プロローグ:錆びた鎖帷子と豚の鳴き声
イングランド十月の夜明けは、肺病を患った娼婦の吐息のように湿って冷たい。
アシュボーン家の傾きかけた石造りの館。その薄暗い土間で、トマスは藁の詰まった硬い寝台から身を起こした。息を吐くたびに白い靄が室内に滞留し、窓の隙間から吹き込む風が、中庭の豚の糞の臭いと、冷たい泥の匂いを運んでくる。
「おい、ウィル。俺の靴の中に小便をしたのはお前か」
トマスが嗄れた声で凄むと、部屋の隅の藁の山から、ボサボサの髪をした同い年の青年が這い出してきた。従者のウィルだ。孤児だったところを拾われた農民の倅だが、主に対する敬意などとうの昔に泥の中に捨ててきている。
「まさか。ネズミの小便でしょうよ、若様。それか、昨夜納屋で抱いたあのふくよかな厨房女の愛液が滴り落ちたんじゃないですかね。俺が抱いた時は、ひどく濡れる女でしたから」
「ふざけるな。あれは俺が銀貨半分で買った女だぞ」
「俺はタダでやりましたよ。あの女、若様の痩せた腰使いより、俺の太い指の方がお好みのようで」
ウィルはニヤリと黄ばんだ歯を見せ、トマスの寝台の脇にあった硬いライ麦パンの欠片を掠め取って齧った。トマスは躊躇なくウィルの脛を蹴り上げた。鈍い音が響き、ウィルが短く呻いてパンを落とす。トマスはそれを拾い上げ、埃を払うこともせずに自分の口に放り込んだ。酸味とカビの味がした。
これが、トマス・アシュボーンが持つ世界のすべてだった。領地を継ぐ長兄にも、教会に入った次兄にも見放された三男坊。あるのは、今日から海を渡り、フランスの泥沼の戦争へ身を投じるという現実だけだ。
「さっさと鎧を着せろ。日が高くなる前にドーバーへ向かう」
トマスが冷え切った土間に裸足を下ろすと、ウィルは舌打ちをしながらも重い木箱を開けた。防刃用の分厚いキルティングの鎧、アケトン。それを被ると、汗と古い油、そして何人もの先祖の死臭が入り混じった饐えた匂いが鼻を突いた。
次にウィルが持ち上げたのは、ところどころリングが欠損し、赤茶けた錆がこびりついた鎖帷子だ。父親が、痩せた土地の半分を担保に入れてまで買い戻してくれた代物である。
「腕を上げろ。関節が固まってやがる。これじゃあ、フランス兵の剣を弾く前に、破傷風で死にますぜ」
ウィルは手荒に鎖帷子を被せ、革の紐を力任せに締め上げた。ずしりとした三十ポンドの鉄の重みが、トマスの両肩に食い込む。呼吸が浅くなる。この暴力的な重さだけが、数ヶ月前の小競り合いで偶然得た「騎士」という称号の唯一の証明だった。
腰に回された剣帯。無骨なロングソードの重心は悪く、柄の革は擦り切れている。そして最後に、ウィルがトマスの踵に鈍く光る「銀の拍車」を取り付けた。
「フランスには、魔女がいるそうですぜ」
ウィルが拍車の金具を留めながら、下から見上げるように言った。その目には、怯えと同時に下卑た好奇心が浮かんでいた。
「オルレアンの包囲を破った、悪魔の女だと。味方の軍勢が、そいつの幻術で次々と腸をぶちまけて死んでるとか。若様、そんな化け物の首を獲る前に、俺たちは熱病で犬みたいに死ぬんじゃないですかね」
「魔女だろうが聖女だろうが、首と胴体が繋がっているただの雌だ」
トマスは兜の面頬を指で弾き、冷たい鉄の感触を確かめた。
「鉄を突き立てれば血が出る。そして、その首にはイングランド王室から莫大な懸賞金がかかっている。お前も一生、豚の糞を掻き出して死にたくなければ、俺の背中を守れ。魔女の首を獲ったら、あの厨房女よりも上等な、絹の衣を着た娼婦を何人も抱かせてやる」
「違いねえ。若様が後ろから小便を漏らして逃げ出さないように、しっかり見張っててやりますよ」
強がりを言い合いながらも、二人の胃の腑は鉛のように重く沈んでいた。
中庭に出ると、細かい氷雨が降り始めていた。泥が薄い革靴に纏わりつく。繋がれていた気性の荒い芦毛の半血馬が、苛立たしげに嘶き、蹄でぬかるんだ地面を蹴り上げた。
見送りなどない。家族はまだ起きてこない。減る口の数を計算し、静かに安堵しているのだろう。
トマスは鞍にまたがり、ウィルは自身の貧相な荷物を背負って馬の口取りを引いた。冷たい雨が顔を打ち、兜の隙間から首筋へと流れ込んでくる。
トマスは銀の拍車を馬の腹に荒く当てた。馬は泥を跳ね上げ、不満げに鼻を鳴らしながら歩き出す。
神の栄光も、吟遊詩人が歌うような華やかな騎士道も、ここには一切ない。
あるのは、錆びた鉄の匂いと、生きるための生々しい欲望、そして絶対的な貧困だけだ。没落寸前の若き騎士と、小狡い泥犬のような従者。二人は、まだ見ぬ「魔女」の幻影と莫大な富を夢見て、灰色の雨の中をドーバー海峡へと向けて歩み出した。
それが、彼らを果てしない狂気と流転の日々へ引きずり込む、残酷な旅の始まりであった。




