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The Silver Spur -銀の拍車-  作者: 光闇居士-Twilight Master
第一章:泥濘のフランドルと肉の匂い

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第4話:銅貨三枚の温もり

フランスの雨は、天からの慈雨ではない。それは大地を腐らせ、人間の尊厳をゆっくりと溶かしていく冷酷な酸だった。


ルーアン郊外の野営地は、日没とともに完全な暗黒と泥の海に沈んだ。所々で焚かれる湿った薪の火が、病的な緑色を帯びた煙を上げ、泥濘でいねいに足を取られてうずくまる兵士たちの影を、まるで地獄の亡者のように長く歪ませている。


トマス・アシュボーンは、沈みかけた輜重馬車しちょうばしゃの車輪の陰で、ガチガチと鳴る自身の歯の音を聞いていた。


明日、部隊は南へ動く。偵察隊の報告によれば、数マイル先でフランス軍の先鋒と接触する可能性が高いという。初陣だ。名誉ある騎士としての初陣。しかし、トマスの胃の腑を支配しているのは、高揚感でも武者震いでもなかった。

圧倒的な、死への恐怖である。


ジョン・タルボットの冷酷な処刑を見せつけられ、赤痢で腸を吐き出しながら死んでいく古参兵を看取った今日、トマスの内側にあった「騎士道」という名の薄っぺらなメッキは完全に剥がれ落ちていた。


死ぬ。明日の夕暮れには、自分はあの泥の中に顔を突っ込み、名もなきフランス農民の錆びた槍で腹を割かれて、臓物をぶちまけて死んでいるかもしれない。その確信に近い呪いが、氷雨よりも冷たくトマスの骨髄を凍らせていた。


「若様。震えが止まらねえみたいですね」


暗がりから、泥を跳ね上げる音とともにウィルが戻ってきた。その手には、雨除けの麻袋が握られている。ウィルの目は、夜の野犬のようにギラギラと光っていた。彼もまた、明日の死の気配を敏感に嗅ぎ取っているのだ。


「……寒いだけだ」


「強がらなくていいですよ。俺だって、小便を漏らしそうですからね」


ウィルはそう言うと、麻袋の中から一枚のぼろ布を引きずり出した。いや、布ではない。それは、人間だった。

輜重隊の後ろをついて回る、農奴の娘だ。

年齢はトマスたちと変わらないか、少し下だろう。雨と泥に塗れ、髪は藁のように絡みついている。しかし、焚き火の微かな明かりに照らされたその輪郭には、戦場には不釣り合いなほどの、生々しい純朴さが残っていた。


「見なせえ。輜重隊の親父どもが目を離した隙に、交渉してきました。……銅貨三枚だ。俺が二枚出す。若様、残りの一枚を持ってますね?」


ウィルの言葉に、トマスは息を呑んだ。

娘は、怯えるでもなく、ただ虚ろな目でトマスを見つめていた。彼女もまた、この泥沼の底で、パンの切れ端のために自分の肉体を切り売りして生き延びている獣の一匹だった。


「こんな泥の中で……」


「泥の中だからですよ!」


ウィルが低く、しかし叩きつけるように言った。


「明日、俺たちは死ぬかもしれない。死体になっちまえば、銅貨も、騎士の誇りも、何もかも泥の肥やしだ。死にたくなければ、今、自分が生きてるってことを骨の髄まで叩き込むしかねえんです。この『温もり』でな」


トマスは震える手で、革袋の底にへばりついていた最後の銅貨一枚を取り出した。ウィルが差し出した二枚の銅貨と合わせ、泥まみれの手のひらの上で三枚の硬貨が鈍く光る。ウィルはそれを娘の手に握らせた。

娘は硬貨の冷たい感触を確かめると、無言のまま、身につけていた粗末な麻の貫頭衣をゆっくりと引き上げた。


暗惨たる灰色の世界に、突如として放り出された圧倒的な「生」の色彩。

冷たい雨に打たれ、粟立つ蒼白い太もも。泥に汚れた手で無造作に露わにされた、小ぶりだが豊かな乳房。その先端は寒さで硬く縮こまり、微かに震えている。

泥と鉄と排泄物の臭いしかしないこの地獄で、彼女の肌からは、雨に濡れた土の匂いと、微かな汗、そして若い雌の匂いが立ち昇った。それは、トマスの内側で凍りついていた恐怖を、一瞬にして焼き尽くすほどの強烈な熱量を持っていた。


「……先に行きなせえ、マイ・ロード。俺は見張りを兼ねて、背中を向けてますよ」


ウィルはそう言い残し、馬車の車輪の反対側へと姿を消した。身分は違えど、明日の死を前にした同胞としての、彼なりの最大の譲歩であり、共犯の誘いだった。


トマスは、泥の中に膝をついた。

錆びついた鎖帷子チェーンメイルが鈍い音を立てる。彼は娘の細い肩を掴み、その身体を引き寄せた。

温かい。

狂おしいほどに、温かい。

トマスは、騎士としての優雅な振る舞いなど完全に忘れ去り、飢えた獣のように娘の乳房に顔を埋めた。冷たい泥水が顔を伝う中、唇に触れる柔らかな肉の感触だけが、この世界で唯一の真実のように思えた。

娘の肌には、焚き火の煤と泥がこびりついている。しかし、その汚れこそが、彼女がこの残酷な世界を生き抜いている何よりの証明だった。トマスは彼女の太ももに手を這わせ、乱暴に広げた。冷え切った泥の上に、二人の体温が混ざり合い、白い湯気が立ち昇る。


「……あ……っ」


娘が小さく、感情のない声を漏らした。

トマスは、ただひたすらに自身の恐怖を打ち消すように、腰を打ち付けた。愛でも、情欲ですらない。それは祈りに近い、必死の逃避だった。

明日死ぬかもしれない。明日の夕方には、この肉体は冷たい肉塊に変わっているかもしれない。だから今、この瞬間だけは、生きて、熱を発し、血をたぎらせていたい。

娘の背中は冷たい泥にまみれ、トマスの纏う冷たい鎖帷子が彼女の乳房を無情に擦り上げる。それでもトマスは止まれない。彼女の首筋に顔を押し当て、泥と汗に塗れた髪の匂いを肺の奥深くまで吸い込んだ。娘の腕が、トマスの背中――冷たい鉄の網目――に力なく回される。


その細い腕の感触に、トマスの目から熱いものが溢れ出した。雨水に混ざって、とめどなく涙が流れ落ちる。声を殺し、獣のように喘ぎながら、トマスは自分の中の恐怖と絶望のすべてを、彼女の温かい胎内へとぶちまけた。

泥の中に、短い、しゃがれた吐息が溶けていく。


トマスが虚脱感とともに身体を離すと、娘は無表情のまま泥の中に横たわっていた。その白い太ももには、トマスの残した熱と、泥の汚れが痛々しく混ざり合っている。

トマスは荒い息を吐きながら、自身の衣服を整え、立ち上がった。足元の泥が、再び冷たく現実の重みを主張し始める。


「……終わりましたか」


車輪の陰から、ウィルが音もなく現れた。その顔には、普段の軽薄な笑みはない。ただ、飢えた狼のような鋭い目が、泥に横たわる娘の白い肌を捉えていた。


「ああ。……お前の番だ」


トマスが背を向けると、ウィルは無言で娘の元へと膝をついた。

ウィルのやり方は、トマスのそれとは違っていた。農民として底辺を這いつくばってきたウィルは、この娘と根源的に同じ世界の住人だ。彼は娘の泥だらけの頬を粗末な手で乱暴に拭うと、その唇を塞いだ。


背後で、布が擦れる音と、濡れた泥が跳ねる湿った音が響く。

トマスは雨に打たれながら、遠くの暗闇を見つめていた。ウィルの荒々しい息遣いと、娘の抑えられた小さな声が聞こえる。それは、美しさなど欠片もない、生き物としての剥き出しの交尾だった。

しかし、不思議と嫌悪感はなかった。むしろ、ウィルが娘に自身の熱を叩きつけているその音を聞くことで、トマスは奇妙な連帯感と安堵を覚えていた。

高潔な騎士と、卑しい従者。その絶対的な身分の壁が、この泥濘の中、銅貨三枚で買った名もなき娘の温もりを介して、完全に溶け合っていた。彼らは今、全く同じ次元で、同じ死の恐怖に怯え、同じように生にすがりつく、ただの二匹の若き獣だった。


やがて、ウィルの荒い息が止まった。

衣擦れの音がして、ウィルがトマスの隣に戻ってくる。その顔には、先ほどまでの焦燥感は消え、代わりに深い虚無と、一抹の諦観が張り付いていた。


「……生きてるってのは、面倒なもんですね」


ウィルが、雨を顔で受けながらポツリと呟いた。


「ああ」


トマスは短く答えた。


娘は、泥の中からゆっくりと身を起こした。銅貨三枚を麻布の帯の奥深くにしまい込み、泥だらけになった貫頭衣を下ろす。彼女は何も言わず、ただ一度だけ、虚無の底にある深い理解を含んだ目で二人の若き兵士を見つめ返すと、足を引きずりながら、再び輜重隊の暗闇の中へと消えていった。

彼女がいた場所には、踏み荒らされた泥と、わずかな体温の残像だけが残された。


冷たい氷雨が、再び容赦なく二人の身体から熱を奪っていく。

恐怖が完全に消え去ったわけではない。明日の戦場は、確実に彼らを待ち受けている。しかし、あの娘の太ももの温もりと、乳房の柔らかな感触、そして肺を満たした汗の匂いは、呪いのように絡みついていた死の気配を、確かに一時だけ弾き飛ばしていた。


「行くぞ、ウィル。武器の手入れだ」


「へえへえ。錆びた剣でも、磨けば少しは血を吸いやすくなるでしょうよ」


泥と精液と汗に塗れた二人の若者は、肩を並べ、暗惨たる野営地の奥へと歩き出した。

彼らの足取りは、数時間前よりもわずかにだが、確かに地面を強く踏みしめていた。栄光のためではない。神のためでもない。ただ、明日もあの生々しい泥の中を息をして這い回るために。


フランスの夜は、果てしなく暗く、そして底なしに冷たかった。

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