第5話:泥中の取っ組み合い
夜明け前のフランドルは、光を拒絶していた。
灰色の霧が、重く冷たい雨とともに腐った大地にへばりついている。トマス・アシュボーンは、泥に沈み込む革靴の重みと、昨夜の農奴の娘の体温の幻影を両天秤にかけながら、あてのない行軍を続けていた。
視界は最悪だった。前を歩く兵士の背中すら、数十歩も離れれば霧の奥へと溶けていく。周囲を満たしているのは、何千もの足が泥を捏ねる不快な水音と、鎖帷子が軋む擦過音、そして誰かが不意に漏らす湿った咳だけだ。
「若様、兜の紐をきつく締めすぎですよ。いざって時に息が詰まって死にますぜ」
真横を歩くウィルが、小声で忠告してきた。彼の頭には鉄兜すらなく、煮染めたような革の頭巾を被っているだけだ。彼の手には、死体から剥ぎ取った柄の短い手斧が握られていた。
「黙れ。この霧だ、いつどこから矢が飛んでくるか……」
トマスが言い返そうとした、その瞬間だった。
ビュッ! という、空気を鋭く引き裂くような嫌な音が、濃霧の向こうから響いた。
数歩前を歩いていた、名前も知らない小太りの槍兵の首筋から、突如として黒い棒が突き出した。
男は声すら上げなかった。喉の動脈を正確に射抜いたクロスボウの太矢が、彼の命を瞬時に刈り取ったのだ。ドサリと、重い肉の塊が泥の上に崩れ落ちる。傷口から噴き出したどす黒い血が、冷たい雨水と混ざり合い、トマスの足元へ赤黒い川となって流れ込んできた。
「……敵だ! フランスの斥候だ!!」
誰かが狂ったように叫んだ。
それが、地獄の釜の蓋が開く合図だった。
霧の向こう側で、フランス語の怒声が爆発した。馬の嘶き、鉄と鉄がぶつかる音。それに対するイングランド軍の怒号。英雄的な宣戦布告も、整然とした陣形もない。ただ、霧の中で鉢合わせた両軍の斥候部隊が、恐怖のあまりに武器を振り回し始めただけの、泥臭い小競り合いの始まりだった。
「伏せろ!」
ウィルがトマスの膝裏を蹴り飛ばした。トマスが顔面から泥の中に突っ伏した直後、頭上を数本の矢が風切り音とともに通り過ぎていく。
大気が震えていた。単なる斥候同士の遭遇戦は、瞬く間に後続の本隊を引きずり込む巨大な渦へと変貌していたのだ。遠くで、イングランド軍のロングボウ部隊が一斉に弦を放つ、巨大な布を裂くような音が鳴り響く。それに呼応するように、フランス側の重装歩兵の大部隊が、地鳴りを上げて突撃を開始した。
「立て、トマス! 踏み潰されるぞ!」
ウィルが叫ぶが、トマスの身体は恐怖で硬直していた。三十ポンドの鎖帷子が、泥の粘着力と相まって、彼を地面に縫い付けている。
霧が晴れかかった視界の先に、信じられない光景が広がっていた。
無数のフランス兵が、泥を跳ね上げながら津波のように押し寄せてくる。彼らが手にしているのは、優雅な剣ではない。分厚い甲冑を叩き割るためのポールアクス(長柄斧)、肉を削ぎ落とすビル(鉤鎌)、そして骨を砕くウォーハンマーだ。
「ウォォォォッ!!」
イングランド軍の歩兵たちも、半ばパニックに陥りながら前線へと雪崩れ込んでいく。トマスは背後から押し出されるようにして立ち上がり、押し合いへし合いの狂乱の渦へと飲み込まれた。
もはや、戦術も陣形も存在しなかった。あるのは、人間という肉の塊同士の、凄惨な圧死の空間だけだ。
ガチンッ!
真横で、鈍く重い音がした。トマスの隣にいたイングランド兵の兜に、フランス兵のウォーハンマーが直撃した音だった。鉄がひしゃげる不快な音とともに、兜の隙間から脳漿と眼球が飛び出す。男は崩れ落ちる間もなく、背後の味方から押し出され、立ったまま絶命して肉の壁の一部となった。
「ヒィッ……!」
トマスは無我夢中で腰のロングソードを抜こうとした。しかし、密集しすぎた乱戦の中では、剣を振り被る空間すらない。前後左右から凄まじい圧力がかかり、肋骨が軋む。息ができない。周囲には汗と血、そして排泄物を漏らした悪臭が充満し、酸欠と恐怖で視界の端が白く明滅し始めた。
これが戦争か。
こんな泥の中で、誰の目にも留まらず、ただの肉壁として圧死するのか。
その時、突如として前方の圧力がフッと抜けた。イングランド軍の長槍部隊が側面からフランス軍の陣形を崩したのだ。肉の壁が崩れ、トマスは前方の泥溜まりへと転がり出た。
むせ返りながら顔を上げたトマスの目に、一人のフランス兵が映った。
トマスと同じような、汚れた鎖帷子と凹んだ兜を被った大柄な男。男の目には、明らかな殺意と、トマスと同じだけの「死への恐怖」が宿っていた。
男が咆哮を上げながら、柄の短い戦斧を振り下ろしてくる。
トマスは咄嗟に泥の中を転がり、一撃を避けた。斧が泥を深く抉り、冷たい泥水がトマスの顔面に跳ねる。トマスは這いつくばったまま、腰のロンデル・ダガー(円盤鍔の短剣)を抜き放ち、男の足首に向けて突き出した。
「グギャッ!」
刃が革靴を貫通し、肉を裂く手応え。しかし、フランス兵は痛みに狂い、そのままトマスの上に重い巨体を浴びせかけてきた。
二人は泥濘の中で組み合い、完全に獣の取っ組み合いとなった。
騎士道精神など、この泥の中には微塵もない。男の汗と、古い脂の臭いが鼻を突く。トマスは男の斧を持った腕を必死に両手で押さえ込むが、男の怪力にじりじりと押し込まれていく。
男の空いた左手が、トマスの兜の面頬を乱暴に掴み、無理やり引き上げようとする。隙間から、男の剥き出しの歯と、充血した目が見えた。男は腰から刃渡りの短いナイフを抜き、トマスの面頬の隙間、あるいは鎖帷子の繋ぎ目である首元(ゴルゲットの隙間)を探り当てようと、狂ったように刃を押し当ててくる。
ガリガリッ! と、鉄と鉄が擦れる凄まじい音が耳元で響く。
刃先が首の皮一枚のところで鎖帷子のリングに引っかかり、止まっている。男の体重がナイフに乗る。リングが一つ、また一つと弾け飛ぶ音がした。
死ぬ。
トマスの肺から酸素が消え、視界が急速に暗転していく。昨夜の娘の温もりなど、もはや思い出す余裕すらなかった。あるのは、喉元に迫る冷たい死の感触だけだ。
その刹那。
男の頭上、灰色の空を背景にして、泥まみれの小柄な影が跳躍した。
「死ねや、クソ野郎!!」
ウィルだ。
彼はどこに潜んでいたのか、戦場の死体の陰からネズミのように飛び出すと、男の背中に馬乗りになった。そして、彼が両手に握りしめていたもの――それは武器ではなく、戦場に転がっていた馬の糞と、血の混じったヘドロのような泥の塊だった。
ウィルは、その汚物の塊を、男の兜の面頬の隙間、両目の部分に向かって力任せに叩き込み、さらに指を突っ込んでグリグリと擦り付けた。
「アァァァァッ!!? 目が、目がァッ!!」
フランス兵は、目の中に泥と糞尿を擦り込まれた激痛と嫌悪感に、ナイフを取り落とし、顔を掻きむしりながら絶叫した。男の体重の抑えが、一瞬だけふっと軽くなる。
「今だ、トマス!! 殺せ!!」
ウィルが男の背中にしがみついたまま、血を吐くような声で叫んだ。
トマスは、その瞬間の自分の行動を、生涯忘れることはなかった。
考えるよりも先に、生存本能が肉体を動かしていた。トマスは泥の中で自身のロンデル・ダガーを握り直すと、男の喉元――兜と胴鎧の間の、わずかに露出した急所――に向かって、全身の体重を乗せてダガーを真上へと突き上げた。
ズブッ
分厚い布と、肉と、軟骨を貫く、ひどく生々しい感触が右手に伝わった。
ダガーの刃は、男の喉仏の下から侵入し、気管と頸動脈を完全に切断して上顎の骨にまで達していた。
男の絶叫が、空気の漏れるような「ヒューッ」という不気味な音に変わる。次の瞬間、切断された動脈から、沸騰するような熱い血の飛沫が、トマスの顔面を至近距離からまともに打ち据えた。
鉄の匂い。生の匂い。
男の巨体が痙攣し、トマスの上に重く、完全に生命活動を停止した肉塊となって崩れ落ちる。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
トマスは、男の死体の下敷きになりながら、息をしようと口を大きく開けた。顔にへばりついた温かい血が、冷たい雨に洗われて泥の中に溶けていく。
ウィルが男の死体を蹴り飛ばし、トマスの腕を掴んで強引に引き起こした。
「立て! まだ終わってねえぞ!」
周囲の景色が、スローモーションのようにトマスの目に映った。
イングランド軍の騎兵部隊が、泥を跳ね上げながらフランス軍の側面を食い破り、戦況は一気にイングランド側の優勢へと傾いていた。フランス兵たちはパニックに陥り、武器を捨てて泥の中を這いつくばりながら逃げ惑っている。それを追う味方の兵士たちが、逃げる背中に容赦なく斧や槍を突き立てていく。
もはや戦いではなく、ただの屠殺場だった。
「勝った……のか?」
トマスは、自身の右手に握られた、血まみれのロンデル・ダガーを見つめた。手が、いや、全身が、瘧のように激しく震えている。
人を殺した。剣術の試合でも、名誉ある一騎打ちでもない。泥と糞に塗れ、目潰しという卑劣な手段で隙を作らせ、獣のように喉笛を掻き切って。
それが、トマス・アシュボーンという騎士の初陣の、完全な真実だった。
「若様」
ウィルが、トマスの肩を強く叩いた。彼の顔もまた、泥と他人の血で誰だか分からないほどに汚れていた。だが、その目には、狂気じみた歓喜の炎が燃え盛っていた。
「俺たち、生きてますよ。あの地獄のミキサーの中で、息をして立ってる」
「ああ……」
トマスの口から、乾いた笑い声が漏れた。
一度漏れ出した笑いは止まらなくなった。騎士の矜持も、家名の重圧も、今の彼らには何の意味も持たなかった。
ただ、「今、自分は生きて呼吸をしている」というその圧倒的な生物としての事実だけが、脳髄を強烈に麻痺させるような多幸感をもたらしていたのだ。
「ハハッ、ハハハハハッ!! 生きてる! 俺たちは生き残ったぞ、ウィル!!」
トマスは、周囲に転がる無数の死体にも構わず、血塗られた短剣を放り投げ、泥だらけの両腕を天に向かって突き上げた。
冷たいフランドルの雨が、開いた口の中に落ちてくる。それは、どんな高級な葡萄酒よりも甘美な、生の味だった。
身分も、過去も、未来も関係ない。
イングランドの没落小貴族と、底辺の農奴の倅は、死臭と排泄物の臭いが充満するこの広大な泥の海の中で、ただ互いの存在だけを証明するように、狂ったように笑い合った。
彼らの足元には、つい先ほどまで生きていたフランス兵の死体が、ただの肉の塊として静かに泥に沈んでいく。それが、中世という残酷な時代が用意した、彼らの「青春」の風景であった。




