第3話:ルーアンのぬかるみ
フランスの大地は、彼らを歓喜で迎えることなどなかった。ただ、底なしの泥の海が、口を開けて待ち受けていた。
ルーアン郊外に広がるイングランド軍の野営地は、およそ人間の住処とは呼べない代物だった。数千の兵士と馬、そして彼らを支える輜重隊が踏み荒らした大地は、連日の冷たい秋雨によって完全に液状化していた。足を踏み出すたびに、ズブズブという不快な音と共に、冷たい泥水が脛まで飲み込んでいく。
漂ってくるのは、雨に濡れた羊毛の饐えた匂い、薪の不完全燃焼による煙、そして何千人もの人間と獣が垂れ流す排泄物の強烈なアンモニア臭だ。それらが低い灰色の空の下で逃げ場を失い、野営地全体を分厚い瘴気となって覆っている。
「これが……王の軍勢か」
トマスは、泥濘に足を取られながらも、周囲の惨状に息を呑んだ。
立ち並ぶ天幕は泥に汚れ、雨漏りを防ぐために継ぎ接ぎだらけになっている。焚き火の周りにうずくまる兵士たちの顔には、栄光への希望など微塵もない。落ち窪んだ両目には疲労と飢え、そして見えない敵への恐怖だけが張り付いている。
ここは最前線ではない。しかし、すでに彼らは何かに敗北しているように見えた。
「若様、ぼんやり突っ立ってると、野犬に足首を食いちぎられますぜ」
ウィルが、背中に自身の貧相な荷物と、トマスの兜や予備の武器を括り付けた袋を背負いながら、横を通り抜けた。彼はすでにこの泥の海に適応しようとしていた。歩幅を小さくし、足の裏全体で泥の表面を捉えるように歩くその姿は、這い回る虫のように卑屈だが、同時に極めて合理的だった。
「口を慎め、ウィル。ここは前線基地だ。俺たちは騎士として、この軍に組み込まれるのだ」
「へえへえ、立派な騎士様。ですがね、騎士様でも泥を食えば腹を下すし、雨に打たれりゃ風邪をひく。まずは雨露をしのげる場所を探すのが先決です。ほら、あの輜重馬車の陰なら、少しはマシな泥が敷いてありますよ」
ウィルの目は、周囲の絶望的な光景の中にあっても、ただ「自分が今日をどう生き延びるか」という一点のみに集中していた。彼は倒れた馬の死骸から少しでも肉を削ぎ落とせないか品定めし、泥に沈みかけた荷馬車の車輪の隙間に、一息つける空間をすばやく見つけ出していた。
トマスは、そんな従者の背中を見ながら、言いようのない苛立ちを覚えていた。
自分は騎士だ。没落寸前とはいえ、アシュボーン家の血を引き、銀の拍車を許された者だ。この泥に這いつくばって生きるために海を渡ってきたわけではない。武勲を立て、名を上げ、領地を取り戻す。そのためのフランス行なのだ。
「俺は部隊の編入先を探してくる。お前は馬の世話をしておけ。それから、俺の鎧の泥を落としておくんだ」
「泥を落とす? この泥の海の中でですか?」
ウィルが信じられないという顔でトマスを振り返った。
「ああ。錆が浮いている。油を引いて磨いておけ。上官に謁見する時、少しでも見栄えを良くしなければならない」
トマスがそう言い放つと、ウィルは一瞬、小馬鹿にするような笑いを浮かべかけたが、すぐにそれを飲み込み、大仰に肩をすくめた。
「御意のままに、マイ・ロード。ですがね、油なんてものはどこにもありゃしませんよ。俺の鼻の脂でも塗りつけておきましょうか」
「貴様……!」
「冗談ですよ。まあ、豚の脂の残りカスでも探してみます。若様はせいぜい、見栄えの良い部隊を見つけてきてくだせえ」
ウィルは背を向け、泥だらけの馬の口取りを引きながら、馬車の陰へと消えていった。
トマスはギリッと奥歯を噛み締めた。あいつは何も分かっていない。身分が違うのだ。農民の倅はただその日を生きればいいが、自分は家を背負い、騎士としての誇りを示さなければならない。この絶望的な泥の中でも、自分は彼らとは違う高みにいる存在でなければならないのだ。
しかし、その思い上がりは、数時間後にあっさりと打ち砕かれることになる。
野営地の中央、一段高くなった広場に、人だかりができていた。
そこだけは不思議と泥が少なく、石畳の残骸が顔を覗かせている。しかし、漂う空気は泥濘よりもさらに重く、冷酷だった。
トマスが人垣の隙間から覗き込むと、そこには四人の兵士が後ろ手に縛られ、泥の上に引き出されていた。彼らの足元には、数枚の銀貨と、血に染まった修道院の燭台が転がっている。略奪と逃亡を企てた者たちだ。
「静まれ」
低く、しかし野営地の隅々にまで届くような、鋼を打ち合わせたような声が響いた。
騒めきが嘘のように止む。咳払いの音すら消えた。
天幕の中から姿を現したのは、一人の大柄な騎士だった。
ジョン・タルボット。
のちに「フランスの恐怖」と恐れられる、イングランド軍の猛将である。
トマスは息を呑んだ。
タルボットは、吟遊詩人の物語に出てくるような、白馬に乗った輝かしい騎士ではなかった。彼が纏う甲冑は実戦の傷と凹みに塗れ、装飾など一切ない。それは彼自身の肉体の一部のように黒鈍く光っていた。兜を外した顔には無数の刀傷が走り、年齢は五十に手が届くほどだろうが、その肉体から発せられる圧倒的な暴力の気配は、周囲の空気を凍りつかせるほどだった。
何よりも恐ろしいのは、その双眸だ。冷たく、一切の感情を排した灰色の瞳。それは人間の目というより、獲物を値踏みする老いた狼のそれだった。
「略奪は軍法会議により禁じられている。逃亡は絞首刑だ」
タルボットは縛られた兵士たちを見下ろし、淡々と告げた。その声に怒りはない。ただ、冷徹な事実だけがあった。
「お許しください、閣下! 腹が……腹が減っていたのです! 三日も麦を支給されておらず……」
「黙れ」
兵士の一人が泥に顔を擦り付けて命乞いをするが、タルボットは一瞥もくれなかった。
「貴様らが飢えていることは知っている。この泥の海が地獄であることもな。だが、貴様らは王の兵だ。王の兵が規律を失えば、それはただの暴徒の群れとなる。暴徒にフランスは征服できん」
タルボットは腰の長剣を抜いた。鞘走る音が、静まり返った広場に鋭く響く。
装飾のない、無骨な処刑用の剣。
「我々がここで泥を啜るのは、いずれこの大地を我々の血で染め上げ、王のものとするためだ。規律なき流血に意味はない。フランスの魔女が幻術を使おうとも、神が我々を見捨てようとも、イングランドの軍紀だけは揺るがん」
それは、神仏への祈りではなく、鉄と血への絶対的な信仰宣言だった。
タルボットが剣を振り上げた。一閃。
命乞いをしていた兵士の首が、呆気なく宙を舞った。泥の上にどさりと落ちた胴体から、生温かい血が噴き出し、冷たい雨に混ざって流れていく。
悲鳴は上がらなかった。周囲の兵士たちは、ただ恐怖と畏敬に縛り付けられ、その光景を食い入るように見つめていた。
残りの三人も、次々と首をはねられていく。タルボットの剣筋には一切の迷いも、手加減もなかった。ただ、軍紀という名の巨大な歯車を回すための、冷徹な作業。
トマスは、その凄惨な処刑を目の当たりにしながら、恐怖よりも先に、腹の底から湧き上がる熱い痺れを感じていた。
圧倒的な力。絶対的な権力。
これだ。これこそが、中世の戦場を支配する「騎士」の真の姿なのだ。
教会の説く慈悲や、宮廷の優雅さなど、この泥の海では一文の価値もない。強大な暴力と、それを統制する冷酷な意志だけが、人間を従わせ、歴史を動かす。
トマスの胸の奥底で眠っていた、小貴族としての野心と、騎士道という名の虚栄心が、タルボットの血塗られた剣によって激しく揺さぶられていた。自分もあの位置に立ちたい。泥を這いつくばる虫ではなく、虫たちを足蹴にし、命を奪う権利を持つ者になりたい。
トマスの目は、熱に浮かされたようにタルボットの姿を追っていた。
「……反吐が出ますね」
ふと、背後から低い声が聞こえた。
振り返ると、いつの間にかウィルが立っていた。手には、泥を拭い、わずかな脂で黒光りさせたトマスの兜を持っている。
ウィルの目は、広場の中央で血の付いた剣を拭う猛将を、氷のように冷ややかに見つめていた。
「なに?」
「立派な御託を並べてやがりますがね、結局のところ、高いところに立ってる奴が、下っ端の命を安く買い叩いてるだけじゃねえですか。自分が飢えてるわけでもないくせに」
ウィルは短く、チッと舌打ちをした。
その音は、トマスの胸の中で燃え上がっていた熱を、冷や水で浴びせるように不快なものだった。
「貴様、あのタルボット閣下を侮辱する気か。あれこそが軍の規律であり、騎士の背負うべき重圧だ。平民のお前には理解できまいがな」
「ええ、理解できませんよ。俺たちに分かるのは、あの死体から剥ぎ取られたブーツを誰が貰えるのかってことだけです。軍紀だの騎士道だの、そんなもんで腹は膨れませんからね」
ウィルはトマスに兜を押し付けると、足元に転がっていた首のない死体の方へ、薄汚い野犬のような目を向けた。
「若様は、せいぜいあのおっかない将軍様に気に入られるように、背筋を伸ばしてなせえ。俺は、あの首なしが落とした銀貨を、他の奴らに拾われる前にかすめ取ってきますんで」
ウィルはそう言い残すと、再び泥の海へと這うように戻っていった。
トマスは兜を抱えたまま、立ち尽くした。
身分という見えない壁が、二人の間に深く、暗い溝を作り出しているのを感じていた。
トマスにとって、タルボットの姿は「到達すべき高み」であり、残酷な世界における秩序の象徴だった。しかし、ウィルにとってのタルボットは、自分たちの命をすり潰す「巨大な理不尽」そのものでしかない。
騎士と従者。主人と農奴。
同じ泥に塗れ、同じように海を渡り、同じ臭い飯を食い合いながらも、彼らが見ている世界は決定的に違っていた。封建社会という名の呪縛は、この血と排泄物に塗れたフランスの辺境にあっても、決して解けることはないのだ。
冷たい雨が、トマスの顔を打ち据える。
遠くで、再びフランス軍の大砲の音が、雷鳴のように響いた。
魔女ジャンヌ・ダルクは、まだ見えない。しかし、トマスは確かに、この残酷で底なしの泥沼に、両足の先まで沈み込んでいることを実感していた。




