第2話:海峡の吐き気
ドーバー海峡の波は、鉛色に濁った悪意の塊だった。
イングランド籍の徴用輸送船『海馬号』の船底は、さながら現世から切り離された煉獄の様相を呈していた。光はない。甲板の格子戸から僅かに漏れ落ちる灰色の筋だけが、この閉鎖された空間の輪郭を辛うじて浮かび上がらせている。
波が船体を持ち上げ、そして容赦なく叩きつける度、オーク材の船骨が断末魔のような軋み声を上げた。その音は、何百人もの男たちの呻き声と、馬たちの狂乱の嘶きにかき消されていく。
トマス・アシュボーンは、船底の最も暗い区画、吃水線よりさらに下の湿った板張りに背を預けていた。否、背を預けているというより、打ち捨てられた荷物のように転がっているというのが正確だった。
空気が、粘り気を帯びて重い。目を開けているだけで網膜が焼けるような錯覚に陥るのは、極度の換気不足により充満したアンモニア臭のせいだ。数十頭の軍馬が垂れ流す尿と、船底に溜まった腐臭を放つ汚水、そして船酔いに苦しむ兵士たちが撒き散らした嘔吐物が混ざり合い、発酵し、致死性の毒気となって淀んでいる。
王室の金庫は底を尽きかけていた。百年近く続くヴァロワ朝との王位継承戦争は、かつては栄光と富をもたらす略奪の場であったが、今やイングランドの国力を内側から食い破る寄生虫と化している。兵站を担う御用商人は利益を中抜きし、徴募官は頭数を揃えるために乞食や犯罪者を掻き集めた。
トマスの周囲の暗がりに転がっているのは、吟遊詩人が歌うような高潔な戦士たちではない。借金取りから逃げた男、農地を失った小作農、あるいは単にその日の酒代欲しさに徴募のサインをした浮浪者たちだ。彼らの着ている防刃着にはカビが生え、手にしている槍の柄は歪み、まともな鉄兜すら支給されていない。これが、フランスの泥濘へと送り込まれる大英帝国の「軍隊」の現実だった。
「クソッ、どきやがれ! 俺の足に吐くんじゃねえ!」
暗がりの中で、聞き慣れた野卑な声が響いた。従者のウィルだ。彼は大きく揺れる船内で器用にバランスをとりながら、折り重なって倒れる兵士たちの間を縫うようにしてトマスの元へ戻ってきた。
「若様、生きてますかい」
ウィルは泥と誰かの吐瀉物に塗れた顔を歪めながら、トマスの隣にどさりと腰を下ろした。その手には、薄汚れた布切れに包まれた何かがしっかりと握られている。
「配給だ。甲板の下っ端どもが俺たちの分までくすねようとしてたのを、脛を蹴り上げてふんだくってきましたぜ」
ウィルが布を開くと、そこには灰褐色の塊が二つ転がっていた。それは「海軍ビスケット」と呼ばれる、二度焼きされた携帯保存食だったが、およそ人間の食べ物とは思えない代物だった。
トマスは震える手でその塊を受け取った。重い。そして石のように硬い。
「小麦粉の代わりに、製材所の木屑と砕いた動物の骨が混ぜられてるって噂だ」
ウィルが鼻で笑いながら、自分の分の塊を乱暴に齧った。ガキッ、と歯が欠けるような鈍い音がする。
「それに、見てくだせえ。動く新鮮な肉のおまけ付きだ」
薄明かりに透かして見ると、ビスケットの表面に空いた無数の小さな穴から、黒いゾウムシが蠢きながら這い出してくるのが見えた。トマスの胃液が激しくせり上がる。しかし、吐き出そうにも胃の中には昨日から何一つ入っていない。ただ黄色い胆汁が喉の奥を焼くだけだ。
トマスの身を包む鎖帷子は、海風の塩分と船底の湿気を吸い込み、たった一晩で表面に赤錆の斑点を浮かび上がらせていた。三十ポンドの鉄の網が、呼吸をするたびに胸を締め付け、冷え切った体温をさらに奪っていく。足首の銀の拍車も泥と糞尿にまみれ、もはや鉛の塊にしか見えなかった。
「食わなきゃ、フランスの土を踏む前に死にますよ。死んだら、魔女の懸賞金はおろか、野良犬の餌になるだけだ」
ウィルが顎をしゃくった。彼はゾウムシごとビスケットを奥歯で砕き、少量の酸っぱい葡萄酒で無理やり飲み込もうとしている。喉を詰まらせ、咳き込みながらも、その目には動物的な生への執着がギラギラと光っていた。
トマスは塊を見つめ、やがて目を閉じると、それを口に運んだ。
硬い。前歯では到底歯が立たない。臼歯の奥に挟み込み、首の筋を立てて渾身の力で噛み砕く。口の中に広がったのは、古い蔵の埃と、カビと、血の味だった。歯茎から血が滲んでいるのだ。パサついた絶望の味を、胃液と共に無理やり飲み下す。
その時、これまでで最大の波が船体を横殴りに叩きつけた。
ドォーン!という大砲のような衝撃音と共に、船底全体が大きく傾く。
「うわぁっ!」
兵士たちが悲鳴を上げ、糞尿と汚水が溜まった低い方へと雪崩のように滑り落ちていく。しかし、本当の地獄はその後だった。
船の揺れと密室の恐怖に耐えかねた数十頭の軍馬たちが、完全にパニックに陥ったのだ。嘶きが狭い空間で反響し、鼓膜を劈く。巨大な蹄が中空を蹴り、繋留用の太いロープがちぎれんばかりに軋む。
「足をやられるぞ! 壁に張り付け!」
トマスは叫びながらウィルの襟首を掴み、船梁の隙間へと転がり込んだ。直後、彼らが今までいた場所のすぐ横で、ロープを引きちぎった一頭の焦茶色の半血馬が狂ったように暴れ回った。
暗闇の中で蹄がひらめき、鈍い音が響く。馬の足元に転がっていた運の悪い老兵が、頭蓋骨を砕かれ、声も上げずに絶命した。飛び散った血と脳漿の匂いが、瞬く間にアンモニア臭と混ざり合う。馬はさらに暴れ、周囲の兵士たちを容赦なく踏み躙った。骨の折れる音と絶叫が、暗黒の船底に木霊する。
誰も助けには来ない。甲板の上にいる将校たちにとって、船底の歩兵や下級騎士など、いざとなれば海に捨てる積荷以下の存在でしかないのだ。暴れる馬を止めることなど誰にもできず、ただ嵐が過ぎ去るのを、息を殺して祈るしかなかった。
数時間後。
トマスは荒い息を吐きながら、暗闇の中で血の味のするビスケットの残りを噛み砕いていた。隣ではウィルが、先ほど馬に踏み殺された老兵の死体に這い寄り、手早くその革袋を自分の懐に滑り込ませている。
トマスは何も言わなかった。
これが現実だ。騎士道、名誉、神の加護。そんなものは、この糞尿とゲロと死体に塗れた船底には存在しない。
「……聞こえるか、若様」
ウィルが這い戻ってきて、低い声で言った。
風の音に混じって、遠くから波が岩肌に砕ける音が聞こえ始めていた。船の揺れが、外海のものから沿岸のうねりへと変わっている。
頭上の格子戸の隙間から、薄汚れた灰色の光が差し込んでくる。
フランスだ。
百年続く流血の大地。狂信と略奪が支配し、見えない「魔女」が暗躍する泥濘の国。
トマス・アシュボーンは、錆びついた鎖帷子を軋ませながら、ゆっくりと立ち上がった。彼の目に宿っていた小貴族の青臭い虚栄心は、この地獄の一夜で完全に死に絶えていた。残ったのは、ただ這いつくばってでも生き延びてやるという、冷たく研ぎ澄まされた殺意だけだった。
「行くぞ、ウィル。豚小屋から、屠殺場への移動だ」
銀の拍車にこびりついた泥をブーツで蹴り落とし、若き騎士は灰色の光が漏れる甲板への階段を見上げた。




