレディオスには理解できなかった。
彼が、母親を殺した王国人を恨んでいるのは確かだ。
入手した保安官事務所での聴取記録を読み解いても、王国からついて来た腹違いの弟を、弟としては認めていないとある。
ザイオン王子は嫌々王国人たちの面倒を見ていたはずだ。
だから彼に寄生している図々しい王国人たちを去らせて、最終的には腹違いの弟も排除する予定だった。
ただ、手荒い方法をとると他の傍系エルフたちにセレディオスの動きを感づかれるかもしれない。
それで、殺すことはせずに田舎へ追い払った。
良い厄介払いができたと、感謝されても良いぐらいなのに。
殴られた左顎を、セレディオスは撫でた。
(私は何を見落としていたんだ……?)
たとえば、追い払った王国人のどちらかがザイオン王子の愛人だった可能性……とか。
(女の方は弟の愛人だったというから、もう一人の男か)
病院で会ったユージーンは、男にしては線が細く、白過ぎる肌をしていた。
男色は、王国の王侯貴族の間では隠れたる高貴な趣味だという話を聞いたことがある。
ザイオン王子が、用意した女たちに興味を示さなかったのはそういうことなのかとセレディオスは腑に落ちた。
(だが……それでは、直系の血筋はどうなるんだ? 誰が次代の王を産んでくれるというのか)
ザイオン王子の気に入るような男たちを後宮に用意しても、子どもが生まれなければ意味がない。
(いや、待てよ……子種さえ得られればなんとかなるかも)
思考が迷走を始めたところで、セレディオスは物音を聞いたような気がして、振り返った。
見覚えのある顔が、彼の座っているソファのすぐ後ろにあった。
そんな馬鹿な、とセレディオスは思った。
天使の館に設置した結界は、そう簡単には突破できないはずだ。
「やあ」
屈託のない笑顔を、銀髪の男は浮かべた。
伸びて来た手が、逃げようとしたセレディオスを掴んだ。
その手は、彼を強く抱き締めた──ブレスレットはそれを攻撃とは認識せず、魔法障壁は起動しなかった。
そして、セレディオスの頭が急角度に捻られた。
ゴリ、という嫌な音が響いた直後、セレディオスの世界は消え失せた。
そんな馬鹿な。
再起動した世界で、セレディオスは再び考えていた。
天使の館に設置した結界はそう簡単には突破できないはずだ。
よほどの魔法使いでないと──たとえば、直系のザイオン王子のような。
「いきなり殺す奴があるか!」
ザイオン王子の怒鳴り声が聞こえていた。
「ゴメンなさい」
泣きながら謝っているのは、彼の腹違いの弟だ。
拳で殴りつけるような、小さな鈍い音が聞こえた。
「ここは王国とは違うんだ。ちゃんとした法律があって、罪人は法律に従って裁かれる。どんなに悪い奴でも、気に入らない奴でも、勝手に殺しちゃいけないんだよ! 俺はコイツなんて擁護するつもりは一欠片もないし、死んで困るとも思っていないが、お前が殺人罪で捕まったら、……恥ずかしくて、外を歩けないだろうが!」
「ゴメンなさい、もうしません」
「お前はいつもそうだ! もうしないと言いつつ、繰り返す! 似たようなことをまたやらかしたら……永遠にクロワッサンは作ってやらん!」
「もう絶対にしませんんん……!」
号泣する声はまるで子どものようだ。
そんなにクロワッサンが好きなのか。
セレディオスは目を開けた。
彼は、さっきと同じソファに座っていた。
死んだ夢を見たような気がする──それが夢ではないと理解したのは、下半身が濡れていたからだ。
死体になった時に弛緩して、粗相したらしい。
(なんということだ──傍系のエルフたる私が)
一度死んで、蘇った。
セレディオスは、その事実を否定せずありのまま受け入れた。
折れた首と共に、心が折れてしまっていた。
ブレスレットをはめていなければ、そしてそのブレスレットを誰かが操作してリセットしてくれなければ、セレディオスはそのまま死の世界に旅立っていた。
魔法で首は元に戻ったが、心はそうはいかない。
セレディオスが身体を起こすと、ソファの後ろに立っていたザイオン王子が振り返った。
「ああ、えっと……うちの馬鹿が失礼した」
彼は、わざとらしい笑みを浮かべた。
「勝手に入った上に、殴って気絶させたらしいが、大丈夫か?」
(気絶ぐらいでは、漏らしたりしません……)
セレディオスは弱々しく微笑んだ。
「大丈夫のようですが、服を汚してしまったので、着替えたいと思います。おいで頂いたのは……ブレスレットのことでしょうか?」
リセット魔法を起動したのはザイオン王子だろうから、今更隠しても仕方がない。
マイロディスめ、と心の中で毒づく。
怪我のせいで、いつものふてぶてしさがないのだと思っていた。
逃げるように急いで出て行ったのは、こうなることをわかっていたからに違いない。
「それもあるな。だが……」
「クロエとユージーンをゆうかいした悪いやつめ……!」
ザイオン王子の足元で蹲っていた銀髪の男が、ぱっと身体を起こして怒鳴った。
彼の顔を見てセレディオスは、身体の中で響いた『ゴリッ』という鈍い音を思い出し、心底震えた。
この男は『死』そのものだ。
ザイオン王子は、『死』を飼っている。
銀髪の男は、拳を構えたザイオン王子に気づいて再び姿勢を低くした。
「ブレスレットをお返しいたしますので、こちらでしばらくの間お待ちいただけますか?」
セレディオスはソファから立ち上がると、濡れたローブの裾を両手で掴んで持ち上げ、惨めな気持ちで退出した。
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