第6話:赤痢と麦角(ばっかく)
血と泥の狂宴が過ぎ去った後、フランドルの平原には、ただ静寂と肉の腐るような生温かい悪臭だけが残されていた。
灰色の霧が風に流され、ぬかるんだ戦場の全貌が露わになる。そこかしこに転がる、つい数時間前まで息をしていた者たちの無残な姿。腹を割かれ、内臓を泥に引きずり出した馬。折れた槍の柄。死体から甲冑を剥ぎ取ろうと群がる、カラスと輜重隊の女たち。
「おい、若様。こいつを見なせえ」
トマスは、自身が喉笛を掻き切ったフランス兵の巨体の傍らで、膝をついたまま荒い息を繰り返していた。顔にこびりついた血はすでに乾燥し、皮膚を引き攣らせている。
ウィルは死体の頭を乱暴に蹴り退けると、男の胴鎧の下を探り始めた。ナイフで血まみれのサーコートを切り裂くと、その下から現れたのは、平民の兵士が着るような粗末な麻布ではなかった。
「……絹だ。それに、この紋章の刺繍。ただの歩兵じゃねえぞ」
ウィルの声が、微かに上ずっていた。彼の手が男の腰の革袋を引き千切り、中身を泥の上にぶちまけた。
チャリン、という、この泥沼には似つかわしくない高く澄んだ音が響いた。
「銀貨だ……! それに、見たこともねえ上等な銅貨も混ざってやがる」
泥の上に散らばったのは、六枚の真新しいフランス銀貨と、無数の銅貨、そして銀細工が施された小さなダガーだった。男は、フランス軍の斥候部隊を率いていた小隊長であり、名を連ねるほどの家柄ではないにせよ、れっきとした地方貴族だったのだ。
トマスは、泥にまみれたその銀貨を見つめた。
先ほどまでの、人を殺したという生々しい手の震えと、己が死ぬかもしれないという圧倒的な恐怖。それらが、銀貨の鈍い輝きを見た瞬間、嘘のように胃の奥へと沈んでいくのを感じた。
代わりに湧き上がってきたのは、黒く、粘り気のある「欲望」だった。
「……戦争ってのは」
トマスの口から、ひび割れた声が漏れた。
「勝てば、儲かるんだな」
「その通りだ、マイ・ロード! 大した手柄じゃねえが、こいつの首飾りも、この上等な革靴も、全部俺たちのモンだ!」
ウィルは狂喜し、手早く死体から金目のものを剥ぎ取っていく。トマスもまた、泥に這いつくばり、自分の爪の間に泥と他人の血を詰め込みながら、一枚一枚銀貨を拾い集めた。
騎士道精神など、吟遊詩人の戯言だ。敵に敬意を払い、捕虜として丁重に扱うなど、あの温かいベッドで眠る大貴族の道楽に過ぎない。現実の戦場は、殺した者のポケットを探り、奪い取った銀貨で自分の命の値段を釣り上げる、ただの巨大な屠殺場兼市場なのだ。
二人は、血まみれの泥の中で、顔を見合わせて笑った。
それは、初めて「戦争の味」を知った若き獣たちの、浅ましくも力強い、生者の笑い声だった。
イングランド軍の野営地に戻った二人は、さっそく奪い取った銅貨を数枚使い、輜重の商人から「特別配給」のパンと、水で薄められていない安ワインを手に入れた。
いつもの、石のように硬くゾウムシが這い回る海軍ビスケットではない。表面が少し黒ずんでいるが、ふっくらとしたライ麦の丸パンだ。
「初陣の勝利と、この美しい銀貨に乾杯だ」
雨を避けるために潜り込んだ荷馬車の下で、トマスはワインの入った革袋を掲げた。ウィルがニヤリと笑い、自分の木のジョッキを打ち付ける。
「若様のダガー捌き、見事でしたぜ。あの豚野郎、首から噴水みたいに血を吹いてやがった」
「お前の目潰しがなければ、今頃俺の腸が泥の肥料になっていたさ。……よくやった、ウィル」
トマスがそう言うと、ウィルは少し驚いたような顔をし、やがて鼻で笑いながらパンを大きく千切った。
身分という壁は、確かにある。しかし、死の境界線を共に越え、他人の血と泥に塗れながら命を拾い合った今日、二人の間には「主従」という言葉では括りきれない、奇妙な共犯関係が結ばれていた。ウィルにとってトマスは「銀貨を稼ぐための刃」であり、トマスにとってウィルは「生き延びるための目と耳」だった。
「食いなせえ、若様。腹が減ってちゃ、明日の略奪に遅れをとりますよ」
ウィルに促され、トマスはライ麦パンを大きく齧った。
酸っぱい匂いがした。パンの断面には、黒紫色に変色した奇妙な斑点がいくつも広がっている。麦角菌――長雨と湿気により、ライ麦に寄生した有毒なカビの塊だ。
しかし、極度の疲労と飢え、そして初めての「戦利品」による高揚感で麻痺していたトマスの脳は、その危険信号を完全に無視していた。赤ワインで流し込むと、カビの酸味すらも贅沢な味に思えた。
トマスは、黒紫色の斑点にまみれたパンを、最後の欠片まで胃袋へと詰め込んだ。
それが、新たなる地獄の引き金になるとも知らずに。
異変は、深夜に訪れた。
雨音が荷馬車の幌を叩く単調な音の中で、トマスは唐突に目を覚ました。
暑い。
フランドルの秋の夜は、骨の髄まで凍えるほど冷たいはずだ。しかし、トマスの全身は、まるで燃え盛る暖炉の中に放り込まれたかのように、異常な熱を帯びていた。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
呼吸をするたびに、肺の中で火の粉が舞っているような痛みが走る。
トマスは身を起こそうとしたが、手足が鉛のように重く、思うように動かない。それどころか、指先から手首、そして腕の血管を伝って、無数の焼け火箸を押し当てられているような激痛が這い上がってきた。
「うっ……アァァッ……!」
呻き声を上げながら、トマスは自身の腕を掻きむしった。皮膚の下で、何かが蠢いている。血ではない。熱く煮えたぎった鉛が、静脈の中を逆流しているのだ。
麦角中毒――中世において「聖アンソニーの火」と呼ばれ恐れられた、カビによる猛毒の症状だった。神経が破壊され、血管が収縮し、やがて四肢が黒く壊死して崩れ落ちる死の病。
「若様……? どうしやした」
隣で丸まっていたウィルが、異変に気づいて身を起こした。
トマスがウィルの方へ顔を向ける。その瞬間、トマスの視界が、ぐにゃりと奇怪な形に歪んだ。
ウィルの顔が、ない。
ウィルの首の上には、今日トマスが喉笛を掻き切ったフランス兵の、血まみれの顔が乗っていたのだ。男は目をひん剥き、切断された喉の傷口からゴボゴボと血の泡を吹き出しながら、トマスに笑いかけていた。
『銀貨は……返してもらうぞ……イングランドの豚め……』
「ヒッ……!! クルナッ!!」
トマスは絶叫し、ウィル(フランス兵の幻影)から逃れるように荷馬車の下から這い出した。
泥の海に飛び出したトマスを待っていたのは、完全な狂気の世界だった。
野営地の色彩が反転する。冷たい雨は空から降る血の雫に変わり、足元の泥は、無数の亡者たちが身をよじる巨大な肉の沼へと変貌していた。
遠くで焚かれている野営地の焚き火。その炎が、異常なほど巨大に、そして妖しい紫色に燃え上がって見える。
『ここへおいで……炎の中なら、蛆虫は燃え尽きる……』
炎の中から、女の声が聞こえた。
ジャンヌ・ダルク。見たこともない「魔女」の姿が、炎の中で揺らめいている。彼女は全裸で、燃え盛る十字架に磔にされながら、トマスに向かって優しく微笑みかけていた。
「熱い……! 体の中が燃えている!! 皮膚の下を、虫が這っているんだ!!」
トマスは狂乱し、自身の顔を、首を、腕を、爪が剥がれるほどの力で掻きむしった。血が滲み、肉が裂けても、皮膚の下を這い回る「熱い虫(麦角の神経毒)」の幻覚は消えない。
浄化しなければ。
この体を、あの魔女の炎で焼き尽くし、血管の中の虫を殺さなければ。
「炎だ……! 火に入れば、楽になる……!!」
トマスは、虚ろな目を見開きながら、フラフラとした足取りで、野営地の中央にある巨大な焚き火へと向かって歩き出した。彼の瞳孔は完全に開ききり、理性の光は微塵も残っていなかった。
「トマス!! てめえ、狂ったのか!!」
背後から、泥を蹴り立ててウィルが追いついてきた。
ウィルはトマスの肩を掴み、力任せに引き倒そうとした。しかし、麦角の幻覚と熱病によってリミッターが外れたトマスの力は、火事場の馬鹿力となってウィルを容易く跳ね飛ばした。
「触るなァァッ!! 悪鬼め!! 俺の銀貨は渡さない!!」
トマスは振り返り、ウィルに向かって腰の剣を抜こうとしたが、手が震えて柄を掴めない。代わりに、泥まみれの拳でウィルの顔面を殴りつけた。
ゴッ、という鈍い音がして、ウィルが泥の中に吹き飛ぶ。口から血を吐き出しながら、ウィルは信じられないものを見る目でトマスを睨んだ。
「この、イカレ野郎が……!」
トマスは再び焚き火へと向き直った。炎の熱気が、数歩先まで迫っている。魔女が腕を広げて待っている。あの中に入れば、この地獄のような苦しみから解放されるのだ。トマスは、恍惚とした表情で、炎へとその身を投げ出そうとした。
その直前。
泥の中から弾かれたように飛び起きたウィルが、トマスの背後から獣のように飛びかかった。
ウィルはトマスの首に腕を巻き付け、無理やり引き倒す。二人は泥の中に転がり、もつれ合った。
「離せ! 燃やさなきゃならないんだ!! 俺の体の中に虫が!!」
「目ェ覚ませ、クソ貴族!! 虫なんかどこにもいねえ! カビたパンに当たっただけだ!!」
ウィルは、暴れ狂うトマスの上に馬乗りになった。
トマスの目は焦点が合わず、口からは泡を吹き、全身を弓なりに反らせてウィルを振り落とそうとしている。その力は凄まじく、ウィルの細い腕では抑えきれない。このままでは、トマスは間違いなく火に飛び込んで焼け死ぬか、暴れて心臓が破裂する。
ウィルは、トマスという男を見下ろした。
こいつは、没落したとはいえ貴族だ。自分のような農奴を、平気で盾にするような冷酷な世界に生きている。こいつが死ねば、銀貨は全て自分のものになり、従者という鎖からも解放される。こいつを見捨てて、闇夜に紛れて逃げ出すことなど、造作もないことだ。
だが。
(……一人じゃ、この泥沼は生き残れねえ)
今日の昼間、フランス兵の喉笛を掻き切ったトマスの狂気に満ちた目を思い出す。あの時のトマスは、紛れもなく自分と同じ「底辺を這う獣」だった。綺麗事を並べる騎士ではなく、泥に塗れて生きることを選んだ共犯者。
こいつは、俺の剣だ。こいつが死ねば、俺も明日には誰かの槍に貫かれて死ぬ。
「死なせてたまるかよ……俺の『金づる』が!!」
ウィルは、自身の右の拳を高く振り上げた。
農作業と、スリと、戦場での死体漁りで鍛え上げられた、硬く、骨ばった拳。
ウィルは、一切の手加減をせず、幻覚に狂うトマスの顎の先端に向かって、その拳を垂直に叩き落とした。
ガキッ!!
骨と骨が激突する、凄まじい破砕音が夜の雨に響いた。
トマスの頭が泥の中に深くめり込む。脳髄が激しく揺さぶられ、脳幹のスイッチが強制的に切断された。
ビクンッ、とトマスの全身が一度だけ大きく痙攣し、その後、糸が切れた操り人形のように、全ての力が抜け落ちた。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
ウィルは、白目を剥いて完全に気絶したトマスの上で、血の滲んだ右拳を抑えながら荒い息を吐いた。雨が、二人の熱を冷ますように、容赦なく降り注ぐ。
ウィルはトマスの胸に耳を当てた。心臓は、異常な早鐘を打ってはいるものの、確実に動いている。
「……手間かけさせやがって、バカ若様が」
ウィルは泥を吐き捨てると、意識のないトマスの腕を引きずり、焚き火の熱が届かない、元の荷馬車の下へと重い身体を運び始めた。
泥の海を、二人の男の軌跡が這うように伸びていく。それは、どんな美しい騎士道の物語よりも生々しい、生き抜くための這いずり回るような闘いの痕跡だった。
翌朝。
フランドルの空は、相変わらず陰鬱な灰色だった。
トマスは、激しい頭痛と、顎を砕かれたような激痛で目を覚ました。
視界はぼやけ、全身の筋肉が軋むように痛む。口の中は血と泥の味がした。
ゆっくりと首を巡らせると、自分の両手首が、荷馬車の車輪のスポークに麻縄で縛り付けられていることに気づいた。
「……お目覚めですか、眠り姫」
すぐ傍らで、ウィルがナイフで木片を削りながら冷ややかに言った。彼の右目は青紫色に腫れ上がり、唇の端が切れている。トマスが殴った痕だ。
「ウィル……俺は……」
「カビたライ麦を食って、魔女の幻覚でも見たんでしょう。火の中に飛び込もうとして大暴れしたんで、少々『手荒な鎮静剤』を打たせてもらいましたよ。顎の骨が折れてねえだけ、感謝してくだせえ」
トマスは、顎に走る鈍痛の意味を理解した。ウィルに殴り倒されたのだ。
昨夜の狂気の記憶が、断片的に蘇ってくる。血を吹くフランス兵。燃える魔女。皮膚の下を這う熱い虫。そして、炎に向かって歩き出した自分を、必死の形相で引き倒したウィルの姿。
「……お前が、止めてくれたのか」
「勘違いしないでくだせえ。若様が死んだら、俺の給金も、あの銀貨もパアになっちまう。若様には、もっと働いて稼いでもらわなきゃならねえんでね」
ウィルはそう言い捨てると、トマスの手首を縛っていた縄をナイフで切り裂いた。
トマスは泥の上に身を起こし、自身の震える手を見つめた。
昨日の昼間、この手で人を殺し、銀貨を手に入れて歓喜した。しかし、その夜にはカビたパン一つで狂気に陥り、惨めに這いつくばった。
戦争とは、死とは、かくも呆気なく、そして理不尽なものなのだ。騎士の誇りも、銀貨の輝きも、泥とカビの前では何の意味も持たない。
「……すまなかったな、ウィル」
トマスが低く呟くと、ウィルはナイフの手を止め、怪訝そうにトマスを見た。
「貴族様が、農奴に頭を下げるモンじゃありませんよ。気味が悪い」
「俺はお前を殴った。お前は俺を殴って、命を救った。……それだけのことだ。この泥の中じゃあ、それが一番の真実らしい」
トマスはゆっくりと立ち上がった。体中が痛むが、頭の中の霧は晴れていた。
トマスの目つきが変わっていることに、ウィルは気づいていた。初陣前の怯えも、昨日の虚栄心も消え失せている。そこにあるのは、底知れぬ泥沼の深さを知り、それでもなお這い上がろうとする、冷たく研ぎ澄まされた生存者の目だった。
「さあ、武具を手入れしろ、ウィル。あのフランス兵のダガーは俺が使う。……今日も、稼ぎに行くぞ」
トマスの言葉に、ウィルは腫れ上がった顔で微かに笑みを浮かべた。
「御意のままに、マイ・ロード。俺はしっかり背中を見張っててやりますよ。若様がまた、狂って火に飛び込まねえようにな」
二人は、互いの泥だらけの顔を見据えた。
主と従者。貴族と平民。
その見えない壁は依然として存在している。しかし、その根底には、血と泥と痛みを共有した者たちだけが持つ、鋼のような絆が確かに結ばれ始めていた。
冷たい朝の雨が、野営地を洗い流していく。遠くで、再び進軍を告げる角笛が、低く、陰惨に鳴り響いた。




